春 - 二度目の対話
それから一週間後、私は用事があるわけでもないのに川沿いへ向かった。
サークルの活動日はまだ先だった。鍋も、段ボールの列もない。ただ、いつもより少し明るい空と、風に揺れる川面があるだけだ。
自分でも理由をうまく説明できないまま、足があの場所へ向かっていた。
よっさんは、前と同じ場所に座っていた。毛布を肩にかけ、膝の上で指を組んでいる。その姿は、周囲の風景に溶け込みながら、なぜか輪郭だけがはっきりしている。
私に気づくと、彼はわずかに顎を上げた。
「おや、アユミ嬢。今日は鍋が見当たらぬな」
「はい。今日はサークルの活動じゃなくて……」
言い淀む。説明の続きを探していると、彼は微笑んだ。
「散歩ということにしておこう」
私は頷いた。そう言われると、少しだけ肩の力が抜ける。
川の水は、先週よりも光を多く含んでいる。春が一歩進んだようだった。
「この前の問い、考えたかね」
唐突ではあったが、予想していなかったわけではない。
「少しは」
私は正直に言う。
「なぜここにいるのか、っていうのは……まだうまく言えません。でも、誰かの役に立ちたい、っていうだけじゃ足りない気がして」
よっさんは黙って聞いている。
「助ける側に立てている理由も、運だけじゃ説明できないような気がしてきました」
言葉にしてみると、心の中で絡まっていた糸が少しほどける。
「ほう」
よっさんは川面に視線を移す。
「では、今日は別の角度から尋ねよう」
彼は指先で空をなぞるように動かしながら言った。
「君は、“助ける”という言葉を、どこまで信じているかな」
私は一瞬、返事に詰まる。
「どこまで、というのは……」
「助ける、とは何を指すのだろう。腹が満たされることか。雨をしのげることか。それとも、別の何かか」
私は先週の炊き出しの光景を思い出す。味噌汁を受け取った人たちの手。深く下げられた頭。湯気。
「あのときは、温かいものを渡せたことが助けることだと思ってました」
「今は違うのかね」
「……それだけじゃない気がします」
よっさんは小さく頷いた。
「では、もう一つ」
彼は私を見た。その視線はやわらかいが、逃げ道を与えない。
「君は、助ける相手を選んでいないかね」
胸の奥が、わずかに揺れる。
「選ぶ、って……」
「目の前に列があれば、そこにいる人を助ける。では、列の外にいる者はどうだろう。見えぬ場所にいる者は」
私は言葉を失う。
炊き出しの列は、目に見える。人数もわかる。そこにいる人たちは、支援を受けると決めて並んでいる。けれど、支援を拒む人や、そもそもその場に来ない人もいる。
私は、その人たちを想像したことがあっただろうか。
「全部は無理です」
思わずそう口に出す。
「全部を助けることはできません」
よっさんは微笑む。
「その通り。人は有限だ」
彼は少し間を置いた。
「だが、有限であることと、見ようとしないことは、同じではない」
川を渡る風が、毛布の端を揺らす。
私は足元のアスファルトを見つめる。小さなひび割れに、砂が入り込んでいる。
「私は……目の前のことだけで精一杯です」
それは言い訳だろうか。それとも正直な告白だろうか。
よっさんは責める様子を見せない。
「若い人が精一杯であることは、健全だ」
そして、少しだけ声を落とした。
「だが、問いは時に、視野を広げるためにある」
私は顔を上げる。
「君がここにいる理由。それは、誰かのためだけだろうか。それとも、自分のためでもあるのかな」
その問いは、静かに胸に落ちた。
自分のため。
炊き出しのあと、どこか満ち足りた気持ちになったことを思い出す。役に立てた、という実感。それが私を少し誇らしくさせた。
「……自分のためでも、あるかもしれません」
言葉にすると、頬がわずかに熱くなる。
よっさんは満足げに目を細めた。
「それでよい」
彼はゆっくり立ち上がる。
「自分のためであることを認められる者は、まだ誠実だ」
毛布を整え、空を見上げる。
「次に会うときまでに、もう一つ考えてみるとよい。“助ける”ことが、相手にとって望ましいとは限らぬ場合もある」
私は息を呑む。
その可能性を、私はまだ深く考えていなかった。
「では、アユミ嬢」
彼は軽く会釈をする。
「春は短い。問いを抱えて歩きたまえ」
背中がゆっくりと遠ざかる。
私はその場に立ち尽くす。川面が光を反射し、目が少し眩む。
助けるとは何か。
誰のために、ここにいるのか。
問いは、前よりも一段深いところに触れている。
けれど不思議と、逃げたいとは思わなかった。
私はもう一度、川の流れを見つめた。水は絶えず動いている。同じ場所に見えて、同じではない。
問いも、そういうものなのかもしれない。




