表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
よっさん  作者: 斉彬
3/31

春 - 二度目の対話

 それから一週間後、私は用事があるわけでもないのに川沿いへ向かった。


 サークルの活動日はまだ先だった。鍋も、段ボールの列もない。ただ、いつもより少し明るい空と、風に揺れる川面があるだけだ。


 自分でも理由をうまく説明できないまま、足があの場所へ向かっていた。


 よっさんは、前と同じ場所に座っていた。毛布を肩にかけ、膝の上で指を組んでいる。その姿は、周囲の風景に溶け込みながら、なぜか輪郭だけがはっきりしている。


 私に気づくと、彼はわずかに顎を上げた。


 「おや、アユミ嬢。今日は鍋が見当たらぬな」


 「はい。今日はサークルの活動じゃなくて……」


 言い淀む。説明の続きを探していると、彼は微笑んだ。


 「散歩ということにしておこう」


 私は頷いた。そう言われると、少しだけ肩の力が抜ける。


 川の水は、先週よりも光を多く含んでいる。春が一歩進んだようだった。


 「この前の問い、考えたかね」


 唐突ではあったが、予想していなかったわけではない。


 「少しは」


 私は正直に言う。


 「なぜここにいるのか、っていうのは……まだうまく言えません。でも、誰かの役に立ちたい、っていうだけじゃ足りない気がして」


 よっさんは黙って聞いている。


 「助ける側に立てている理由も、運だけじゃ説明できないような気がしてきました」


 言葉にしてみると、心の中で絡まっていた糸が少しほどける。


 「ほう」


 よっさんは川面に視線を移す。


 「では、今日は別の角度から尋ねよう」


 彼は指先で空をなぞるように動かしながら言った。


 「君は、“助ける”という言葉を、どこまで信じているかな」


 私は一瞬、返事に詰まる。


 「どこまで、というのは……」


 「助ける、とは何を指すのだろう。腹が満たされることか。雨をしのげることか。それとも、別の何かか」


 私は先週の炊き出しの光景を思い出す。味噌汁を受け取った人たちの手。深く下げられた頭。湯気。


 「あのときは、温かいものを渡せたことが助けることだと思ってました」


 「今は違うのかね」


 「……それだけじゃない気がします」


 よっさんは小さく頷いた。


 「では、もう一つ」


 彼は私を見た。その視線はやわらかいが、逃げ道を与えない。


 「君は、助ける相手を選んでいないかね」


 胸の奥が、わずかに揺れる。


 「選ぶ、って……」


 「目の前に列があれば、そこにいる人を助ける。では、列の外にいる者はどうだろう。見えぬ場所にいる者は」


 私は言葉を失う。


 炊き出しの列は、目に見える。人数もわかる。そこにいる人たちは、支援を受けると決めて並んでいる。けれど、支援を拒む人や、そもそもその場に来ない人もいる。


 私は、その人たちを想像したことがあっただろうか。


 「全部は無理です」


 思わずそう口に出す。


 「全部を助けることはできません」


 よっさんは微笑む。


 「その通り。人は有限だ」


 彼は少し間を置いた。


 「だが、有限であることと、見ようとしないことは、同じではない」


 川を渡る風が、毛布の端を揺らす。


 私は足元のアスファルトを見つめる。小さなひび割れに、砂が入り込んでいる。


 「私は……目の前のことだけで精一杯です」


 それは言い訳だろうか。それとも正直な告白だろうか。


 よっさんは責める様子を見せない。


 「若い人が精一杯であることは、健全だ」


 そして、少しだけ声を落とした。


 「だが、問いは時に、視野を広げるためにある」


 私は顔を上げる。


 「君がここにいる理由。それは、誰かのためだけだろうか。それとも、自分のためでもあるのかな」


 その問いは、静かに胸に落ちた。


 自分のため。


 炊き出しのあと、どこか満ち足りた気持ちになったことを思い出す。役に立てた、という実感。それが私を少し誇らしくさせた。


 「……自分のためでも、あるかもしれません」


 言葉にすると、頬がわずかに熱くなる。


 よっさんは満足げに目を細めた。


 「それでよい」


 彼はゆっくり立ち上がる。


 「自分のためであることを認められる者は、まだ誠実だ」


 毛布を整え、空を見上げる。


 「次に会うときまでに、もう一つ考えてみるとよい。“助ける”ことが、相手にとって望ましいとは限らぬ場合もある」


 私は息を呑む。


 その可能性を、私はまだ深く考えていなかった。


 「では、アユミ嬢」


 彼は軽く会釈をする。


 「春は短い。問いを抱えて歩きたまえ」


 背中がゆっくりと遠ざかる。


 私はその場に立ち尽くす。川面が光を反射し、目が少し眩む。


 助けるとは何か。


 誰のために、ここにいるのか。


 問いは、前よりも一段深いところに触れている。


 けれど不思議と、逃げたいとは思わなかった。


 私はもう一度、川の流れを見つめた。水は絶えず動いている。同じ場所に見えて、同じではない。


 問いも、そういうものなのかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ