冬 - 触れられない距離
十二月の終わりが近づくと、空気はさらに乾き、音が遠くまで通るようになった。
朝の駅前で、人の足音が硬く響く。
コート同士が擦れる音や、鞄の金具が触れ合う音が、はっきりと聞こえる。
アユミはその中を歩いていた。
人の流れに合わせて進みながら、少しだけ歩幅を緩める。
急ぐ理由はない。
遅れて困ることもない。
それでも、周囲の速さとはどこか合っていなかった。
大学に着くと、講義の前に少し時間があった。
建物の中に入らず、そのまま外を歩く。
空は低く、薄い雲が広がっている。
日差しはあるが、温かさはほとんど感じられない。
アユミはそのまま歩き続ける。
考えているわけではない。
ただ、立ち止まるきっかけがなかった。
やがて、足が川の方へ向かう。
意識して選んだわけではない。
何度も通った道が、そのまま身体に残っている。
同じ角を曲がり、同じ坂を下る。
景色は変わっている。
けれど、道は同じだった。
川沿いに出る。
風が強い。
水面が細かく波立っている。
ベンチが見える。
アユミは少し離れたところで足を止める。
そこにあるものは、前と変わらない。
木の板。
支える脚。
少し色の落ちた表面。
誰も座っていない。
そのまま近づく。
足音が乾いた音を立てる。
ベンチの前に立つ。
何かが違うわけではない。
ただ、そこにあるはずのものが、ない。
アユミは座らない。
しばらく立ったまま、川を見る。
水は流れている。
前と同じように。
けれど、その前がいつなのか、はっきりしない。
風が吹く。
頬に当たる。
少し痛い。
アユミはポケットに手を入れる。
指先が冷えている。
その感覚だけが、はっきりしていた。
やがて、近くを歩いていた人の声が聞こえる。
断片的な会話。
意味はつながらない。
ただ、音だけが通り過ぎていく。
アユミは一度だけ、ベンチの端を見る。
誰かが座っていた位置。
そこに残っているものはない。
跡も、形もない。
ただ、空いているだけだった。
それで十分だった。
アユミはゆっくりと息を吐く。
白くなって、風に流れる。
手を出す。
ベンチの背もたれに軽く触れる。
冷たい。
すぐに手を離す。
それ以上は確かめない。
座ることも、しない。
振り返ることもなく、歩き出す。
足音が少し速くなる。
意識しているわけではない。
ただ、その場に留まる理由がなくなっていた。
川の音が後ろに遠ざかる。
風の強さも変わる。
道を上がり、街の中へ戻る。
人の数が増える。
音が重なる。
アユミはその中に入る。
さっきまで見ていた場所は、もう視界にない。
それでも、消えたわけではなかった。
ただ、触れられないところに移っただけだった。
アユミは歩きながら、何も考えない。
問いを思い出そうともしない。
それでも。
何かを選ぶとき、その基準はすでに変わっている気がした。
誰かの隣に座ること。
それはもう、言葉として考えるものではなかった。
気づけば、そうしている。
あるいは、そうしないことを選んでいる。
その違いだけが、静かに残る。
信号が変わる。
人の流れが止まり、また動き出す。
アユミはその中を渡る。
冬の空気は冷たい。
けれど、その冷たさに慣れ始めていた。
振り返らない。
振り返る必要もなかった。
そこにあったものは、もう別の形で残っている。




