冬 - 残された形
十二月の午後、光は低く、窓際の床を細長く照らしていた。
アユミは講義室の後ろの席に座っていた。
前方では、教授が淡々と話を続けている。
黒板に書かれた言葉は整っていて、どれも理解できるものだった。
ノートを取る手は動いている。
けれど、その速さはどこか一定ではなかった。
書いて、止まる。
また書いて、少し間が空く。
ページの途中に、白い余白が残る。
隣の席では、ペンの走る音が途切れない。
同じ講義を受けているはずなのに、時間の進み方が少し違って感じられた。
アユミは手を止める。
黒板を見る。
そこにある言葉は、さっきまでよりも少し遠くに見えた。
窓の外に目を向ける。
枝だけになった木が、風に揺れている。
葉はもうほとんど残っていない。
形だけが、空に浮かんでいる。
何が落ちて、何が残ったのか。
その区別は、はっきりとはわからない。
講義が終わる。
椅子が引かれる音が重なる。
人の流れができる。
アユミは少し遅れて立ち上がる。
急ぐ理由はない。
廊下に出ると、冷たい空気が少しだけ入り込んでいる。
窓が開いていた。
細い風が通り抜ける。
誰かが「寒い」と言って、窓を閉める。
音が一つ、消える。
アユミはそのまま歩き出す。
相談室の前を通る。
ドアは閉まっている。
中の様子はわからない。
掲示板に貼られた紙が目に入る。
受付時間の案内。
連絡先。
前と同じ配置のまま、少しだけ紙の端が丸まっている。
アユミは立ち止まる。
手を伸ばすわけでもなく、ただ見る。
ここに来ていた時間を思い出す。
何かが変わったわけではない。
それでも、そこにいたという感覚だけが残っている。
通り過ぎる。
階段を降りる。
外に出ると、空気がはっきりと冷たい。
息が白くなる。
すぐには消えない。
アユミは少しだけ立ち止まり、その様子を見ていた。
やがて、ゆっくり歩き出す。
行き先は決めていない。
ただ、足は止まらない。
キャンパスの端まで来る。
人の数が少し減る。
音も少し遠くなる。
ベンチがいくつか並んでいる場所に出る。
川沿いではない、建物の影にある場所だった。
誰も座っていない。
アユミはその一つに腰を下ろす。
背もたれは冷たかった。
手袋をしていない指先に、その温度が伝わる。
しばらく、何も考えない。
ただ、座っている。
遠くでボールの弾む音がする。
誰かが笑っている。
それもすぐに途切れる。
時間だけが残る。
足音が近づく。
アユミの前を通り過ぎて、少し先で止まる。
振り返ると、一人の学生が立っていた。
座るかどうか迷っているようだった。
アユミは何も言わない。
視線を戻す。
少しして、その人は同じベンチの端に腰を下ろす。
距離はある。
言葉はない。
風が建物の間を抜ける。
冷たい空気が二人の間を通る。
その人は前を向いたまま、動かない。
ポケットに手を入れ、肩を少しすくめている。
やがて、小さく息を吐く。
白くなって、少しだけ残る。
「……なんか」
声が落ちる。
独り言のようだった。
「全部、遅れてる気がして」
アユミは横を見ない。
そのまま前を見る。
「そういう感じ、ありますよね」
短く言う。
それ以上は続けない。
その人は少しだけうなずく。
何かを言い足そうとして、やめる。
また、静かな時間が戻る。
無理に続ける必要はなかった。
会話が途切れても、そのままでいられる。
それだけで十分だった。
やがて、その人は立ち上がる。
小さく会釈をする。
アユミも軽くうなずく。
それだけで終わる。
足音が遠ざかる。
ベンチには、また一人だけが残る。
アユミはしばらく動かない。
さっきの言葉が、はっきりと残っているわけではない。
けれど、その重さだけが、少しだけ残っている。
何かを変えたわけではない。
何かを解決したわけでもない。
それでも。
同じ場所にいた時間があった。
それだけは、確かだった。
アユミはゆっくり立ち上がる。
手をポケットに入れる。
冷たさはまだ残っている。
歩き出す。
どこへ向かうかは決めていない。
けれど、足は自然に前に出る。
残されたものは多くない。
それでも、消えてはいなかった。




