秋 - 小さな決断
十一月の午後、空は薄く広がり、光はやわらかく地面に落ちていた。
大学の廊下を歩くと、窓の外に色づいた木々が見える。
赤と黄色が混ざり合い、風に揺れるたびに、少しずつ形を変えていく。
アユミは相談室の前で足を止めた。
ドアの向こうには、いつもの机と椅子がある。
何度か出入りした場所だった。
それでも、入る前にはわずかにためらいが残る。
ノックをして中に入る。
室内は静かで、時計の音だけが小さく響いていた。
担当の職員が顔を上げる。
「こんにちは」
「こんにちは」
アユミは会釈をして、椅子に座る。
机の上には紙とペンが置かれている。
白い紙は、どこか見慣れていた。
少しして、ドアが開く。
一人の学生が入ってくる。
肩にかけたバッグをそのままに、椅子に座る。
視線は下を向いたままだった。
職員が簡単に説明をする。
ここで話せること。
守秘のこと。
言葉は整っている。
学生は小さくうなずく。
順番が回ってくる。
アユミはその人を見る。
何を言えばいいのか、すぐには決まらない。
それでも、口を開く。
「今日は、どうされましたか」
用意された言葉だった。
学生はしばらく答えない。
手元の指が、軽く動いている。
やがて、小さく言う。
「……別に」
それだけだった。
それ以上は続かない。
部屋の空気が、その言葉のあとに残る。
アユミはすぐに言葉を重ねなかった。
何かを聞き出そうとはしない。
机の上の紙を見る。
何も書かれていない。
ペンはそのまま置かれている。
学生は視線を上げない。
ただ、そこに座っている。
時間だけが少しずつ進む。
時計の針が動く音が、かすかに聞こえる。
アユミは何も言わない。
沈黙を埋める言葉を探さなかった。
そのまま、同じ空間にいる。
それだけだった。
しばらくして、学生が口を開く。
「……授業、あんまり出てなくて」
言葉は小さかった。
誰に向けたものでもないような声だった。
アユミは顔を上げる。
「そうなんですね」
それだけ言う。
評価もしない。
理由を求めない。
学生は少しだけ肩の力を抜く。
「別に、行けないわけじゃないんですけど」
言葉が途切れる。
「なんか、行く意味がわからなくて」
視線はまだ下を向いている。
アユミはうなずく。
「意味がわからない感じなんですね」
言葉をそのまま返す。
少しだけ形を整える。
学生は小さくうなずく。
「はい」
それだけだった。
それ以上は続かない。
また、静かな時間が戻る。
アユミは何も急がない。
何かを変えようとしない。
ただ、そこに座っている。
同じ机を挟んで、同じ時間を過ごす。
外で風が動く音がする。
窓の向こうで葉が揺れる。
学生は少しして立ち上がる。
「すみません」
小さく言う。
「今日は、これで」
アユミはうなずく。
「はい」
それ以上は引き止めない。
学生は部屋を出ていく。
ドアが静かに閉まる。
音は小さかった。
机の上には、何も残っていない。
紙も、ペンも、そのままの位置にある。
何かが変わったようには見えない。
それでも、さっきまで誰かがそこにいた感触だけが残る。
アユミはしばらく動かなかった。
それから、ゆっくり立ち上がる。
相談室を出る。
外の空気は少し冷えていた。
空は高く、光は薄く広がっている。
アユミはそのまま歩き出す。
行き先を決める必要はなかった。
足は自然と川の方へ向かう。
道は覚えている。
同じ場所を、何度も通ってきた。
川沿いの道に出ると、風が頬に触れる。
ベンチが見える。
よっさんが座っていた。
アユミは隣に座る。
何も言わない。
少ししてから、口を開く。
「今日、相談室に行きました」
よっさんはうなずく。
「うん」
それだけだった。
アユミは続ける。
「何も、できませんでした」
その言葉は、以前にも口にしたことがある。
けれど、少しだけ意味が違っていた。
よっさんは川を見る。
「そうか」
変わらない答えだった。
アユミは言う。
「でも」
言葉を探す。
「前と、少し違う気がします」
はっきりとは説明できない。
それでも、確かに違っていた。
よっさんは視線を向ける。
「どのように」
静かな問いだった。
アユミは少し考える。
相談室の机。
座っていた時間。
交わしたわずかな言葉。
「無理に、何か言おうとしませんでした」
ゆっくり言う。
「ただ、そこにいました」
それが一番近い表現だった。
よっさんは小さく頷く。
「なるほど」
それ以上は言わない。
川の流れを見る。
「それで、よいのかもしれないね」
穏やかな声だった。
評価ではない。
確認に近い響き。
風が通る。
水面が揺れる。
アユミはその言葉を聞く。
何かがはっきりしたわけではない。
けれど、さっきの時間が否定されなかったことだけが残る。
よっさんは立ち上がる。
杖を手に取る。
「小さなことは」
ゆっくり言う。
「気づきにくいが、消えないものだ」
それだけ言う。
歩き出す。
背中は、いつもと同じだった。
アユミはベンチに残る。
川の流れを見る。
何も変わっていないように見える。
それでも、同じではない時間があった。
それが何になるのかは、まだわからない。
ただ、そこにあったことだけは、はっきりしていた。




