秋 - 選ばなかった道
十月の終わり、昼の光はやわらかくなり、夏の名残をゆっくりと手放し始めていた。
キャンパスの木々は、まだ緑を保ちながらも、ところどころに色の変化を含んでいる。
風が吹くたび、乾いた葉がひとつずつ枝から離れ、地面に落ちていった。
アユミは中庭のベンチに座り、膝の上に開いたノートをしばらく見つめていた。
白いページには、いくつか言葉を書いては消した跡が、薄く重なって残っている。
インターン、説明会、エントリー。
並べてみても、それらはまだ現実の手触りを持たず、どこか遠い場所の出来事のように感じられた。
ペンを持つ手が止まり、書きかけた文字の続きはそのまま空白になった。
消し跡だけが、そこに何かを書こうとした痕跡として残っている。
「ここにいたんだ」
後ろからミカの声がして、アユミは顔を上げた。
「うん」
短く答えると、ミカは自然な動きで隣に腰を下ろす。
手には、何枚か重なった企業のパンフレットが握られていた。
「説明会、行ってきた」
そう言って軽く振ると、紙の端が風に揺れた。
「どうだった?」
アユミが尋ねる。
ミカは少し考えてから、肩の力を抜くように言った。
「思ったより普通だったかな」
「普通?」
「うん、なんていうか、ちゃんと働く感じ」
少し笑いながら言うその言葉に、アユミも小さく笑う。
風が二人の間を通り抜け、パンフレットの端を持ち上げた。
ミカはそれを押さえながら続ける。
「でも、たぶんこういうのなんだろうなって思った」
ページをめくると、整った写真と説明文が並んでいる。
「安定してて、仕組みがあって、ちゃんとしてる感じ」
「うん」
アユミは軽くうなずく。
ミカは視線を落としたまま言う。
「悪くないと思う」
その言い方は、どこか納得に近い響きを持っていた。
アユミはノートに目を戻す。
そこに書かれた言葉は、さっきから何も変わっていない。
ミカがふと顔を上げる。
「アユミは、どうするの?」
その問いは軽く投げられたものだったが、受け取るとそのままにしておけない重さがあった。
アユミは少し考え、言葉を探す。
「まだ、あんまり」
曖昧な答えだった。
ミカはそれを聞いて、小さくうなずく。
「だよね」
責めるような響きはなく、ただ事実を確認するような声だった。
しばらくのあいだ、二人の間に風の音だけが流れる。
遠くから学生たちの話し声がかすかに届いてくる。
ミカがゆっくり口を開く。
「サークルのことなんだけどさ」
アユミは顔を上げる。
「うん」
ミカは手にしていたパンフレットを閉じる。
「私、やめようと思ってる」
その言葉は静かで、すでに何度も自分の中で確かめられてきたようだった。
アユミはすぐには返事をしない。
風が木々を揺らし、葉の触れ合う音が少し長く続く。
「そっか」
やがてそう言う。
ミカはうなずく。
「就活もあるし、それに」
少しだけ言葉を探すように視線を動かす。
「なんか、向いてない気がする」
アユミはその言葉をそのまま受け取る。
否定も肯定もせずに聞いている。
ミカは続ける。
「昨日さ、橋の下のこと思い出してて」
少しだけ笑う。
「なんか、何してるんだろうって思った」
声は弱くはなかった。
むしろ、はっきりとした輪郭を持っていた。
「変わらないし、ありがとうって言われるわけでもないし」
パンフレットの角を指でなぞりながら言う。
「だったら、自分のことちゃんとした方がいいのかなって思って」
アユミはその言葉を聞く。
どこにも無理がなく、筋の通った考え方だった。
その通りだとも思う。
ミカはアユミの方を見る。
「アユミは?」
問いが戻ってくる。
アユミは少しだけ時間を置く。
ノートに残る消し跡を見つめる。
まだ何も形になっていない状態。
それから顔を上げる。
「まだ、わからない」
それが今の正直な答えだった。
ミカは小さく笑う。
「そっか」
立ち上がり、パンフレットを持ち直す。
「でも、たぶん」
少しだけ振り返る。
「そのままだよね、アユミは」
やわらかい言い方だった。
決めつけるというより、理解している人の声だった。
アユミは答えない。
ミカは手を軽く振る。
「じゃあね」
「うん」
そのまま歩き出し、人の流れの中に自然に溶けていく。
やがて姿が見えなくなる。
アユミはベンチに残ったまま、しばらく動かなかった。
風が吹き、ノートのページが一枚だけめくれる。
手で押さえると、紙の感触が指先に残る。
選ぶ、ということを考える。
何かを取ることと、何かを置いていくこと。
さっきの言葉が頭の中に残っている。
向いてない気がする、という言い方。
変わらない、という現実。
それでも。
アユミはノートを閉じる。
ゆっくりと立ち上がる。
行き先は決めていなかったが、足は自然といつもの方向へ向いていた。
キャンパスを出ると、空は少し高く見え、光は弱くなり始めている。
川の方へ歩くと、風はさっきよりも冷たく感じられた。
ベンチが見える。
よっさんが、いつもと同じようにそこに座っていた。
アユミは隣に座る。
すぐには何も言わない。
川の流れる音が、静かに続いている。
やがて、よっさんが口を開く。
「季節が進んだね」
アユミは小さくうなずく。
「はい」
少ししてから言う。
「サークルの友達が、やめるそうです」
よっさんは軽く頷く。
「そうか」
それ以上は問わない。
アユミは川の流れを見る。
「間違ってないと思います」
自分の中で確かめるように言う。
「その通りだろうね」
よっさんは静かに答える。
否定はなかった。
アユミは続ける。
「でも、自分がどうするかは、まだ決められません」
よっさんはアユミの方を見る。
少しだけ目を細める。
「決める、とは」
穏やかな声で言う。
「何を指しているのだろう」
問いだけが残る。
アユミは答えない。
言葉はまだ形にならない。
よっさんは再び川の方へ視線を向ける。
「人はよく、道を選ぶと言うが」
杖の先で地面を軽くなぞる。
「実際には、選ばなかったものが形を決めることも多い」
風が吹き、水面がわずかに揺れる。
アユミはその言葉を聞く。
ミカの背中を思い出す。
去っていく姿と、手にしていたパンフレット。
閉じられたページ。
よっさんはゆっくり立ち上がる。
「急ぐ必要はない」
それだけ言って歩き出す。
アユミはその背中を見送る。
呼び止めない。
川の音は変わらず流れ続けている。
ベンチに残りながら、アユミは考える。
選ばなかったもの。
まだ形にならないもの。
それは、見えないまま、どこかで続いている気がした。




