表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
よっさん  作者: 斉彬
23/31

秋 - 優しさの限界

 十月の終わり、夜の風ははっきりと冷たくなっていた。


 夜回りの集合場所は、駅から少し離れた高架下だった。

 昼間は人通りの多い通りも、この時間になると足音がまばらになる。


 アユミは段ボール箱を持ち、他のメンバーと並んでいた。


 中には軽食とペットボトルの水、簡単な防寒具が入っている。


 リーダーが手短に説明する。


 「今日は三班に分かれます。無理に関わろうとしないこと。必要があれば声をかけてください」


 いつもと同じ言葉だった。


 アユミはミカと同じ班になった。


 二人で歩き出す。


 街灯の光が道の端に偏って落ちている。

 その外側は暗く、建物の影が深い。


 「久しぶりだね、この辺」


 ミカが言う。


 「うん」


 アユミは前を見る。


 この道は覚えている。


 夏に来たことがある。


 あのとき、声を荒げた男性がいた。

 そして、もう一人。


 何も受け取らなかった女性。


 橋の手前で、二人は足を止める。


 川の匂いがわずかに混ざる。


 橋の下は風が通る。

 音が少し低くなる。


 アユミは目を凝らす。


 暗がりの中に、人の形があった。


 座っている。


 壁に背を預けている。


 「……あの人」


 小さく呟く。


 ミカも気づく。


 「前の人?」


 アユミはうなずく。


 近づく。


 足音をなるべく小さくする。


 女性は顔を上げた。


 以前と同じだった。


 年齢ははっきりしない。

 髪は肩のあたりで乱れている。

 厚手の上着を着ているが、どこか頼りない。


 目だけが、はっきりとこちらを見ていた。


 アユミは立ち止まる。


 距離を取りすぎず、近づきすぎない位置。


 「こんばんは」


 声をかける。


 女性は答えない。


 ただ、視線を外さない。


 アユミは手に持っていた袋を少し持ち上げる。


 「食べ物と、あたたかいものがあります」


 女性はゆっくり首を横に振った。


 言葉はなかった。


 拒絶の仕方も、前と同じだった。


 アユミはそれ以上近づかない。


 無理に差し出すこともしない。


 風が通る。


 橋の下の空気が動く。


 ミカが隣で様子を見ている。


 アユミは少し考える。


 それから言う。


 「この前も、お会いしました」


 女性の目がわずかに動く。


 「覚えてます」


 返事はない。


 けれど視線が揺れた。


 アユミは続ける。


 「そのときも、いらないって言ってました」


 風が吹く。


 袋の中でペットボトルが触れ合う音がする。


 女性は短く言った。


 「いらない」


 はっきりした声だった。


 前よりも少しだけ強い。


 アユミはうなずく。


 「わかりました」


 それ以上、押さない。


 しばらくそこに立つ。


 何かをするわけでもない。


 ただ、同じ場所にいる。


 女性は視線を外す。


 壁の方を見る。


 アユミは言葉を探す。


 何か役に立つことを言うべきなのか。

 それとも、何も言わない方がいいのか。


 夏の自分なら、きっともっと話しかけていた。


 今は少し違う。


 ミカが小さく言う。


 「行く?」


 アユミは頷きかける。


 そのとき、女性が言った。


 「前も来たよね」


 アユミは顔を上げる。


 「はい」


 女性は続ける。


 「こういう人、よく来る」


 声は平坦だった。


 「食べ物くれる人」


 「話しかけてくる人」


 少しだけ笑う。


 その笑いは、軽くも重くもなかった。


 「優しい人」


 アユミは何も言えない。


 女性は壁に背をつけたまま、言葉を続ける。


 「でもさ」


 視線をこちらに戻す。


 「何も変わらないんだよね」


 その言い方は、責めるものではなかった。


 ただ事実を言っているだけだった。


 川の音が遠くで続いている。


 車が橋の上を通る。


 その振動が、わずかに空気に伝わる。


 アユミは袋を持ったまま立っている。


 何かを言おうとする。


 けれど言葉がうまく出てこない。


 「……すみません」


 出てきたのは、その一言だった。


 女性は首を振る。


 「謝らなくていい」


 少しだけ目を細める。


 「あなたのせいじゃない」


 それから言う。


 「でも、いらない」


 はっきりした声だった。


 その言葉には、揺れがなかった。


 アユミはゆっくりうなずく。


 「わかりました」


 それ以上言わない。


 無理に残らない。


 その場を離れる。


 ミカと並んで歩き出す。


 橋を抜けると、空気が少し軽くなる。


 街灯の光が戻る。


 しばらく二人とも何も言わない。


 やがてミカが言う。


 「……難しいね」


 アユミはうなずく。


 「うん」


 それ以上の言葉は続かない。


 歩きながら、アユミはさっきの言葉を思い出す。


 何も変わらない。


 それは、たぶん正しい。


 自分たちが何かをしたからといって、

 誰かの人生が大きく変わるわけではない。


 その現実は、もう知っている。


 それでも。


 橋の下で見た光景が、頭から離れない。


 座っている人。

 風の通る場所。

 壁に背を預ける姿。


 アユミは足を止める。


 ミカが振り返る。


 「どうしたの?」


 「……ちょっと」


 アユミは言う。


 袋の中から、一つだけ取り出す。


 小さなカイロだった。


 「これだけ」


 ミカは何も言わない。


 アユミは一人で戻る。


 橋の下。


 さっきと同じ場所。


 女性はまだそこにいた。


 アユミは少し距離をとって立つ。


 「これ」


 カイロを見せる。


 「置いていきます」


 近づかない。


 手渡さない。


 地面に、そっと置く。


 女性は動かない。


 アユミはそれ以上言わず、その場を離れる。


 振り返らない。


 橋を抜ける。


 ミカが待っている。


 「いいの?」


 と聞く。


 アユミはうなずく。


 「うん」


 それ以上は言わない。


 夜の空気は冷えている。


 さっきよりも、はっきりと。


 川の方へ風が流れていく。


 優しさが何かを変えるとは限らない。


 それでも。


 同じ場所に立つことはできる。


 それが何になるのかは、まだわからない。


 けれどアユミは、歩き続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ