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よっさん  作者: 斉彬
22/31

秋 - 遠い将来

 十月に入ると、朝の空気が少しだけ冷たくなる。


 大学へ向かう道の途中、アユミは上着の袖を少し引いた。

 昼には暑くなるとわかっていても、朝の風は身体に触れる温度を変えてくる。


 キャンパスの木々はまだ緑を保っている。

 ただ、葉の色がわずかにくすんで見えた。


 講義室には、少し緊張した空気があった。


 三年の後期のゼミ。


 今日は「進路についての中間報告」があると、事前に知らされていた。


 順番に学生が前に立つ。


 「私は広告業界を中心に見ています」


 「インターンに参加して、金融に興味が出てきました」


 「まだ決めていませんが、公務員も視野に入れています」


 言葉はどれも整っている。


 準備されたもの。

 考えたもの。

 ある程度、形になっているもの。


 アユミはそれを聞きながら、自分のノートを見ていた。


 白いままのページ。


 何も書かれていない。


 順番が近づく。


 名前を呼ばれる。


 アユミは立ち上がり、前に出る。


 教室の視線が集まる。


 「……まだ、具体的には決まっていません」


 声は思ったより落ち着いていた。


 「ただ、人と関わる仕事に興味があります」


 「ボランティア活動を通して、そう思うようになりました」


 それ以上は続かなかった。


 言葉が見つからない。


 ゼミの教授がうなずく。


 「なるほど」


 少し考えるようにして言う。


 「人と関わる、というのは幅が広いね」


 教室に軽い笑いが起きる。


 アユミも小さく笑う。


 「もう少し具体的に考えてみよう」


 「はい」


 席に戻る。


 ノートの白さが、さっきよりはっきり見えた。


 授業が終わる。


 教室を出ると、廊下に人の流れができている。


 ミカが声をかける。


 「おつかれ」


 「おつかれ」


 並んで歩く。


 ミカは言う。


 「アユミらしかったね」


 「どこが」


 「まだ決めてない感じ」


 悪意のない言い方だった。


 アユミは少し笑う。


 「ミカは?」


 「一応、企業見るつもり」


 「へえ」


 ミカは肩をすくめる。


 「現実的にね」


 階段を降りる。


 外に出ると、風が動いている。


 ミカが続ける。


 「サークルの先輩も言ってたけどさ」


 「ボランティアだけじゃ食べていけないし」


 「まあ、そうだよね」


 アユミはうなずく。


 それはわかっている。


 頭では。


 ミカは少しだけ声を落とす。


 「でもさ」


 「なんか、難しくない?」


 「何が?」


 「将来」


 短い言葉だった。


 けれど、軽くはなかった。


 アユミは答えない。


 二人でしばらく歩く。


 キャンパスの外に出る。


 ミカは言う。


 「今日、夜どうする?」


 「川、行く」


 ミカはうなずく。


 「じゃ、あとでね」


 別れる。


 アユミは一人で川へ向かう。


 夕方の光が、街の輪郭を少し柔らかくしている。


 空は高く、雲がゆっくり流れていた。


 川沿いの道に出る。


 風が少し冷たい。


 ベンチが見える。


 そこに、よっさんが座っていた。


 帽子をかぶり、杖を横に置いている。


 アユミが近づくと、よっさんは顔を上げた。


 「やあ」


 穏やかな声だった。


 「こんばんは」


 アユミはベンチの端に座る。


 川の水が流れている。


 昼の光がまだ少し残っていた。


 よっさんは言う。


 「大学の様子はどうかね」


 「後期が始まりました」


 「うん」


 よっさんは軽く頷く。


 「三年の秋だ」


 その言葉は、どこか区切りのように聞こえた。


 よっさんは続ける。


 「多くの人間が、未来を考え始める時期だ」


 アユミは川を見る。


 「今日、ゼミで進路の話をしました」


 「ほう」


 「みんな、ちゃんと考えてました」


 自分の言葉に、少し違和感があった。


 「きみは?」


 よっさんが聞く。


 アユミは少し考える。


 「まだ、よくわかりません」


 正直な答えだった。


 よっさんは穏やかに頷く。


 「良いことだ」


 アユミは顔を上げる。


 よっさんは続ける。


 「早く決まることが、必ずしも良いとは限らない」


 川を見る。


 「考える時間は、必要だ」


 アユミは少し息を吐く。


 それでも、不安は消えない。


 よっさんはアユミの方を見た。


 そして言う。


 「では、少し違う形で尋ねよう」


 声は静かだった。


 けれど、その問いは逃げ場がなかった。


 「きみは、何になりたいのかな」


 アユミは答えない。


 すぐには言葉が出ない。


 川の水が流れている。


 遠くで子どもの声がする。


 夕方の残りが、少しずつ夜に変わっていく。


 「……人の役に立つ仕事がしたいです」


 やっと出た言葉だった。


 よっさんは小さく微笑む。


 「それは立派だ」


 そして続ける。


 「だが」


 川を見る。


 「役に立つとは、どういうことだろう」


 アユミは黙る。


 よっさんの問いは、いつも少し先にある。


 「きみは、この夏」


 よっさんは言う。


 「いくつかの人と出会ったはずだ」


 ベンチを軽く叩く。


 「その人たちの人生は、変わっただろうか」


 アユミは、あの人たちを思い出す。


 相談室の学生。

 夜回りで怒鳴った男性。

 あの女性。


 答えは、はっきりしている。


 「……変わってないと思います」


 よっさんは頷く。


 「そうだろう」


 その言い方は、否定ではなかった。


 確認だった。


 よっさんは続ける。


 「それでも、きみはそこにいた」


 川を見る。


 「なぜだろう」


 アユミは考える。


 答えはまだ形にならない。


 ただ、ベンチの感触が手に残っている。


 よっさんは立ち上がる。


 杖を手に取る。


 「将来というものは」


 ゆっくり言う。


 「遠くにあるようで、実は近い」


 川の流れを指す。


 「きみが今、どこに座るか」


 「それが、そのまま未来になる」


 歩き出す。


 アユミはその背中を見る。


 言葉が残る。


 問いが残る。


 答えは、まだない。

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