秋 - 後期の風
九月の空気は、夏の終わりをはっきりと告げるわけではない。
むしろ逆だ。
昼間はまだ暑く、日差しも強い。
ただ、夕方になると風が変わる。
その風を、アユミは大学のキャンパスで感じていた。
後期の授業が始まって三日目だった。
中庭の木々はまだ青い。
けれど葉の動きが、夏のときより軽い。
アユミは図書館の階段に座り、ノートを閉じた。
ゼミの課題を読み終えたところだった。
テーマは「公共性と個人の倫理」。
哲学の授業らしい題だったが、
アユミには少し重く感じられた。
紙の端に、何度も同じ言葉を書いている。
善意。
その文字は、いつの間にか形が崩れていた。
「アユミ」
声がして顔を上げる。
ミカだった。
ペットボトルを片手に、階段を上がってくる。
「ここにいた」
「授業?」
「うん、終わった」
ミカは隣に座る。
ペットボトルの水を一口飲む。
「後期って感じするね」
「そう?」
アユミは中庭を見る。
学生たちが歩いている。
夏休み明けの空気は、どこか落ち着かない。
ミカは言う。
「三年の秋ってさ」
少し笑う。
「急にみんな将来の話するよね」
アユミはうなずく。
ゼミでも同じだった。
就職。
インターン。
企業説明会。
友人たちは、夏休みの間にいくつか動いていたらしい。
「アユミは?」
ミカが聞く。
「何か考えてる?」
アユミはすぐ答えられない。
ノートを見る。
善意という言葉が、まだそこにある。
「……まだ」
そう言うと、ミカは笑った。
「だと思った」
アユミも少し笑う。
ミカは言う。
「でもさ」
ペットボトルを回す。
「サークルどうする?」
その言葉で、アユミは顔を上げた。
ボランティアサークル。
炊き出し。
夜回り。
相談室。
「どうするって?」
「続けるの?」
ミカの声は軽かった。
けれど質問は軽くない。
「三年の後期って忙しくなるじゃん」
ミカは続ける。
「就活もあるし」
「ゼミも本格的になるし」
中庭を見ながら言う。
「みんな、だいたいこの辺で減るんだよね」
それは事実だった。
サークルの掲示板でも、
「参加頻度を減らします」という投稿が増えている。
アユミは答えない。
ミカは肩をすくめる。
「私はさ」
「まだ決めてない」
少し笑う。
「続けたい気もするし」
「普通の大学生に戻りたい気もする」
アユミはノートを閉じる。
答えは出ていない。
夏の出来事が頭に浮かぶ。
相談室の学生。
夜回りで怒鳴られた夜。
川のベンチ。
よっさんの声。
隣に座ること。
ミカが立ち上がる。
「じゃ、私授業行く」
「うん」
「夜回り、今週どうする?」
「行く」
その答えは自然に出た。
ミカは軽く手を振る。
「じゃ、また連絡する」
階段を降りていく。
中庭に人の流れが戻る。
アユミはしばらく座っていた。
風が吹く。
葉が少し揺れる。
ノートの上に落ちた影が動く。
善意という言葉が、まだそこにある。
アユミはその文字を指でなぞる。
夏の間に、いくつもの問いを聞いた。
答えはまだ全部わからない。
それでも、川のベンチに行く理由は残っている。
夕方、アユミはキャンパスを出た。
空はまだ明るい。
川沿いの道を歩く。
夜になる前の時間だった。
ベンチには、よっさんが座っていた。
帽子をかぶり、杖を横に置き、川を見ている。
アユミが近づくと、よっさんは顔を上げた。
「やあ」
穏やかな声だった。
「こんばんは」
アユミはベンチの端に座る。
川の水がゆっくり流れている。
秋の風が少し混ざっていた。
よっさんは川を見たまま言う。
「大学は始まったかね」
「はい」
「三年生の秋だ」
よっさんは軽く頷く。
その言葉は、どこか意味を含んでいた。
やがて、よっさんはアユミの方を見た。
そして穏やかに尋ねた。
「きみに一つ、聞いてもよろしいかな」
アユミはうなずく。
よっさんは言う。
「人は、なぜ同じことを続けるのだろう」
川の音が静かに流れていた。
アユミはすぐには答えない。
ベンチの木に手を置く。
夏の間、何度も座った場所だった。
風が吹く。
葉が揺れる。
秋の季節は、ゆっくり始まっていた。




