夏 - 夏の終わり
八月の終わりになると、川の風が少し変わる。
暑さが消えるわけではない。
けれど、昼間の熱が夜まで残る感じが、いつの間にか薄くなっている。
アユミは川沿いの道を歩いていた。
サークルの活動が終わり、大学の建物の灯りもいくつか消えている。
夜回りをする日ではない。
それでも足は自然に川の方へ向いていた。
ベンチは街灯の下にある。
そこに誰かがいるかどうかは、遠くからではわからない。
近づいていくと、人影が見えた。
よっさんだった。
帽子をかぶり、杖を横に置き、川を見ている。
アユミが近づくと、よっさんは顔を上げた。
「やあ」
柔らかな声だった。
「こんばんは」
アユミはベンチの端に座る。
川は静かに流れている。
昼間よりも音がはっきり聞こえる。
しばらく二人で水の流れを見ていた。
川面には街灯の光が長く伸びている。
その光が、ゆっくりほどけながら下流へ流れていく。
よっさんが言う。
「もうすぐ夏が終わる」
アユミはうなずく。
大学の後期が始まる時期が近づいている。
相談室の当番表も新しいものが貼られていた。
よっさんは川を見ながら続けた。
「季節というのは、面白いものだ」
杖の先で地面を軽く叩く。
「人間の都合とは関係なく、きちんと動く」
少し笑う。
「哲学者より、よほど正確だ」
アユミはその言葉に小さく笑った。
川の向こうで、虫が鳴いている。
よっさんはアユミの方を見た。
「きみに聞いてもよろしいかな」
「はい」
「この夏、きみは何を学んだだろう」
問いは穏やかだったが、軽いものではなかった。
アユミは川を見る。
水の流れは変わらない。
けれど、夏の間にいくつもの出来事があった。
相談室。
夜回り。
拒まれた夜。
よっさんの話。
アユミは考えながら言葉を探した。
「まだ、よくわかっていません」
よっさんは頷く。
その反応は、期待していた答えを聞いた人のものだった。
アユミは続ける。
「助けるっていうことが、前より難しく感じます」
川を見る。
「前は、何かをしてあげることだと思っていました」
手をベンチに置く。
木の表面は少し冷えている。
「でも今は、それだけじゃない気がします」
よっさんは静かに聞いている。
アユミは言う。
「この前、相談室に来た学生がいました」
「大学が向いてない気がするって言ってました」
よっさんは軽く頷く。
アユミは続ける。
「何か特別な問題があるわけじゃないのに、不安だって」
川の流れを見る。
「私は、何か良いことを言えたわけじゃないです」
「でも、その人は少し笑って帰りました」
よっさんの目が細くなる。
アユミは言う。
「たぶん、私はその人を助けていません」
「でも」
少し考える。
「その時間は、無駄じゃなかったと思います」
よっさんは穏やかに微笑んだ。
「なるほど」
その一言には、静かな満足が含まれていた。
川の上を風が通る。
水面の光が揺れる。
よっさんは言う。
「きみは、良いところまで来ている」
アユミは顔を上げる。
よっさんは続ける。
「助けるという言葉は、少々大きすぎる」
杖を手に取る。
「人間ができることは、もう少し小さい」
ベンチを軽く叩く。
「隣に座ること」
それは、この夏に何度も聞いた言葉だった。
けれど、今日は少し違って聞こえた。
よっさんは立ち上がる。
川の風が帽子の縁を動かす。
「人は、自分の人生を歩く」
ゆっくり言う。
「その道を代わりに歩くことはできない」
杖を地面につく。
「だが」
アユミを見る。
「同じ景色を見ることはできる」
川の方を指す。
「同じベンチに座ることもできる」
夜の空は深くなっていた。
遠くの橋の上を車が通り、ヘッドライトの光が川に落ちる。
よっさんは歩き出す。
アユミはその背中を見る。
帽子の影が揺れている。
「よっさん」
呼び止める。
よっさんが振り向く。
アユミは言う。
「また来ます」
よっさんは頷く。
穏やかな笑顔だった。
「知っている」
それだけ言って歩いていく。
街灯の外へ出ると、影は川沿いの闇の中に溶けていった。
アユミはベンチに座ったまま川を見る。
夏はもうすぐ終わる。
それでも川は流れ続ける。
人が来る日もある。
誰も座らない夜もある。
けれどベンチはそこにある。
隣に座る場所として。
アユミは立ち上がる。
川の風は少し涼しくなっていた。
夜の道を、ゆっくり歩き出す。
季節は静かに次へ進んでいた。




