夏 - よっさんの過去
川の夜は、ゆっくり深くなる。
空が暗くなるというより、
川の水が先に夜を受け取るのだと、アユミは思う。
街灯の光が水面に落ちている。
その光は流れながら細かく揺れ、時々ふっと消える。
ベンチには、よっさんが座っていた。
帽子を深くかぶり、杖を膝に置き、川の流れを眺めている。
アユミは少し離れたところで立ち止まり、
それから静かに歩み寄った。
「こんばんは」
よっさんはゆっくり顔を上げた。
「やあ」
穏やかな声だった。
「良い夜だ」
その言葉は、誰かに向けたというより、
夜そのものに向けられているように聞こえた。
アユミはベンチの端に腰を下ろす。
木の表面は、昼の熱をほんのわずかに残していた。
川が流れている。
草が風に触れて、小さく音を立てている。
よっさんはしばらく黙っていた。
まるで、夜の音を確かめているようだった。
やがて、静かに言った。
「きみは」
杖の先を軽く地面につける。
「人がどこで人生を変えると思う?」
アユミは少し考えた。
けれど答える前に、よっさんが小さく笑った。
「いや、今日は答えなくていい」
川を見る。
「今夜は、私の話を少ししよう」
その言い方は、
秘密を打ち明けるというより、
遠い景色を思い出している人の声だった。
風が少し強くなる。
草が揺れる。
よっさんはゆっくり話し始めた。
「昔、私は大学で哲学を教えていた」
その言葉は、淡々としていた。
誇りでも、後悔でもない。
ただ事実を置くような口調だった。
「古い建物でね」
よっさんは少し空を見上げる。
「研究室の窓から、大きな欅の木が見えた」
「春になると葉が出て、夏には深い影を落とし、
秋になると、廊下が落ち葉でいっぱいになる」
その景色を思い出しているのだろう。
よっさんの声はゆっくりだった。
「学生たちは若かった」
小さく微笑む。
「当たり前だが」
杖を回す。
「若い人間は、世界を信じている」
少し間を置く。
「そして、自分の人生にも、
何か確かな意味があると信じている」
川の水が流れる。
遠くで自転車のベルが鳴る。
すぐに音は消える。
よっさんは続ける。
「私は、彼らに質問をした」
「人はなぜ善を選ぶのか」
「自由とは何か」
「正義とは、どこから生まれるのか」
少し笑う。
「哲学者というのは、
だいたい似たようなことを考えるものだ」
アユミは黙って聞く。
よっさんはゆっくり息を吐いた。
「ある年のことだ」
声が少し低くなる。
「一人の学生がいた」
川の流れを見る。
「よく考える男だった」
「質問も鋭かった」
「だが」
少し間。
「生活は苦しかった」
草が風で揺れる。
「奨学金とアルバイトで暮らしていた」
「授業料も、ぎりぎりだった」
よっさんは杖を握る。
その動きは静かだった。
「ある日、彼は研究室に来た」
声が少し遠くなる。
「午後だった」
「窓から光が入っていてね」
「欅の葉が揺れていた」
よっさんは言う。
「彼は椅子に座り、
少し考えてから話し始めた」
沈黙。
川の音が続く。
「大学を続けられないかもしれない、と言った」
よっさんは空を見る。
「授業料が払えない」
「アルバイトも限界だ」
「それでも、できれば学び続けたい」
よっさんの声は落ち着いていた。
「私は彼に言った」
ゆっくりと。
「大学には制度がある」
「ルールがある」
「それを守らなければならない」
沈黙。
「それが公平というものだ、と」
川の音が少し強く聞こえる。
よっさんは言う。
「彼は黙って聞いていた」
「長い間、黙っていた」
杖の先を軽く地面につける。
「それから、静かに言った」
よっさんの声は低くなる。
「先生」
少し間。
「正しいって、なんですか」
風が止む。
川の音だけが残る。
よっさんはしばらく黙っていた。
そして続ける。
「私は答えた」
「正しいとは、
決められたことを守ることだ」
沈黙。
長い沈黙。
よっさんは小さく息を吐く。
「彼は、軽く頭を下げて帰っていった」
川を見る。
「それが最後だった」
アユミは何も言えない。
よっさんは静かに言う。
「そのとき私は」
「自分は正しいと思っていた」
「制度を守った」
「公平を守った」
「大学という場所を守った」
杖を軽く持ち上げる。
「だが」
ゆっくり言う。
「ある夜」
川を見る。
「ふと、考えた」
沈黙。
「私は」
「彼の隣に座っただろうか」
その言葉は、とても静かだった。
風が戻る。
草が揺れる。
よっさんは立ち上がる。
杖を手に取る。
「それから私は」
川を見ながら言う。
「少し歩くことにした」
ベンチを軽く叩く。
「世の中には」
穏やかに微笑む。
「隣に座れる場所が、思ったより多い」
アユミを見る。
「そして、ときどき」
少し間。
「誰かがそこに来る」
よっさんはゆっくり歩き出す。
街灯の外へ。
影が静かに遠ざかる。
アユミはベンチに座ったまま、川を見る。
水が流れている。
夜の川は、何も言わない。
ただ、静かに流れている。




