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よっさん  作者: 斉彬
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夏 - 川の夜

夜の川は、音でできている。


 アユミは最近そう思うようになった。


 水の流れる音。

 草の擦れる音。

 遠くの車の音。


 昼間の川は、光でできている。

 夜の川は、音でできている。


 ミカが隣を歩いている。


 「今日は涼しいね」


 「うん」


 昼の熱が、少しだけ残っている。


 けれど風は柔らかい。


 川沿いの道を曲がる。


 ベンチが見える。


 そして、そこにはすでに人が座っていた。


 帽子。

 杖。

 少し背中を丸めた姿。


 よっさんだった。


 ミカが言う。


 「こんばんは」


 よっさんはゆっくり顔を上げる。


 「やあ」


 その声は、夜に溶けるように静かだった。


 「良い夜だね」


 アユミとミカはベンチに座る。


 三人並ぶ。


 川が流れている。


 誰もすぐには話さない。


 よっさんが言う。


 「静かな夜というのは」


 少し間を置く。


 「人間にとって、贅沢なものだ」


 ミカが笑う。


 「そう?」


 「うん」


 よっさんは頷く。


 「昼は、世界が忙しい」


 川を見る。


 「夜は、世界が少しだけ考える時間をくれる」


 ミカは空を見上げる。


 星は少ない。


 街の光が強いからだ。


 「よっさん」


 ミカが言う。


 「前さ」


 「うん」


 「なんでここに戻ってきたの」


 よっさんは答えない。


 しばらく川を見ている。


 それから言う。


 「質問を変えよう」


 ミカが笑う。


 「またそれ」


 よっさんはアユミを見る。


 「きみはどう思う?」


 アユミは少し驚く。


 「私ですか」


 「うん」


 よっさんは微笑む。


 「なぜ人は、同じ場所に戻るのだろう」


 アユミは川を見る。


 答えを急がない。


 水が流れている。


 街灯の光が、ゆっくり揺れる。


 アユミは言う。


 「……安心するから」


 よっさんは首を傾ける。


 「ほう」


 「知ってる場所だから」


 少し考える。


 「それに」


 アユミはベンチを触る。


 木の表面は少し冷たい。


 「誰かがいるかもしれないから」


 よっさんの目が細くなる。


 その表情は、どこか楽しそうだった。


 ミカが言う。


 「じゃあよっさんは?」


 よっさんは川を見る。


 長い沈黙。


 やがて言う。


 「昔」


 静かな声。


 「私は、教える仕事をしていた」


 ミカが顔を上げる。


 「先生?」


 「そういう呼び方もある」


 よっさんは笑う。


 「哲学を少々」


 アユミは少し驚く。


 よっさんは続ける。


 「学生に、よく質問をした」


 川の水を見る。


 「人はなぜ生きるのか」


 「正しいとは何か」


 「自由とは何か」


 ミカが笑う。


 「難しい」


 「うん」


 よっさんは頷く。


 「だが面白い」


 少し間。


 「ある日」


 川の流れを見ながら言う。


 「一人の学生が言った」


 アユミは静かに聞く。


 よっさんは続ける。


 「先生」


 その声は、誰かを思い出しているようだった。


 「答えがわからないなら」


 「どうして質問するんですか」


 ミカが笑う。


 「たしかに」


 よっさんは微笑む。


 「私は答えた」


 少し空を見る。


 「良い質問は」


 「答えのためにあるのではない」


 沈黙。


 川の音。


 よっさんは続ける。


 「一緒に考えるためにある」


 夜の風が吹く。


 草が少し揺れる。


 ミカが言う。


 「それで、ここ?」


 よっさんはベンチを軽く叩く。


 「ここは」


 少し笑う。


 「教室より静かだ」


 三人で川を見る。


 時間がゆっくり流れる。


 誰も急がない。


 遠くで犬が吠える。


 自転車が通り過ぎる。


 そしてまた静かになる。


 よっさんが立ち上がる。


 杖を手に取る。


 ミカが言う。


 「もう帰るの?」


 「うん」


 よっさんは頷く。


 「今夜は、良い夜だった」


 アユミを見る。


 「きみの答えも」


 少し微笑む。


 「なかなか良い」


 歩き出す。


 街灯の外へ。


 影がゆっくり遠ざかる。


 アユミはその背中を見る。


 ミカが言う。


 「ほんと、あの人」


 「うん」


 アユミは頷く。


 川を見る。


 夜の水が流れている。


 音だけの川。


 その隣に、ベンチがある。


 そしてそこに、人が座る。


 それだけで、世界は少しだけ変わる。


 川の夜は、静かに続いていた。

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