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よっさん  作者: 斉彬
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夏 - 相談室

相談室は、古い会議室を改装したような部屋だった。


 白い壁。

 長机。

 折りたたみ椅子。


 窓の外には大学の中庭が見える。


 学生相談ボランティア、と書かれた小さな札が机の端に置かれていた。


 アユミは椅子に座っていた。


 目の前に、空いた椅子が一つ。


 人を待つ椅子。


 扉の向こうからは、廊下を歩く靴音がときどき聞こえる。

 遠くで誰かが笑っている声。


 けれど、この部屋には入ってこない。


 ミカは隣にいた。


 資料のファイルをめくりながら言う。


 「緊張してる?」


 「してない」


 アユミは言う。


 「ちょっとだけ」


 ミカは笑う。


 「それ、してるって言うんだよ」


 机の上に、紙コップの水が二つ置かれている。


 相談に来た人のためのもの。


 アユミはそれを見つめる。


 自分が、誰かの話を聞く。


 それは夜回りとは違う。


 川沿いでは、ただ隣に座ることが多かった。

 ここでは、向かい合う。


 逃げ場が少ない。


 ミカが言う。


 「まあさ」


 ファイルを閉じる。


 「だいたい最初は誰も来ない」


 「そうなの?」


 「うん」


 ミカは肩をすくめる。


 「相談って、結構ハードル高い」


 確かにそうだ、とアユミは思う。


 自分だって、ここに来ることはないだろう。


 たぶん。


 沈黙が落ちる。


 時計の針の音だけが、部屋の中で小さく響く。


 そのとき、扉が開いた。


 アユミは反射的に顔を上げる。


 しかし入ってきたのは、三年生の先輩だった。


 「おつかれ」


 「おつかれさまです」


 軽い挨拶。


 先輩は机の横に腰を下ろす。


 「どう? 来た?」


 ミカが首を振る。


 「まだ」


 「だよね」


 先輩は笑う。


 「最初はそんなもん」


 先輩はポケットから紙を出す。


 何かのメモ。


 それを机に置きながら言う。


 「そういえばさ」


 アユミは顔を上げる。


 「前、川の夜回りやってたよね」


 心臓が少しだけ反応する。


 「はい」


 先輩は頷く。


 「知り合いが言ってたんだけど」


 紙を指で叩く。


 「最近、あの辺また人増えてるらしい」


 「……そうなんですか」


 ミカも顔を上げる。


 「夏だから?」


 「たぶん」


 先輩は言う。


 「あと」


 少し間を置く。


 「よっさん、戻ってきてるっぽい」


 その名前が、部屋の空気を一瞬止めた。


 アユミは言葉を失う。


 ミカが聞き返す。


 「ほんと?」


 「らしいよ」


 先輩は肩をすくめる。


 「俺は見てないけど」


 アユミの胸の奥で、何かが静かに動く。


 いなくなったと思っていた人。


 どこかに消えてしまったと思っていた人。


 それが、また川にいるかもしれない。


 ミカが言う。


 「アユミ」


 「うん」


 「今日行く?」


 その問いに、アユミはすぐには答えない。


 相談室。


 机。


 向かいの椅子。


 そして、川沿いのベンチ。


 二つの場所が頭の中に並ぶ。


 先輩が笑う。


 「まあ、仕事優先な」


 「はい」


 アユミは頷く。


 そのときだった。


 扉が、もう一度ノックされた。


 小さな音。


 三人とも顔を上げる。


 「どうぞ」


 ミカが言う。


 扉がゆっくり開く。


 入ってきたのは、一年生くらいの女子学生だった。


 少しうつむいている。


 バッグの紐を強く握っている。


 「……あの」


 声は小さい。


 「相談、いいですか」


 アユミは一瞬、動けなかった。


 けれど次の瞬間、椅子を少し前に引く。


 「どうぞ」


 自分の声が、思ったより落ち着いている。


 女子学生が向かいの椅子に座る。


 紙コップの水を、アユミはそっと机の中央に置く。


 相談室の空気が、静かに変わる。


 ミカが横でメモを準備する。


 アユミは目の前の学生を見る。


 そして思う。


 人は、助ける側と助けられる側を、行き来する。


 ずっと同じ場所にはいない。


 川の風。


 ベンチ。


 よっさんの声。


 それらが、遠くでかすかに思い出される。


 女子学生が、ゆっくり口を開く。


 「私……」


 その言葉の続きを、アユミは待つ。


 相談室の窓の外では、夏の光が静かに揺れていた。

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