夏 - 弱さの共有
大学の講義が終わる時間と、アルバイトのピークの間。その短い隙間に、店内は穏やかな空気になる。
窓際の席に、ミカが座っていた。
カウンター越しに目が合うと、小さく手を振る。
アユミはトレイを持って近づく。
「おまたせ」
「ありがと」
アイスコーヒーの氷が、グラスの中で軽く音を立てる。
ミカはストローを回しながら言う。
「昨日さ」
その言葉の出だしで、アユミは何の話かわかった。
夜回りのこと。
ベンチの前で起きた、あの短い衝突。
「カズマ、だいぶ落ち込んでた」
ミカは言う。
「そりゃそうだよね」
アユミは頷く。
「初めてだったし」
「うん」
ミカは少し笑う。
「でもさ、あれ通らないとわかんないんだよね」
「何が?」
「距離」
その言葉に、アユミは黙る。
ミカはストローを指で弾く。
「最初ってさ、“助けなきゃ”って思うじゃん」
「うん」
「でも、相手からすると、“頼んでない”ってこともある」
その通りだった。
アユミは窓の外を見る。午後の光が歩道を白く照らしている。
しばらく沈黙が続く。
ミカが不意に言う。
「アユミさ」
「うん」
「最近、ちょっと遠いよね」
その言葉は、責める響きではなかった。
ただ、事実を置くような声。
アユミはグラスの水滴を指でなぞる。
「そうかな」
「うん」
ミカはあっさり言う。
「前はもっと、いろいろ話してた」
アユミは少し笑う。
「忙しいだけ」
「バイト?」
「うん」
ミカはしばらくアユミを見る。
そして、肩をすくめる。
「まあ、それならいいんだけど」
言葉は軽い。
でも、そのあと続いた沈黙は軽くない。
アユミは思う。
今、言えばいい。
仕送りのこと。
バイトを増やしたこと。
生活が少し不安定になっていること。
言葉は頭の中に並んでいる。
それでも、口は動かない。
なぜだろう。
言えば、ミカはきっと聞いてくれる。
心配するかもしれない。何か手伝おうとするかもしれない。
それが、少し怖い。
「私さ」
先に口を開いたのはミカだった。
「正直に言うと」
ストローを止める。
「人を助けたいっていうよりさ」
アユミは顔を上げる。
ミカは少し笑う。
「何もしない自分が怖いんだよね」
その言葉は軽く言われた。
でも、どこかで重かった。
「怖い?」
「うん」
ミカは頷く。
「ニュースとか見てさ、困ってる人とかいるじゃん」
「うん」
「で、自分は普通に生活してる」
ストローが氷に当たる。
「それが、なんか落ち着かない」
アユミは黙って聞く。
ミカは続ける。
「だから、ボランティアしてるとさ」
少し言葉を探す。
「ちゃんとしてる感じがする」
ちゃんとしてる。
その言葉は、意外なほど正直だった。
アユミはゆっくり言う。
「それ、悪いこと?」
ミカは肩をすくめる。
「わかんない」
「でも、本当の理由じゃないかもしれない」
ミカは笑う。
「たぶんね」
その笑いのあと、少し静かな時間が流れる。
アユミは思う。
ミカは、自分の弱さを言葉にした。
助けたいという気持ちの奥にあるもの。
それを、隠さなかった。
それに比べて、自分はどうだろう。
「……私」
気づくと、口が動いていた。
ミカが顔を上げる。
「バイト増やしたの」
「うん」
「家の事情で」
それ以上の説明はない。
ミカはすぐに理解したようだった。
「仕送り?」
アユミは頷く。
「ちょっと難しくなりそうで」
ミカは黙る。
その沈黙は、重くない。
ただ、受け止めている時間。
やがてミカは言う。
「そっか」
それだけだった。
大丈夫?とも、どうするの?とも言わない。
ただ頷く。
その反応に、アユミは少しだけ息を吐く。
「だから最近、夜回りあんまり行けなくて」
「いいじゃん」
ミカは言う。
「生活の方が大事」
「でも」
アユミは少し言葉を探す。
「なんか、離れてる感じがして」
ミカは笑う。
「離れてないよ」
アイスコーヒーを飲む。
「みんな、ずっと全力でやってるわけじゃない」
その言葉は、意外なほど優しかった。
「私だって、たまにめんどくさいもん」
「ほんと?」
「ほんと」
ミカは笑う。
「夏とか暑いし」
二人は少し笑う。
笑ったあと、アユミは思う。
弱さは、言葉にすると形が変わる。
隠しているときよりも、少しだけ軽くなる。
カフェの外で、風が動いた。
強くはないが、確かに空気が流れる。
ミカが立ち上がる。
「じゃ、行こ」
「どこに?」
「川」
アユミは驚く。
「夜回り?」
「今日は違う」
ミカは笑う。
「ただ座る」
その言葉に、アユミは少し考える。
よっさんがいた場所。
今は、空いている場所。
「……うん」
アユミは立ち上がる。
弱さを話したあと、世界は急には変わらない。
それでも、立っている場所の地面が、少しだけ安定した気がした。
夏の空はまだ明るい。




