何もない引き出し
「写真と手紙は、捨てる前に全部見せてもらえますか」
水野真紀は、作業を始める前にそう言った。
榊冬一が頷く。
「分かりました。宛名のある物と写真はこちらで止めます」
「それ以外は、ほとんど処分で大丈夫です」
母、久美子が一人で暮らしていた部屋だった。
古い二DK。
居間には低いテーブルと小さなテレビ。台所には二人分より少し多い食器があり、冷蔵庫の扉には何も貼られていない。
真紀の判断は早かった。
冬一が服を確認する。
「こちらは」
「全部お願いします」
食器。
「それも」
花瓶。
「いりません」
古い掛け時計。
「処分で」
佐伯が、
「写真と手紙だけですね」
と確認する。
真紀は少し考えた。
「はい」
台所の下段から、大きなステンレスのボウルが出た。
佐伯が持ち上げる。
「一人暮らしにしては大きいですね」
真紀が見て、笑った。
「餃子です」
「餃子?」
「母、作る量がおかしいんですよ」
真紀が遊びに来ると、久美子はよく餃子を作った。
二人で食べるのに、皮を三袋買う。
真紀が、
「何人来るの」
と聞く。
久美子は、
「二人」
と答える。
「皮、何枚あると思ってる?」
「余ったら冷凍すればいいでしょ」
「うちの冷凍庫、母さんの餃子倉庫じゃないんだけど」
「空いてるなら入る」
「空いてない」
「じゃあ何が入ってるの」
「いろいろ」
「いろいろなら餃子入るでしょ」
最後は必ず、真紀が二十個ほど持ち帰る。
「多いって毎回言うんですけどね」
「美味しかったんですか」
冬一が聞く。
「美味しいですよ。それが腹立つんです」
佐伯が笑った。
久美子は包むのも速かった。
餡を置く。
皮の縁に水をつける。
折る。
ひだを作る。
横へ置く。
真紀が一個作る間に、久美子は二個作る。
「競争する必要ないでしょ」
「してない」
「じゃあ待ってよ」
「何で」
「私ばっかり遅いみたいになるから」
「遅いんだから仕方ないでしょ」
真紀が少し餡を入れすぎる。
皮が閉じない。
久美子が横から、
「欲張るから」
と言う。
「肉多い方が得じゃん」
「閉じなかったら損でしょ」
「焼けば一緒」
「出るよ、肉汁」
「じゃあ母さん食べて」
「嫌よ」
「何で」
「失敗したの自分で食べなさい」
それでも焼く時になると、久美子は形の悪い餃子を自分の皿へ取った。
「母さん、それ私の」
「形悪いから」
「自分で食べろって言ったじゃん」
「焼いた人の権利」
「何その権利」
そんなことを言いながら食べた。
冬一はボウルの中を確認した。
何も入っていない。
「こちらは?」
「処分してください」
「はい」
ボウルは金属類へ分けられた。
食器棚の奥から、白い小皿が何枚も出る。
一枚だけ縁が欠けていた。
真紀が取る。
「まだ使ってたんだ」
「昔からですか」
「私が捨てろって言ってたやつです」
久美子は物を極端に溜め込む人ではなかったが、使える物は使った。
欠けが小さければ、
「口つけなきゃいい」
と言う。
真紀は、
「じゃあ皿のどこに口つけるの」
と返した。
「そういう意味じゃない」
「分かってる」
「じゃあ聞かないで」
小皿も処分になった。
午前中、冬一は机を担当した。
公共料金の明細。
病院の領収書。
取扱説明書。
古い年賀状。
宛名のある物が出るたび、真紀へ渡す。
真紀は一枚ずつ見る。
親戚からの年賀状。
昔の友人からの暑中見舞い。
保険会社の案内。
どれも確認すると処分側へ戻した。
「手紙、あまり書く人じゃなかったので」
真紀が言った。
「お母様が?」
「はい。電話の人でした」
電話は多かった。
多いといっても、一時間も二時間も話すわけではない。
日曜日の夜。
どちらからともなく掛ける。
「何してた?」
「別に」
「晩ご飯は?」
「食べた」
「何」
「パスタ」
「また?」
「またって何」
「前もパスタって言ってた」
「一週間前でしょ」
「他に食べる物ないの」
「あるよ」
「じゃあ食べれば」
「今日はパスタがよかったの」
それだけで十分くらい過ぎる。
久美子が、
「今日白菜安かった」
と言う。
真紀が、
「買ったの」
と聞く。
「一玉」
「一人で?」
「半分より安かったから」
「量は二倍じゃん」
「半分より安かったの」
「だから一人で一玉食べるの?」
「餃子にも入る」
「また餃子?」
「嫌なら食べなくていい」
「嫌とは言ってない」
次に会った時、本当に餃子が出た。
毎週電話していても、大事な話ばかりしていたわけではない。
むしろ、何を話したか覚えていない日の方が多かった。
ドラマ。
天気。
野菜。
仕事。
近所の店。
真紀が買った靴。
久美子が美容院で髪を切りすぎたこと。
「母、短くしすぎると毎回私に電話してくるんですよ」
「報告ですか」
佐伯が聞いた。
「愚痴です」
『また短くされた』
「毎回同じ店行くからでしょ」
『いつもより短いの』
「そう言って前も怒ってたじゃん」
『今回は本当に短い』
「じゃあ店変えたら」
『そこまではいい』
「じゃあ何で電話したの」
『短いから』
佐伯が笑った。
「解決してほしいわけじゃないんですね」
「たぶん、そうだったんでしょうね」
真紀も笑った。
机の一段目が空になる。
二段目には筆記具と封筒。
古い便箋が一冊あった。
真紀が受け取る。
何枚か使われているが、残った紙は白い。
表紙を開き、後ろまで確認する。
「これは?」
冬一が聞く。
真紀は閉じた。
「いりません」
昼前、冷蔵庫を空にした。
冷凍室に餃子はなかった。
真紀が、
「珍しい」
と言った。
「いつもあったんですか」
「うちに持ってくる分が」
「じゃあ、お母様の家には残らない?」
冬一が聞く。
「ああ」
真紀が笑った。
「そうかもしれないです」
冷凍室を閉めた。
昼休憩。
真紀は窓際でコンビニのおにぎりを食べた。
佐伯が、
「近くにお住まいだったんですか」
と聞く。
「電車で四十分くらいです」
「じゃあ、よく来られてたんですね」
「前は」
真紀はお茶を飲んだ。
少しして、自分から続けた。
「何年か、来てなかったんです」
佐伯はそれ以上聞かなかった。
午後。
押し入れからアルバムが出た。
冬一が真紀へ渡す。
「写真です」
真紀は畳へ座る。
一冊目。
幼い頃の写真。
入学式。
運動会。
修学旅行へ出る朝。
成人式。
久美子と二人で写っているものも何枚かあった。
一枚、台所で餃子を包んでいる写真がある。
真紀が笑った。
「誰が撮ったんだろ」
二人ともカメラを見ていない。
久美子が餃子を包んでいる。
真紀は横で、破れた皮を指で押さえていた。
「失敗してますね」
冬一が言った。
「たぶん肉入れすぎです」
「欲張ったんですね」
「昔からです」
真紀は笑った。
写真を少し眺める。
抜かなかった。
ページをめくった。
写真は全部確認した。
アルバムそのものも残さなかった。
「弟が一冊持ってるので」
「こちらは処分で?」
「はい」
冬一は閉じたアルバムを受け取った。
午後の作業が進む。
寝室の箪笥。
布団。
本棚。
久美子の服。
真紀はほとんど迷わなかった。
冬一が確認するたび、
「お願いします」
と答える。
本棚から料理本が一冊出た。
餃子のページに細い紙が挟まっていた。
真紀が開く。
「この人、レシピ見てたんだ」
「自己流じゃなかったんですか」
「ずっと適当に作ってると思ってました」
ページの端に油の染みがある。
書き込みはない。
メモもない。
真紀は本を閉じた。
「これもお願いします」
冬一は処分側へ置いた。
最後に母と話したのも、日曜日の夜だった。
真紀はその週、仕事が続いていた。
帰宅も遅かった。
電話が鳴った時には、風呂にも入っていなかった。
久美子が、
『今度の日曜、来る?』
と聞いた。
「無理。仕事」
『その次は』
「分かんない」
『餃子作ろうと思ったのに』
「また今度でいいよ」
少し間があった。
『あなたのまた今度は、いつなの』
疲れていた。
予定表を見る気にもならなかった。
「分からない」
久美子も黙った。
それから、
『じゃあ、もういい』
と言った。
真紀は、
「分かった」
と答えた。
電話はそこで終わった。
大喧嘩ではなかった。
怒鳴っていない。
昔の不満を持ち出してもいない。
次の日に謝らなければならないほどの言葉も、たぶんなかった。
ただ、翌週の日曜日、真紀は電話を掛けなかった。
久美子からも掛かってこなかった。
その次も。
電話しようと思ったことはあった。
けれど、何を一言目にすればいいのか考える。
「この前はごめん」では大げさな気がした。
何事もなかったように、
「今日何食べた?」
と聞くのも妙だった。
一週間が過ぎる。
一か月が過ぎる。
間が空くほど、一本目の電話だけが掛けにくくなった。
真紀は母の番号を消さなかった。
久美子も、真紀の番号を知っていた。
どちらも掛けなかった。
正月が来た。
春が来た。
また冬が来た。
何年か経った。
その間に、二人の間へ新しい喧嘩は一つも増えなかった。
夕方。
部屋の家具はほとんどなくなった。
残っているのは、寝室の小さな机だけだった。
「これで最後です」
佐伯が言った。
冬一は机の引き出しを確認する。
一段目。
空。
二段目。
保証書と乾電池。
どちらも真紀へ確認し、処分。
一番下。
取っ手を引く。
動かない。
もう一度。
途中で引っ掛かる。
「固いですね」
冬一は無理に引かず、机を少し傾けた。
隙間から薄い紙が見える。
奥で何かが噛んでいるらしい。
佐伯に片側を押さえてもらい、冬一が少しずつ引く。
紙が折れる音がした。
引き出しが開いた。
中に入っていたのは、家電の保証書。
輪ゴムが何本か。
インクの出ないボールペン。
古い体温計の説明書。
それだけだった。
「水野さん」
真紀が来る。
引き出しの前へしゃがんだ。
保証書を一枚ずつ見る。
昔使っていた炊飯器。
もうない掃除機。
小さな扇風機。
裏も見る。
何も書かれていない。
説明書を開く。
文字ばかり。
輪ゴムを持ち上げる。
下には何もない。
ボールペンをどける。
引き出しの底が見える。
冬一は何も言わず待っていた。
真紀が一度、引き出しを閉めた。
「これで全部ですか」
「はい。この机が最後です」
「そうですか」
真紀は立ち上がらなかった。
少しして、もう一度引き出しを開ける。
さっきと同じ物が入っている。
保証書。
輪ゴム。
ボールペン。
説明書。
一枚ずつ動かした。
やはり、何もなかった。
「何かあると思ってたわけじゃないんです」
冬一は手を止めたままいた。
真紀は引き出しの底を見た。
「母、手紙なんて書く人じゃないし」
少し笑った。
そのまま目元を一度拭った。
「……あればよかっただけで」
冬一は頷かなかった。
否定もしなかった。
真紀が立ち上がるまで、その場にいた。
やがて真紀は保証書を引き出しへ戻した。
輪ゴム。
ボールペン。
説明書。
全部戻す。
「これも、処分してください」
「分かりました」
真紀が居間へ戻る。
冬一は最後の引き出しを閉めた。
少し固かったので、奥まで両手で押した。
今度は、真紀は開け直さなかった。




