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生活の跡  作者: 鷺沼鳩屋
いない人の場所
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9/11

何もない引き出し

「写真と手紙は、捨てる前に全部見せてもらえますか」


水野真紀は、作業を始める前にそう言った。


榊冬一が頷く。


「分かりました。宛名のある物と写真はこちらで止めます」


「それ以外は、ほとんど処分で大丈夫です」


母、久美子が一人で暮らしていた部屋だった。


古い二DK。


居間には低いテーブルと小さなテレビ。台所には二人分より少し多い食器があり、冷蔵庫の扉には何も貼られていない。


真紀の判断は早かった。


冬一が服を確認する。


「こちらは」


「全部お願いします」


食器。


「それも」


花瓶。


「いりません」


古い掛け時計。


「処分で」


佐伯が、


「写真と手紙だけですね」


と確認する。


真紀は少し考えた。


「はい」


台所の下段から、大きなステンレスのボウルが出た。


佐伯が持ち上げる。


「一人暮らしにしては大きいですね」


真紀が見て、笑った。


「餃子です」


「餃子?」


「母、作る量がおかしいんですよ」


真紀が遊びに来ると、久美子はよく餃子を作った。


二人で食べるのに、皮を三袋買う。


真紀が、


「何人来るの」


と聞く。


久美子は、


「二人」


と答える。


「皮、何枚あると思ってる?」


「余ったら冷凍すればいいでしょ」


「うちの冷凍庫、母さんの餃子倉庫じゃないんだけど」


「空いてるなら入る」


「空いてない」


「じゃあ何が入ってるの」


「いろいろ」


「いろいろなら餃子入るでしょ」


最後は必ず、真紀が二十個ほど持ち帰る。


「多いって毎回言うんですけどね」


「美味しかったんですか」


冬一が聞く。


「美味しいですよ。それが腹立つんです」


佐伯が笑った。


久美子は包むのも速かった。


餡を置く。


皮の縁に水をつける。


折る。


ひだを作る。


横へ置く。


真紀が一個作る間に、久美子は二個作る。


「競争する必要ないでしょ」


「してない」


「じゃあ待ってよ」


「何で」


「私ばっかり遅いみたいになるから」


「遅いんだから仕方ないでしょ」


真紀が少し餡を入れすぎる。


皮が閉じない。


久美子が横から、


「欲張るから」


と言う。


「肉多い方が得じゃん」


「閉じなかったら損でしょ」


「焼けば一緒」


「出るよ、肉汁」


「じゃあ母さん食べて」


「嫌よ」


「何で」


「失敗したの自分で食べなさい」


それでも焼く時になると、久美子は形の悪い餃子を自分の皿へ取った。


「母さん、それ私の」


「形悪いから」


「自分で食べろって言ったじゃん」


「焼いた人の権利」


「何その権利」


そんなことを言いながら食べた。


冬一はボウルの中を確認した。


何も入っていない。


「こちらは?」


「処分してください」


「はい」


ボウルは金属類へ分けられた。


食器棚の奥から、白い小皿が何枚も出る。


一枚だけ縁が欠けていた。


真紀が取る。


「まだ使ってたんだ」


「昔からですか」


「私が捨てろって言ってたやつです」


久美子は物を極端に溜め込む人ではなかったが、使える物は使った。


欠けが小さければ、


「口つけなきゃいい」


と言う。


真紀は、


「じゃあ皿のどこに口つけるの」


と返した。


「そういう意味じゃない」


「分かってる」


「じゃあ聞かないで」


小皿も処分になった。


午前中、冬一は机を担当した。


公共料金の明細。


病院の領収書。


取扱説明書。


古い年賀状。


宛名のある物が出るたび、真紀へ渡す。


真紀は一枚ずつ見る。


親戚からの年賀状。


昔の友人からの暑中見舞い。


保険会社の案内。


どれも確認すると処分側へ戻した。


「手紙、あまり書く人じゃなかったので」


真紀が言った。


「お母様が?」


「はい。電話の人でした」


電話は多かった。


多いといっても、一時間も二時間も話すわけではない。


日曜日の夜。


どちらからともなく掛ける。


「何してた?」


「別に」


「晩ご飯は?」


「食べた」


「何」


「パスタ」


「また?」


「またって何」


「前もパスタって言ってた」


「一週間前でしょ」


「他に食べる物ないの」


「あるよ」


「じゃあ食べれば」


「今日はパスタがよかったの」


それだけで十分くらい過ぎる。


久美子が、


「今日白菜安かった」


と言う。


真紀が、


「買ったの」


と聞く。


「一玉」


「一人で?」


「半分より安かったから」


「量は二倍じゃん」


「半分より安かったの」


「だから一人で一玉食べるの?」


「餃子にも入る」


「また餃子?」


「嫌なら食べなくていい」


「嫌とは言ってない」


次に会った時、本当に餃子が出た。


毎週電話していても、大事な話ばかりしていたわけではない。


むしろ、何を話したか覚えていない日の方が多かった。


ドラマ。


天気。


野菜。


仕事。


近所の店。


真紀が買った靴。


久美子が美容院で髪を切りすぎたこと。


「母、短くしすぎると毎回私に電話してくるんですよ」


「報告ですか」


佐伯が聞いた。


「愚痴です」


『また短くされた』


「毎回同じ店行くからでしょ」


『いつもより短いの』


「そう言って前も怒ってたじゃん」


『今回は本当に短い』


「じゃあ店変えたら」


『そこまではいい』


「じゃあ何で電話したの」


『短いから』


佐伯が笑った。


「解決してほしいわけじゃないんですね」


「たぶん、そうだったんでしょうね」


真紀も笑った。


机の一段目が空になる。


二段目には筆記具と封筒。


古い便箋が一冊あった。


真紀が受け取る。


何枚か使われているが、残った紙は白い。


表紙を開き、後ろまで確認する。


「これは?」


冬一が聞く。


真紀は閉じた。


「いりません」


昼前、冷蔵庫を空にした。


冷凍室に餃子はなかった。


真紀が、


「珍しい」


と言った。


「いつもあったんですか」


「うちに持ってくる分が」


「じゃあ、お母様の家には残らない?」


冬一が聞く。


「ああ」


真紀が笑った。


「そうかもしれないです」


冷凍室を閉めた。


昼休憩。


真紀は窓際でコンビニのおにぎりを食べた。


佐伯が、


「近くにお住まいだったんですか」


と聞く。


「電車で四十分くらいです」


「じゃあ、よく来られてたんですね」


「前は」


真紀はお茶を飲んだ。


少しして、自分から続けた。


「何年か、来てなかったんです」


佐伯はそれ以上聞かなかった。


午後。


押し入れからアルバムが出た。


冬一が真紀へ渡す。


「写真です」


真紀は畳へ座る。


一冊目。


幼い頃の写真。


入学式。


運動会。


修学旅行へ出る朝。


成人式。


久美子と二人で写っているものも何枚かあった。


一枚、台所で餃子を包んでいる写真がある。


真紀が笑った。


「誰が撮ったんだろ」


二人ともカメラを見ていない。


久美子が餃子を包んでいる。


真紀は横で、破れた皮を指で押さえていた。


「失敗してますね」


冬一が言った。


「たぶん肉入れすぎです」


「欲張ったんですね」


「昔からです」


真紀は笑った。


写真を少し眺める。


抜かなかった。


ページをめくった。


写真は全部確認した。


アルバムそのものも残さなかった。


「弟が一冊持ってるので」


「こちらは処分で?」


「はい」


冬一は閉じたアルバムを受け取った。


午後の作業が進む。


寝室の箪笥。


布団。


本棚。


久美子の服。


真紀はほとんど迷わなかった。


冬一が確認するたび、


「お願いします」


と答える。


本棚から料理本が一冊出た。


餃子のページに細い紙が挟まっていた。


真紀が開く。


「この人、レシピ見てたんだ」


「自己流じゃなかったんですか」


「ずっと適当に作ってると思ってました」


ページの端に油の染みがある。


書き込みはない。


メモもない。


真紀は本を閉じた。


「これもお願いします」


冬一は処分側へ置いた。


最後に母と話したのも、日曜日の夜だった。


真紀はその週、仕事が続いていた。


帰宅も遅かった。


電話が鳴った時には、風呂にも入っていなかった。


久美子が、


『今度の日曜、来る?』


と聞いた。


「無理。仕事」


『その次は』


「分かんない」


『餃子作ろうと思ったのに』


「また今度でいいよ」


少し間があった。


『あなたのまた今度は、いつなの』


疲れていた。


予定表を見る気にもならなかった。


「分からない」


久美子も黙った。


それから、


『じゃあ、もういい』


と言った。


真紀は、


「分かった」


と答えた。


電話はそこで終わった。


大喧嘩ではなかった。


怒鳴っていない。


昔の不満を持ち出してもいない。


次の日に謝らなければならないほどの言葉も、たぶんなかった。


ただ、翌週の日曜日、真紀は電話を掛けなかった。


久美子からも掛かってこなかった。


その次も。


電話しようと思ったことはあった。


けれど、何を一言目にすればいいのか考える。


「この前はごめん」では大げさな気がした。


何事もなかったように、


「今日何食べた?」


と聞くのも妙だった。


一週間が過ぎる。


一か月が過ぎる。


間が空くほど、一本目の電話だけが掛けにくくなった。


真紀は母の番号を消さなかった。


久美子も、真紀の番号を知っていた。


どちらも掛けなかった。


正月が来た。


春が来た。


また冬が来た。


何年か経った。


その間に、二人の間へ新しい喧嘩は一つも増えなかった。


夕方。


部屋の家具はほとんどなくなった。


残っているのは、寝室の小さな机だけだった。


「これで最後です」


佐伯が言った。


冬一は机の引き出しを確認する。


一段目。


空。


二段目。


保証書と乾電池。


どちらも真紀へ確認し、処分。


一番下。


取っ手を引く。


動かない。


もう一度。


途中で引っ掛かる。


「固いですね」


冬一は無理に引かず、机を少し傾けた。


隙間から薄い紙が見える。


奥で何かが噛んでいるらしい。


佐伯に片側を押さえてもらい、冬一が少しずつ引く。


紙が折れる音がした。


引き出しが開いた。


中に入っていたのは、家電の保証書。


輪ゴムが何本か。


インクの出ないボールペン。


古い体温計の説明書。


それだけだった。


「水野さん」


真紀が来る。


引き出しの前へしゃがんだ。


保証書を一枚ずつ見る。


昔使っていた炊飯器。


もうない掃除機。


小さな扇風機。


裏も見る。


何も書かれていない。


説明書を開く。


文字ばかり。


輪ゴムを持ち上げる。


下には何もない。


ボールペンをどける。


引き出しの底が見える。


冬一は何も言わず待っていた。


真紀が一度、引き出しを閉めた。


「これで全部ですか」


「はい。この机が最後です」


「そうですか」


真紀は立ち上がらなかった。


少しして、もう一度引き出しを開ける。


さっきと同じ物が入っている。


保証書。


輪ゴム。


ボールペン。


説明書。


一枚ずつ動かした。


やはり、何もなかった。


「何かあると思ってたわけじゃないんです」


冬一は手を止めたままいた。


真紀は引き出しの底を見た。


「母、手紙なんて書く人じゃないし」


少し笑った。


そのまま目元を一度拭った。


「……あればよかっただけで」


冬一は頷かなかった。


否定もしなかった。


真紀が立ち上がるまで、その場にいた。


やがて真紀は保証書を引き出しへ戻した。


輪ゴム。


ボールペン。


説明書。


全部戻す。


「これも、処分してください」


「分かりました」


真紀が居間へ戻る。


冬一は最後の引き出しを閉めた。


少し固かったので、奥まで両手で押した。


今度は、真紀は開け直さなかった。

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