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生活の跡  作者: 鷺沼鳩屋
いない人の場所
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10/12

帰るまで

昼間なのに、玄関灯が点いていた。


榊冬一が門を入った時から気づいていたが、依頼人の大橋隆は何も言わなかった。


作業を始めて一時間ほど経った頃、佐伯が玄関脇のスイッチを見つけた。


「これ、消していいですか」


隆が台所から顔を出した。


「ああ、それはそのままでお願いします」


「分かりました」


理由は聞かなかった。


玄関灯は点いたままになった。


大橋隆、七十三歳。


妻の千鶴が亡くなったあとも、一人でこの家に暮らしていた。


近いうちに娘の住む町へ移ることになり、今日は持っていかない家具や家電を片づける。


妻の遺品については、すでに選び終えていた。


写真。


腕時計。


小さな裁縫箱。


よく使っていた湯呑み。


それ以外はほとんど処分するという。


「自分の荷物の方が多いくらいですよ」


隆が言った。


廊下には引っ越し用の段ボールが六箱並んでいる。


佐伯が見る。


「六箱なら少ない方じゃないですか」


「娘には三箱にしろって言われてる」


「減らせそうです?」


「無理」


返事が早かった。


冬一が笑った。


「何が多いんですか」


「鍋」


「鍋?」


「鍋が五つ」


「一人暮らしで?」


佐伯が聞く。


「大きさが違う」


「五種類必要ですか」


「必要だから五つある」


隆は当然のように言った。


娘には、


「新しい部屋、台所狭いよ」


と言われている。


隆は、


「重ねれば入る」


と答えた。


「母さんなら絶対減らせって言うよ」


「千鶴は鍋に関しては俺より多かった」


「じゃあ二人とも駄目じゃん」


その話は昨日もしたらしい。


「娘さん、今日も来られるんですか」


冬一が聞く。


「夕方に迎えに来ます。それまでに決めろって」


「鍋を?」


「鍋を」


隆は少し考えた。


「四つにはする」


佐伯が笑った。


「一個しか減ってない」


「大きな前進だ」


台所の整理から始めた。


食器棚には夫婦二人で使っていた皿が残っている。


隆が持っていく物は、すでに新聞紙で包まれ、箱へ入っていた。


冬一が棚の奥から小さな味噌汁椀を出す。


「こちらは?」


隆が見る。


「ああ、それは処分してください」


「二つとも?」


「はい」


黒い椀が二つ。


片方だけ縁の塗りが少し剥げていた。


冬一は重ねて箱へ入れた。


流しの下から鍋が出る。


一つ。


二つ。


さらに奥に三つ。


佐伯が振り返った。


「これで五つ?」


「いや、それは処分する方」


「まだあるんですか」


「持っていくのが五つ」


「合計八?」


「千鶴がいた頃はもっとあった」


隆は笑った。


料理は夫婦どちらもした。


千鶴の方が上手かったが、隆も作らないわけではない。


「味噌汁だけは、よく怒られました」


「失敗するんですか」


冬一が聞く。


「電子レンジで温めると」


千鶴は味噌汁を鍋で温め直した。


隆は面倒なので、椀ごと電子レンジへ入れる。


しかも熱い方が好きだった。


一分。


足りない。


もう一分。


「味噌汁を煮るなって言うんですよ」


「煮えますね、それ」


「熱い方がうまい」


「味噌の香り飛ぶでしょ」


「千鶴も同じこと言ってた」


夜遅く帰った日にもやった。


電子レンジが鳴る。


寝室から声がする。


『何温めてるの』


「味噌汁」


『何分?』


「二分」


『長い』


「ぬるいんだよ」


『一分で見なさい』


「寝てるんじゃないのか」


『レンジの音で起きたの』


「じゃあ寝てろ」


『味噌汁沸かすから寝られないの』


「沸いたって音しないだろ」


『あなたが熱い熱いって言うでしょう』


冬一が笑った。


「言うんですか」


「言います」


「じゃあ起きますね」


「別に起きなくていいんですよ」


隆も笑った。


千鶴は先に寝ていても、電子レンジの音にはよく気づいた。


隆が遅番だった頃は、夕食を冷蔵庫へ入れておく。


ご飯。


煮物。


焼き魚。


味噌汁だけ鍋。


隆は帰宅すると、一人で温めて食べる。


朝になると千鶴が聞く。


『昨日の魚どうだった?』


「うまかった」


『味噌汁は?』


「うまかった」


『何分温めたの』


「それ聞く必要あるか?」


『ある』


「覚えてない」


『嘘』


それが何年も続いた。


「結局直らなかったんですね」


佐伯が言う。


「熱い方が好きだから」


「そこは譲らない」


「夫婦でも味噌汁の温度までは合わせなくていいだろ」


隆はそう言って、処分する鍋を一つ持ち上げた。


「これは千鶴がよく使ってたな」


底を見た。


「でも新しい部屋、ガスじゃないんですよ」


「IHですか」


「そう。使えるか分からない」


少し考えてから、


「処分で」


冬一へ渡した。


昼前には台所の大半が空になった。


食器棚を運び出す。


電子レンジも処分。


隆がそれを見ながら、


「娘のところの近くに家電屋あるんですよ」


と言った。


「新しく買われるんですか」


「電子レンジは買わないと」


佐伯が笑った。


「また味噌汁二分温められますね」


「三分できるやつにする」


「長くなってる」


「一人なんだから誰にも怒られない」


隆は笑った。


新しい部屋は、娘の家から歩いて十分ほどだという。


同居ではない。


「一緒に住めばって言われたんですけどね」


「断ったんですか」


「娘婿が可哀想だろ」


「そんなことないって言ってたけど」


「俺が嫌だ」


はっきりしていた。


駅が近い。


スーパーも近い。


病院も歩いて行ける。


今の家より少し狭いが、一人なら十分。


「蕎麦屋もある」


隆が言った。


「そこ大事ですか」


冬一が聞く。


「大事ですよ。娘の家より近い」


「娘さんに聞かせられないですね」


「昨日言った」


「怒られました?」


「『じゃあ蕎麦屋に面倒見てもらえば』って」


冬一も笑った。


昼休憩を終える頃、玄関灯はまだ点いていた。


明るい時間なので、外から見ても光は弱い。


それでも電球は消えていない。


午後、居間へ移った。


テレビ。


低い棚。


小さな本箱。


夫婦で使っていたソファ。


隆はソファだけ少し迷った。


「新しい部屋には入りませんか」


冬一が聞く。


「入るけど、大きいんですよ」


三人掛け。


二人で買った時はもっと硬かったらしい。


千鶴は右側。


隆は左側。


いつからそう決まったのかは覚えていない。


「逆に座ると怒られるんですよ」


「お互いに?」


「俺が右に座ると千鶴が『そこ私』って」


「大橋さんは?」


「俺も言う」


「どっちもですね」


「だから平和だったんですよ」


そこまで言って、隆はソファの左端を押した。


「これもお願いします」


運び出す。


床に四つの脚跡だけが残った。


押し入れからアルバムが一冊出た。


隆へ見せる。


「それは娘に聞いてください」


「大橋さんは?」


「写真、もう持っていく分だけ抜きました」


アルバムを開かない。


娘が来るまで確認箱へ回した。


別の棚から、千鶴の古い眼鏡ケースが出た。


中には何もない。


隆が一度開け、


「空ですね」


と冬一へ返す。


それも処分。


ハンカチ。


古い手帳。


使いかけの毛糸。


どれも持ち帰らない。


「かなり決めてありますね」


冬一が言った。


「一回自分で片づけたので」


「大変じゃなかったですか」


隆は少し考えた。


「物が多くて大変でした」


それだけ言った。


午後三時頃、娘が来た。


五十歳前後の女性で、玄関へ入るなり段ボールを数えた。


「六箱?」


「今五箱半」


隆が答える。


「増えてるじゃん」


「減った」


「昨日五箱だったよ」


「鍋を入れた」


「やっぱり鍋持ってくの?」


「四つまで減らした」


娘は佐伯を見る。


「聞きました?」


「八つあったそうです」


「八つ?」


「処分も合わせて」


「お父さん」


「だから減らしただろ」


娘は額を押さえた。


「一人で何作るの」


「鍋による」


「料理名を聞いてるの」


「まだ決めてない」


「じゃあいらないでしょ」


「決めてから買う方が無駄だろ」


「何で買う前提なの」


冬一と佐伯は作業を続けた。


しばらく親子で言い合った末、娘が折れた。


「分かった。四つね。五つ目出てきたら捨てるからね」


「出ない」


「絶対?」


「たぶん」


「もう怪しい」


隆が笑った。


娘も完全には怒っていなかった。


確認箱のアルバムを渡す。


娘は床へ座ってページをめくる。


「これ、お母さん若い」


隆が横から一度見る。


「二十代じゃないか」


「お父さん細いね」


「今も太ってない」


「昔はもっと」


「お前もな」


「私を巻き込まないで」


何枚か抜く。


隆は自分から欲しいとは言わなかったが、娘が一枚差し出した。


「これ持ってけば?」


夫婦二人で食卓に座っている写真だった。


何か特別な日には見えない。


料理が並び、隆が横を向き、千鶴はカメラへ少し笑っている。


隆は受け取る。


「何でこれ」


「普通だから」


「もっとまともなのあるだろ」


「まともって何」


娘が別の写真を出す。


旅行先で二人並んでいる。


隆はそれを見る。


最初の写真も見る。


「じゃあこっち」


普通の食卓の方を残した。


娘は、


「そっちなんだ」


と言っただけだった。


夕方が近づく。


部屋から家具が消えていく。


窓の外が少しずつ暗くなる。


昼にはほとんど目立たなかった玄関灯が、廊下の奥からはっきり見えるようになった。


娘が気づいた。


「あれ、点けっぱなし?」


隆が答える。


「いいんだ」


「昼から?」


「朝から」


「もったいない」


「今日くらいいいだろ」


娘が父を見る。


それから玄関灯を見る。


「……そっか」


それ以上は言わなかった。


冬一は空になった本棚の裏を確認する。


小銭も書類もない。


棚を搬出。


居間が空になる。


最後の段ボールを娘の車へ運ぶ。


隆の五箱と少し。


鍋は四つだった。


「本当に四つだ」


娘が言った。


「信用ないな」


「実績があるから」


「何の」


「五箱が六箱になる実績」


車の荷台を閉める。


隆は自分の鞄だけを持って、もう一度家へ入った。


冬一が最後の確認をする。


台所。


居間。


寝室。


押し入れ。


洗面所。


隆が一緒についてくるわけではなかった。


居間で待っている。


窓の外を見る。


「大橋さん、こちらで終了です」


冬一が戻ると、隆は頷いた。


「ありがとうございました」


「鍵はどうされますか」


「私が持ちます。明日、不動産屋に渡すので」


隆はポケットへ入れた。


靴を履く。


娘が先に外へ出る。


隆も玄関を降りた。


夕方の空気は少し冷えていた。


玄関灯の下だけが明るい。


隆が門まで歩く。


娘が車の運転席へ乗る。


隆は助手席の扉へ手を掛けてから、家を振り返った。


「榊さん」


「はい」


「車が出るまで、そのままでいいですか」


玄関灯を見ていた。


「はい」


冬一は答えた。


隆が助手席へ乗る。


娘がエンジンを掛けた。


車がゆっくり動き始める。


門の前から道路へ出る。


玄関灯は点いたまま。


車が角を曲がった。


見えなくなった。


冬一は家へ戻った。


玄関を開ける。


壁のスイッチを押す。


外の明かりが消えた。


冬一は扉を閉め、鍵を掛けた。


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更新お疲れ様です。実写映画で観たくなる作品ですね。
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