詰め替え用
「あ、それ一個ください。うちも同じの使ってるので」
榊冬一が台所の収納から出したのは、食器用洗剤の詰め替えだった。
未開封。透明な袋の中に淡い色の液体が入っている。
冬一は手にしたまま岸本麻衣を見る。
「残しますか」
「残すというか、使います」
麻衣は笑った。
「姉の形見が洗剤って、ちょっと嫌ですけど」
佐伯が流しの下を覗いた。
「同じの、もう一個ありますよ」
「じゃあ一個でいいです。うちにもまだ少しあるので」
二つ目は処分側へ回った。
岸本奈津子が一人で暮らしていた一LDKは、物が多い部屋ではなかった。
必要な物は揃っているが、同じ物が何十個も積まれているわけではない。洗剤の詰め替えも二つだけ。トイレットペーパーも一袋。ティッシュも一箱余分にある程度だった。
「姉、安いと一個だけ余計に買うんですよ」
麻衣が言った。
「一個だけ?」
「二個買うと邪魔だからって」
奈津子は、特売の値札を見るのが好きだった。
スーパーへ行くと、まず洗剤売り場。
買う物がなくても見る。
麻衣が一緒にいると、
「これ安い」
と言う。
「家にあるでしょ」
「ある」
「じゃあいらないじゃん」
「でも安い」
「安くても買ったらお金減るよ」
「どうせ使う」
「今日じゃなくていいでしょ」
「今日が安いの」
そのやり取りのあと、一個だけ籠に入れる。
「二個入れると私が戻すんです」
「一個なら許すんですね」
冬一が聞いた。
「一個なら、まあ」
「基準があるんですね」
「姉にも私にも」
麻衣は笑った。
冬一は台所の小物を順に確認した。
調味料。保存容器。輪ゴム。ふきん。
使いかけの物は処分。
未開封の日用品も、麻衣が使う物だけ少し分ける。
奈津子が使っていた食器用洗剤は、麻衣の家にもある物と同じだった。
「それ、姉に薦められたんですよ」
麻衣が言う。
「前は違うのを?」
「何でもいい派でした」
奈津子が初めて持ってきた時も、麻衣は受け取らなかった。
『今のあるからいらない』
『使い終わったら使えばいいでしょ』
『別に困ってない』
『こっち泡切れいいよ』
『洗剤なんて全部一緒でしょ』
『違うって』
『じゃあ姉ちゃんが使えば』
『使ってるから薦めてるんでしょ』
結局、奈津子が流しの下へ勝手に置いて帰った。
しばらくして今までの洗剤がなくなり、麻衣は仕方なく使った。
次に奈津子が来た時、
『どうだった?』
と聞かれた。
『何が』
『洗剤』
『普通』
『泡切れよかったでしょ』
『覚えてない』
『じゃあ前のに戻す?』
麻衣は少し黙った。
『別にこれでいい』
奈津子はすぐ笑った。
『ほら、私の勝ち』
『洗剤で勝ち負け作らないで』
それから何年も、麻衣も同じ物を買っていた。
「姉に言うと調子乗るから、気に入ったとは一回も言わなかったです」
「でも同じの使ってるのは知られてたんですよね」
佐伯が言う。
「うち来たら流し見るでしょう」
「じゃあ分かりますね」
「はい。毎回勝った顔してました」
麻衣が口元を曲げた。
台所の棚が空になっていく。
昼前には冷蔵庫の中もほとんど片づいた。
卵が三つ。
ヨーグルト。
使いかけの味噌。
冷凍室には小さな保冷剤が六つ入っていた。
佐伯がまとめて出す。
「これは多いですね」
「姉、保冷剤捨てられないんですよ」
「日用品は一個余計までなのに?」
「保冷剤だけ別枠です」
ケーキを買う。
保冷剤がついてくる。
冷凍庫へ入れる。
麻衣が、
『何に使うの』
と聞く。
奈津子は、
『何かに』
と答える。
『何かって何』
『熱出た時とか』
『六個同時に?』
『停電した時』
『その時は溶けるでしょ』
『すぐには溶けない』
『じゃあ何個まで取っとくの』
奈津子は冷凍庫を見て、
『入るまで』
と答えた。
「ここだけは私が勝てなかったです」
麻衣が言う。
保冷剤はすべて処分になった。
冷凍室の奥から、小さなアイスが一つ出た。
バニラ味。
麻衣が見て、
「最後までこれなんだ」
と言った。
姉妹で箱入りのアイスを買うと、奈津子は必ずバニラを先に取った。
麻衣はチョコ。
残りがバニラばかりになると、
『一個交換して』
と奈津子が言う。
『嫌。自分でバニラばっか取ったんでしょ』
『チョコ一個残ってるじゃん』
『それ私の』
『名前書いてない』
『じゃあバニラ食べれば』
『飽きた』
『知らないよ』
最後には奈津子が勝手にチョコを食べ、次に買う箱は麻衣が選ぶことになる。
ところがその次も、
『バニラ多いやつがいい』
と奈津子が言う。
『飽きたんじゃなかったの』
『一個ずつなら飽きない』
「全然学ばないんですよ」
麻衣は笑った。
アイスは処分になった。
冷蔵庫の電源を抜く。
寝室へ移る。
化粧台の引き出しには、化粧品が少し残っていた。
冬一は中身を出し、現金や貴金属が混じっていないか確認する。
瓶の底に少しだけ残った化粧水を、麻衣が見つけた。
「あ」
手に取る。
「これ、私があげたやつだ」
「使われてますね」
佐伯が言う。
「ちょっとだけ」
ラベルを見る。
半年前、麻衣が買ったものの肌に合わず、奈津子へ持ってきた。
『これ使う?』
『何で』
『合わなかった』
『また適当に買ったの』
『匂いはよかったから』
『顔につける物を匂いで買わないで』
『じゃあいらない?』
『置いてって』
その場では文句を言いながら受け取った。
「たぶん姉にも合わなかったんでしょうね」
麻衣は瓶を振った。
少しだけ液体が動く。
「返されなかったんですか」
「返すと私が『やっぱり駄目だった?』ってうるさいから」
「そこまで分かってたんですね」
「そういうところだけ頭いいんですよ」
麻衣は笑い、処分箱へ入れた。
服もほとんど残さなかった。
サイズが違う。
好みも違う。
冬一が一枚ずつ見せる必要はなく、ポケットだけ確認してまとめる。
奈津子のアクセサリーは、小さな箱一つに収まっていた。
高価な物は少ない。
麻衣は一つずつ見た。
細いネックレス。
小さな指輪。
ピアスが三組。
そのうち銀色の丸いピアスだけ手元へ置いた。
「これは?」
冬一が聞く。
「一緒に買ったやつです」
姉妹で旅行へ行った時、駅前の雑貨屋で見つけた。
奈津子が先に手に取った。
『これいい』
麻衣が横から、
『姉ちゃん似たの持ってるじゃん』
『これは丸い』
『持ってるのも丸いよ』
『大きさが違う』
『誰が分かるの』
『私』
結局買った。
その夜、ホテルでつけて、
『どう?』
と聞かれた。
麻衣は、
『持ってるやつと一緒』
と答えた。
奈津子は鏡を見ながら、
『全然違う』
と言った。
「違ったんですか」
佐伯が聞く。
「今見ても分かりません」
麻衣は笑った。
ピアスだけ、持ち帰る袋へ入れた。
写真はアルバム二冊と、引き出しにばらで数枚。
麻衣は床へ座って確認した。
子供の頃。
制服姿。
成人式。
家族旅行。
二人で撮った写真もある。
一枚、海を背にした写真があった。
奈津子の方が笑っていて、麻衣は目を細めている。
「眩しかったんです、これ」
「海ですか」
冬一が写真を見る。
「はい。姉が『海を背に撮ろう』って言ったくせに、太陽こっちなんですよ」
『目開けて』
『無理』
『せっかくなんだから』
『姉ちゃん場所決めたんでしょ』
『海入れたいじゃん』
『じゃあ自分だけ目開ければ』
撮り直しても、麻衣だけ目を細めた。
三枚続けてほぼ同じ写真がある。
「三回も撮ったんですね」
「姉が諦めなくて」
「最後は?」
「私が諦めました」
麻衣は三枚のうち一枚だけ抜いた。
残りはアルバムごと処分。
昼休憩。
麻衣はコンビニのサンドイッチを食べた。
持ち帰る物をまとめた紙袋が近くにある。
写真。
ピアス。
必要な書類。
その横に、食器用洗剤の詰め替え。
佐伯が紙袋を見る。
「そこだけ買い物帰りみたいですね」
「ほんとだ」
麻衣が笑った。
「姉の物で、一番早くなくなるのがこれかも」
「使えばなくなりますね」
冬一が言った。
「そりゃそうですよね」
麻衣は詰め替えを軽く押した。
「姉、こういうの最後まで使うんですよ」
「最後まで?」
佐伯が聞く。
「異常なくらい」
詰め替え袋をボトルへ入れる。
ある程度出る。
普通ならそこで終わりにする。
奈津子は違った。
袋の下から指で押す。
上へ滑らせる。
まだ出る。
袋を細く巻く。
また押す。
角へ溜まった分まで出口へ寄せる。
麻衣が横で、
『もう空でしょ』
と言う。
奈津子は、
『まだ入ってる』
と答える。
『一円分もないよ』
『一円は一円』
『その手間の方が高いよ』
『私の手間だからいいの』
最後に袋をぺらぺらになるまで潰す。
「毎回やるんです」
麻衣が言った。
「詰め替えのたびに?」
「毎回」
「几帳面ですね」
冬一が言うと、麻衣は首を振った。
「洗濯物は二日くらい取り込んだままですよ」
「そこは別なんですね」
「別です。本人の中では」
奈津子の家へ行くと、ソファの端に洗濯物の山がある。
麻衣が、
『畳まないの』
と聞く。
『あとで』
『そのあといつ来るの』
『着るまでには』
『そこから直接着てるじゃん』
『畳む手間省けた』
そんな人が、洗剤だけは最後まで絞る。
「基準が分かんないんですよね」
麻衣は笑った。
午後、家具の搬出が始まった。
ベッド。
小さな本棚。
ダイニングテーブル。
椅子二脚。
テレビ台。
麻衣はそのたびに立ち止まるわけではなかった。
必要なら避ける。
運びやすいよう扉を押さえる。
冬一に尋ねられれば判断する。
古い電気ケトル。
「処分で」
花瓶。
「それも」
鍋。
「いりません」
姉が使っていたというだけでは残さなかった。
夕方近く、台所の収納も空になった。
冬一が最後の引き出しを確認すると、輪ゴムと小さな計量スプーンが出た。
「こちらは?」
「お願いします」
麻衣の持ち帰る物は、最後まで紙袋一つだった。
玄関で靴を履く前に、麻衣が中を確認した。
封筒。
写真一枚。
ピアス。
洗剤。
「やっぱり変ですね」
「何がです?」
冬一が聞く。
「洗剤だけ」
冬一は紙袋を見た。
「使う物なら、入っててもいいんじゃないですか」
麻衣は少し笑った。
「そうですね」
紙袋を持った。
「姉ちゃんのだからって飾る物でもないし」
冬一は答えなかった。
麻衣はそのまま部屋を出た。
その夜、麻衣は自宅で夕食を済ませた。
使った皿を流しへ置く。
鍋。
箸。
コップ。
スポンジを取って、洗剤のボトルを押した。
空気の音がした。
もう一度押す。
少しだけ泡が出る。
ボトルを持ち上げると、底に薄く残っているだけだった。
麻衣は流しの下を開けた。
昼の紙袋がある。
写真とピアスは、帰宅してすぐ別の場所へ移していた。
中には洗剤だけが残っている。
袋を取り出す。
上を切る。
ボトルの口へ差し込んだ。
液体が落ちていく。
袋が軽くなる。
ある程度入ったところで、麻衣は出口を上へ向けた。
そのまま捨てようとした。
手が止まった。
袋の下へ指を当てる。
上へ滑らせる。
少しだけ洗剤が落ちた。
もう一度。
袋を細く巻く。
押す。
透明な袋の角に残っていた分がゆっくり出口へ寄る。
最後に一滴落ちた。
麻衣は袋を広げて見た。
「……一円もないじゃん」
空になった袋をごみ箱へ入れた。
ボトルを流しへ戻す。
スポンジを濡らした。
皿を洗い始めた。




