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生活の跡  作者: 鷺沼鳩屋
明日のぶん
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11/12

詰め替え用

「あ、それ一個ください。うちも同じの使ってるので」


榊冬一が台所の収納から出したのは、食器用洗剤の詰め替えだった。


未開封。透明な袋の中に淡い色の液体が入っている。


冬一は手にしたまま岸本麻衣を見る。


「残しますか」


「残すというか、使います」


麻衣は笑った。


「姉の形見が洗剤って、ちょっと嫌ですけど」


佐伯が流しの下を覗いた。


「同じの、もう一個ありますよ」


「じゃあ一個でいいです。うちにもまだ少しあるので」


二つ目は処分側へ回った。


岸本奈津子が一人で暮らしていた一LDKは、物が多い部屋ではなかった。


必要な物は揃っているが、同じ物が何十個も積まれているわけではない。洗剤の詰め替えも二つだけ。トイレットペーパーも一袋。ティッシュも一箱余分にある程度だった。


「姉、安いと一個だけ余計に買うんですよ」


麻衣が言った。


「一個だけ?」


「二個買うと邪魔だからって」


奈津子は、特売の値札を見るのが好きだった。


スーパーへ行くと、まず洗剤売り場。


買う物がなくても見る。


麻衣が一緒にいると、


「これ安い」


と言う。


「家にあるでしょ」


「ある」


「じゃあいらないじゃん」


「でも安い」


「安くても買ったらお金減るよ」


「どうせ使う」


「今日じゃなくていいでしょ」


「今日が安いの」


そのやり取りのあと、一個だけ籠に入れる。


「二個入れると私が戻すんです」


「一個なら許すんですね」


冬一が聞いた。


「一個なら、まあ」


「基準があるんですね」


「姉にも私にも」


麻衣は笑った。


冬一は台所の小物を順に確認した。


調味料。保存容器。輪ゴム。ふきん。


使いかけの物は処分。


未開封の日用品も、麻衣が使う物だけ少し分ける。


奈津子が使っていた食器用洗剤は、麻衣の家にもある物と同じだった。


「それ、姉に薦められたんですよ」


麻衣が言う。


「前は違うのを?」


「何でもいい派でした」


奈津子が初めて持ってきた時も、麻衣は受け取らなかった。


『今のあるからいらない』


『使い終わったら使えばいいでしょ』


『別に困ってない』


『こっち泡切れいいよ』


『洗剤なんて全部一緒でしょ』


『違うって』


『じゃあ姉ちゃんが使えば』


『使ってるから薦めてるんでしょ』


結局、奈津子が流しの下へ勝手に置いて帰った。


しばらくして今までの洗剤がなくなり、麻衣は仕方なく使った。


次に奈津子が来た時、


『どうだった?』


と聞かれた。


『何が』


『洗剤』


『普通』


『泡切れよかったでしょ』


『覚えてない』


『じゃあ前のに戻す?』


麻衣は少し黙った。


『別にこれでいい』


奈津子はすぐ笑った。


『ほら、私の勝ち』


『洗剤で勝ち負け作らないで』


それから何年も、麻衣も同じ物を買っていた。


「姉に言うと調子乗るから、気に入ったとは一回も言わなかったです」


「でも同じの使ってるのは知られてたんですよね」


佐伯が言う。


「うち来たら流し見るでしょう」


「じゃあ分かりますね」


「はい。毎回勝った顔してました」


麻衣が口元を曲げた。


台所の棚が空になっていく。


昼前には冷蔵庫の中もほとんど片づいた。


卵が三つ。


ヨーグルト。


使いかけの味噌。


冷凍室には小さな保冷剤が六つ入っていた。


佐伯がまとめて出す。


「これは多いですね」


「姉、保冷剤捨てられないんですよ」


「日用品は一個余計までなのに?」


「保冷剤だけ別枠です」


ケーキを買う。


保冷剤がついてくる。


冷凍庫へ入れる。


麻衣が、


『何に使うの』


と聞く。


奈津子は、


『何かに』


と答える。


『何かって何』


『熱出た時とか』


『六個同時に?』


『停電した時』


『その時は溶けるでしょ』


『すぐには溶けない』


『じゃあ何個まで取っとくの』


奈津子は冷凍庫を見て、


『入るまで』


と答えた。


「ここだけは私が勝てなかったです」


麻衣が言う。


保冷剤はすべて処分になった。


冷凍室の奥から、小さなアイスが一つ出た。


バニラ味。


麻衣が見て、


「最後までこれなんだ」


と言った。


姉妹で箱入りのアイスを買うと、奈津子は必ずバニラを先に取った。


麻衣はチョコ。


残りがバニラばかりになると、


『一個交換して』


と奈津子が言う。


『嫌。自分でバニラばっか取ったんでしょ』


『チョコ一個残ってるじゃん』


『それ私の』


『名前書いてない』


『じゃあバニラ食べれば』


『飽きた』


『知らないよ』


最後には奈津子が勝手にチョコを食べ、次に買う箱は麻衣が選ぶことになる。


ところがその次も、


『バニラ多いやつがいい』


と奈津子が言う。


『飽きたんじゃなかったの』


『一個ずつなら飽きない』


「全然学ばないんですよ」


麻衣は笑った。


アイスは処分になった。


冷蔵庫の電源を抜く。


寝室へ移る。


化粧台の引き出しには、化粧品が少し残っていた。


冬一は中身を出し、現金や貴金属が混じっていないか確認する。


瓶の底に少しだけ残った化粧水を、麻衣が見つけた。


「あ」


手に取る。


「これ、私があげたやつだ」


「使われてますね」


佐伯が言う。


「ちょっとだけ」


ラベルを見る。


半年前、麻衣が買ったものの肌に合わず、奈津子へ持ってきた。


『これ使う?』


『何で』


『合わなかった』


『また適当に買ったの』


『匂いはよかったから』


『顔につける物を匂いで買わないで』


『じゃあいらない?』


『置いてって』


その場では文句を言いながら受け取った。


「たぶん姉にも合わなかったんでしょうね」


麻衣は瓶を振った。


少しだけ液体が動く。


「返されなかったんですか」


「返すと私が『やっぱり駄目だった?』ってうるさいから」


「そこまで分かってたんですね」


「そういうところだけ頭いいんですよ」


麻衣は笑い、処分箱へ入れた。


服もほとんど残さなかった。


サイズが違う。


好みも違う。


冬一が一枚ずつ見せる必要はなく、ポケットだけ確認してまとめる。


奈津子のアクセサリーは、小さな箱一つに収まっていた。


高価な物は少ない。


麻衣は一つずつ見た。


細いネックレス。


小さな指輪。


ピアスが三組。


そのうち銀色の丸いピアスだけ手元へ置いた。


「これは?」


冬一が聞く。


「一緒に買ったやつです」


姉妹で旅行へ行った時、駅前の雑貨屋で見つけた。


奈津子が先に手に取った。


『これいい』


麻衣が横から、


『姉ちゃん似たの持ってるじゃん』


『これは丸い』


『持ってるのも丸いよ』


『大きさが違う』


『誰が分かるの』


『私』


結局買った。


その夜、ホテルでつけて、


『どう?』


と聞かれた。


麻衣は、


『持ってるやつと一緒』


と答えた。


奈津子は鏡を見ながら、


『全然違う』


と言った。


「違ったんですか」


佐伯が聞く。


「今見ても分かりません」


麻衣は笑った。


ピアスだけ、持ち帰る袋へ入れた。


写真はアルバム二冊と、引き出しにばらで数枚。


麻衣は床へ座って確認した。


子供の頃。


制服姿。


成人式。


家族旅行。


二人で撮った写真もある。


一枚、海を背にした写真があった。


奈津子の方が笑っていて、麻衣は目を細めている。


「眩しかったんです、これ」


「海ですか」


冬一が写真を見る。


「はい。姉が『海を背に撮ろう』って言ったくせに、太陽こっちなんですよ」


『目開けて』


『無理』


『せっかくなんだから』


『姉ちゃん場所決めたんでしょ』


『海入れたいじゃん』


『じゃあ自分だけ目開ければ』


撮り直しても、麻衣だけ目を細めた。


三枚続けてほぼ同じ写真がある。


「三回も撮ったんですね」


「姉が諦めなくて」


「最後は?」


「私が諦めました」


麻衣は三枚のうち一枚だけ抜いた。


残りはアルバムごと処分。


昼休憩。


麻衣はコンビニのサンドイッチを食べた。


持ち帰る物をまとめた紙袋が近くにある。


写真。


ピアス。


必要な書類。


その横に、食器用洗剤の詰め替え。


佐伯が紙袋を見る。


「そこだけ買い物帰りみたいですね」


「ほんとだ」


麻衣が笑った。


「姉の物で、一番早くなくなるのがこれかも」


「使えばなくなりますね」


冬一が言った。


「そりゃそうですよね」


麻衣は詰め替えを軽く押した。


「姉、こういうの最後まで使うんですよ」


「最後まで?」


佐伯が聞く。


「異常なくらい」


詰め替え袋をボトルへ入れる。


ある程度出る。


普通ならそこで終わりにする。


奈津子は違った。


袋の下から指で押す。


上へ滑らせる。


まだ出る。


袋を細く巻く。


また押す。


角へ溜まった分まで出口へ寄せる。


麻衣が横で、


『もう空でしょ』


と言う。


奈津子は、


『まだ入ってる』


と答える。


『一円分もないよ』


『一円は一円』


『その手間の方が高いよ』


『私の手間だからいいの』


最後に袋をぺらぺらになるまで潰す。


「毎回やるんです」


麻衣が言った。


「詰め替えのたびに?」


「毎回」


「几帳面ですね」


冬一が言うと、麻衣は首を振った。


「洗濯物は二日くらい取り込んだままですよ」


「そこは別なんですね」


「別です。本人の中では」


奈津子の家へ行くと、ソファの端に洗濯物の山がある。


麻衣が、


『畳まないの』


と聞く。


『あとで』


『そのあといつ来るの』


『着るまでには』


『そこから直接着てるじゃん』


『畳む手間省けた』


そんな人が、洗剤だけは最後まで絞る。


「基準が分かんないんですよね」


麻衣は笑った。


午後、家具の搬出が始まった。


ベッド。


小さな本棚。


ダイニングテーブル。


椅子二脚。


テレビ台。


麻衣はそのたびに立ち止まるわけではなかった。


必要なら避ける。


運びやすいよう扉を押さえる。


冬一に尋ねられれば判断する。


古い電気ケトル。


「処分で」


花瓶。


「それも」


鍋。


「いりません」


姉が使っていたというだけでは残さなかった。


夕方近く、台所の収納も空になった。


冬一が最後の引き出しを確認すると、輪ゴムと小さな計量スプーンが出た。


「こちらは?」


「お願いします」


麻衣の持ち帰る物は、最後まで紙袋一つだった。


玄関で靴を履く前に、麻衣が中を確認した。


封筒。


写真一枚。


ピアス。


洗剤。


「やっぱり変ですね」


「何がです?」


冬一が聞く。


「洗剤だけ」


冬一は紙袋を見た。


「使う物なら、入っててもいいんじゃないですか」


麻衣は少し笑った。


「そうですね」


紙袋を持った。


「姉ちゃんのだからって飾る物でもないし」


冬一は答えなかった。


麻衣はそのまま部屋を出た。


その夜、麻衣は自宅で夕食を済ませた。


使った皿を流しへ置く。


鍋。


箸。


コップ。


スポンジを取って、洗剤のボトルを押した。


空気の音がした。


もう一度押す。


少しだけ泡が出る。


ボトルを持ち上げると、底に薄く残っているだけだった。


麻衣は流しの下を開けた。


昼の紙袋がある。


写真とピアスは、帰宅してすぐ別の場所へ移していた。


中には洗剤だけが残っている。


袋を取り出す。


上を切る。


ボトルの口へ差し込んだ。


液体が落ちていく。


袋が軽くなる。


ある程度入ったところで、麻衣は出口を上へ向けた。


そのまま捨てようとした。


手が止まった。


袋の下へ指を当てる。


上へ滑らせる。


少しだけ洗剤が落ちた。


もう一度。


袋を細く巻く。


押す。


透明な袋の角に残っていた分がゆっくり出口へ寄る。


最後に一滴落ちた。


麻衣は袋を広げて見た。


「……一円もないじゃん」


空になった袋をごみ箱へ入れた。


ボトルを流しへ戻す。


スポンジを濡らした。


皿を洗い始めた。


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