開店前
鏡の前の椅子は、客を待つ向きのままだった。
黒い理髪椅子が一脚。正面には大きな鏡。右手の作業台には、白いタオルが角を揃えて積まれ、未使用の首紙と消毒済みらしい櫛が並んでいる。
榊冬一が店の奥まで見て戻ると、依頼人の伊東俊介が言った。
「昨日まで営業してたみたいですよね」
叔父の修二が亡くなってから、店は一度も開いていない。
それでも閉店した店というより、まだ開店前のように見えた。
「タオルも全部処分で大丈夫ですか」
冬一が聞く。
「はい。道具も含めて、基本的には全部お願いします。鋏だけ、あとで村井さんに見てもらってからで」
「分かりました」
入り口のベルが鳴った。
振り返ると、五十代くらいの男が入ってきた。
「悪い。遅れた」
「全然。まだ始めたばっかりです」
俊介が答える。
男は村井亮と名乗った。
十九歳の時から、この店で伊東修二に仕事を教わった。十年ほどして独立し、今は駅の反対側で自分の理髪店をやっているという。
「叔父さんの鋏、村井さんにって言われてて」
「いらんよ」
村井は即答した。
俊介が目を丸くする。
「まだ見てないですよ」
「見なくても分かる。俺、自分のあるから」
「でも、ずっと使ってたやつですよ」
「だから何だよ。俺が使ったら手に合わん」
そう言って、村井は店内を見回した。
鏡。
椅子。
作業台。
壁に掛かった料金表。
何かを探すような顔ではなかった。
「じゃあ、見るだけ見てもらえます?」
「それなら」
冬一は作業台の引き出しを開けた。
鋏が何本かある。
長さも形も少しずつ違う。
村井は一本を手に取った。
指を通す。
二、三度、空で開閉した。
「これ、昔のだな」
「分かるんですか」
俊介が聞く。
「使わされたから」
村井が十九の頃、修二は鋏を貸さなかった。
最初に渡されたのは、今持っているのとは別の安い練習用だった。
『これで切れ』
『店のやつ使っちゃ駄目なんですか』
『駄目』
『何で』
『落とすから』
『落としませんよ』
その日の午後、村井は櫛を落とした。
修二は拾いながら、
『ほらな』
と言った。
『鋏じゃないでしょう』
『同じ手だ』
『違いますよ』
『明日もその鋏』
結局、店の鋏を使わせてもらうまで何か月もかかった。
「ケチだったんですか」
佐伯が聞く。
「道具だけはね。飯はよく奢ってくれた」
「じゃあ優しい師匠だった?」
俊介が笑って聞く。
村井は鋏を戻した。
「うるさい師匠だよ」
それで終わった。
冬一たちは作業を始めた。
最初に棚の中を確認する。
整髪料。
替え刃。
首紙。
未開封のシャンプー。
古い帳簿。
俊介が必要な書類だけ残し、他は処分に回す。
村井は客用の待合椅子に座った。
手伝うつもりはないらしい。
ただ、物が出るたびに、ときどき口を挟む。
「それ古いよ」
「これですか?」
佐伯が茶色いブラシを見せる。
「俺がいた頃からある」
「三十年以上?」
「たぶん」
俊介が、
「まだ使ってたのかな」
と言う。
村井は少し考えた。
「最近は見てない」
それ以上は分からない。
ブラシは処分になった。
タオルの束を冬一が持ち上げる。
村井が見た。
「角、合ってるな」
俊介が笑う。
「叔父さん、そこうるさかったんですか」
「一番最初に言われた」
十九歳の村井は、洗ったタオルを適当に畳んで積んだ。
修二が一番上を取る。
広げる。
畳み直す。
また置く。
『何が違うんですか』
『角』
『使えば一緒でしょう』
『一緒じゃない』
『客に見えます?』
『見える』
『見てないですよ』
『お前は見てるだろ』
『俺、客じゃないです』
修二は一度黙った。
『店は髪切る前から店なんだよ』
村井は当時、その言葉が嫌いだった。
「何かそれっぽいこと言って誤魔化したなって思ってました」
「今は?」
冬一が聞く。
「今も半分はそう思ってます」
村井は笑った。
「でも、うちも角は合わせる」
佐伯がタオルを見た。
「結局やってるんですね」
「見えると気になるんだよ」
「誰に?」
俊介が聞く。
「俺に」
村井が答える。
冬一も笑った。
タオルは処分用の袋へ入った。
午前中、店の奥にある休憩室も片づけた。
小さな冷蔵庫。
電気ポット。
湯呑み。
灰皿。
修二は十年以上前に煙草をやめていたらしい。
「これ、捨てなかったんだな」
村井が灰皿を見て言った。
「叔父さん、吸ってたんですか」
「昔はな。客いないと裏で吸ってた」
「村井さんも?」
「俺は吸わない」
「じゃあ嫌だったでしょう」
「臭いって毎日言ってた」
修二は、
『理髪店で煙草臭いの駄目だろ』
と言われると、
『裏だからいい』
と答えた。
『自分に付くでしょう』
『消臭する』
『最初から吸わなきゃいいじゃないですか』
『それは別の話だ』
何年か後、本当にやめた。
村井が、
『やっとですか』
と言うと、
『別にお前に言われたからじゃない』
と返された。
「何でやめたんです?」
俊介が聞く。
「知らん」
「聞かなかったんですか」
「やめたならどうでもいいだろ」
灰皿も処分になった。
昼前、予約帳が見つかった。
レジ横の引き出しに入っていた。
俊介が受け取る。
今週の日付。
その次の週。
何人かの名前と時間が、修二の字で書かれている。
「この人、まだ来てたんだ」
村井が横から見た。
「知ってる人ですか」
「俺がいた頃からの客」
俊介はページをめくった。
「連絡は全部済んでます。叔父が亡くなったあと、予約入ってる人には店から電話しました」
「そりゃよかった」
村井は名前を一つ指した。
「この人、九時って書いてあるけど八時半に来るぞ」
「早いですね」
冬一が言う。
「昔から」
『九時開店だから九時に来てください』
修二が何度言っても、八時半に来る。
シャッターを半分開けて掃除していると、外から覗く。
『まだ?』
『まだです』
『中で待つだけだから』
『開店前です』
『座って待つよ』
修二は最初の頃こそ断っていたが、そのうち入れるようになった。
「結局入れるんだ」
俊介が笑う。
「で、文句言うんだよ。毎回」
「何て?」
「早いって」
「入れなきゃいいのに」
「俺も言った」
村井が笑った。
予約帳は、連絡が済んでいることを俊介が確認してから処分側へ置いた。
時計が正午を回り、休憩にした。
店内では飲食しづらいため、冬一と佐伯は外へ出た。
俊介も近くへ買い物に行く。
村井だけが残った。
「村井さんは?」
冬一が聞く。
「俺、もう食った」
「朝ですか」
「十一時」
「昼では」
「店やってるとそんなもんだ」
村井は待合椅子から立った。
作業台の前へ行く。
鏡を見る。
そこに自分が映る。
五十二歳の理容師。
「ここで初めて客切ったんですか」
冬一が聞いた。
「人形の次はな」
最初の客は、修二の知り合いだった。
村井が緊張しているのに、修二は横で新聞を読んでいた。
『見てなくていいんですか』
『見てる』
『新聞見てるじゃないですか』
『お前も鏡見ながら切れるだろ』
『全然違うでしょ』
耳の周りだけ修二が一度手を入れた。
それ以外は最後まで村井に切らせた。
客が帰ったあと、
『どうでした』
と聞いた。
修二は、
『遅い』
と言った。
『それだけ?』
『あと首紙曲がってた』
『髪は?』
『切れてた』
「褒めない人だったんですね」
冬一が言う。
「褒める時もあったよ」
村井は鏡越しに答えた。
「いつです?」
「忘れた」
しばらくして、
「でも、独立する時は一回来たな」
村井が自分の店を出すことになった時、修二は何も口を出さなかった。
物件も、店名も、椅子も、全部村井が決めた。
開店前日に現れた。
祝いの包みを持って。
店に入るなり、最初に言った。
『タオルの置き方、変えたのか』
村井は腹が立った。
『自分の店なんで』
『知ってるよ』
『じゃあ好きにさせてください』
『好きにしてるだろ』
『今文句言ったじゃないですか』
『聞いただけだ』
それで修二は椅子に座った。
『切ってくれ』
『明日開店ですよ』
『知ってる』
『今日やるんですか』
『客一号』
『まだ客じゃないでしょう』
『金払う』
結局、村井は開店前日に師匠の髪を切った。
修二は鏡を見て、
『耳の後ろ、前よりマシになったな』
と言った。
「それ、褒めてますね」
冬一が言う。
村井は少し笑った。
「たぶんな」
休憩後、搬出に入った。
待合椅子。
棚。
レジ台。
壁の時計も外す。
料金表も剥がす。
店の壁が少しずつ白くなる。
鏡は備え付けではなく、取り外して処分する予定だった。
村井が鏡の端へ触れた。
「これも?」
俊介が戻ってきて答える。
「はい。店自体も返すので」
「そうか」
「村井さんの店で使います?」
「いらない」
また即答だった。
「うちの鏡あるから」
「何でも持ってるって言いますね」
「店やってるんだから当たり前だろ」
「記念に何か一個くらい」
「いらないよ」
村井は少し笑った。
「俺の店、もう二十三年やってるんだぞ。今さら師匠の店から道具もらってどうすんだ」
俊介は頷いた。
「それもそうか」
「鋏だって、俺の方がいいの使ってる」
「そこまで言う?」
「道具は新しい方がいいこともある」
「叔父さん怒りそう」
「だから死んでから言ってる」
俊介が吹き出した。
村井も笑った。
午後、作業台を空にしていると、整髪料のサンプルがいくつも出てきた。
村井が一つ手に取る。
「これ、俺が持ってきたやつだ」
「最近のですか」
「去年」
自分の店で仕入れた新商品を、修二へ試しに持ってきた。
『若い客にいいですよ』
『うちに若い客いると思うか』
『たまには来るでしょう』
『お前んとこで使え』
『感想聞きたいんですよ』
『自分で使えば分かるだろ』
一週間後、村井が来る。
『どうでした』
『匂いが若い』
『意味分かんないですよ』
『俺には若い』
『髪につけたら年齢下がるんですか』
『じゃあお前使え』
『使ってますよ』
結局、修二は何本か仕入れた。
「文句言いながら使うんですよ」
村井はサンプルを戻した。
「そういう人だったんですか」
佐伯が聞く。
「気に入っても一回は文句言う」
俊介が、
「家でもそうでした」
と言う。
二人で少し笑った。
夕方近くなった。
残る大物は鏡と理髪椅子だけになった。
先に鏡を外す。
固定を確認し、二人で慎重に運ぶ。
鏡がなくなると、壁に四角い色の違いが残った。
最後に椅子。
黒い座面。
金属の足。
古いが、まだ動く。
「重いですよ」
村井が言った。
「分かります?」
佐伯が聞く。
「何回動かしたと思ってるんだ」
「模様替えする店なんですか」
「掃除」
毎年一度、床をしっかり磨く時に椅子を動かした。
村井が若い頃は、ほぼ力仕事だった。
『そっち持て』
『重いんですよこれ』
『分かってる』
『分かってる人が一人で持たないの何でですか』
『二人いるから』
『師匠も持ってくださいよ』
『持ってる』
『触ってるだけじゃないですか』
実際には修二も持っていたが、村井にはいつも自分だけ重い気がした。
「今日は手伝います?」
佐伯が聞いた。
村井は一歩下がった。
「腰やるからやめとく」
「賢明です」
冬一と佐伯で椅子を台車へ載せる準備をする。
少し手前へ引いた。
床の養生材に合わせて向きを変える。
その時、椅子が斜めになった。
正面にあった鏡はもうない。
ただ、壁に残った四角い跡へ対して少し右を向いている。
「ちょっと待って」
村井が言った。
冬一と佐伯が手を止めた。
村井が近づく。
椅子の背へ手を置く。
数センチ回した。
「もう少し左」
自分で調整する。
今度は真っすぐ。
「高さも」
レバーを踏み、座面を少し下げた。
俊介が見ていた。
「どうせ今から運ぶけど」
「分かってる」
村井は椅子から手を離した。
少し離れて見る。
「曲がってると怒るんで」
俊介が笑いかけて、途中で口を閉じた。
村井はもう一度だけ椅子を見た。
「これでいい」
冬一は何も言わず、椅子へ手を掛けた。
佐伯と持ち上げる。
真っすぐに直された椅子は、そのまま店の外へ運び出された。
あとは早かった。
台車へ固定する。
車へ積む。
床を確認する。
忘れ物がないか、店の奥から入口までもう一度見る。
俊介が鍵を持つ。
村井は何も持っていなかった。
鋏も。
櫛も。
タオルも。
店を出る。
シャッターを下ろす前に、俊介が聞いた。
「村井さん、明日店ですよね」
「ああ」
「何時から?」
「九時」
「じゃあゆっくりですね」
村井が首を振った。
「七時には入る」
「二時間も前に?」
「掃除して、タオル畳んで、道具出して」
少し考える。
「椅子も見る」
「曲がってないか?」
俊介が聞いた。
村井は笑った。
「俺が分かるからな」
シャッターが下りた。




