↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
生活の跡  作者: 鷺沼鳩屋
明日のぶん
PR
12/16

開店前

鏡の前の椅子は、客を待つ向きのままだった。


黒い理髪椅子が一脚。正面には大きな鏡。右手の作業台には、白いタオルが角を揃えて積まれ、未使用の首紙と消毒済みらしい櫛が並んでいる。


榊冬一が店の奥まで見て戻ると、依頼人の伊東俊介が言った。


「昨日まで営業してたみたいですよね」


叔父の修二が亡くなってから、店は一度も開いていない。


それでも閉店した店というより、まだ開店前のように見えた。


「タオルも全部処分で大丈夫ですか」


冬一が聞く。


「はい。道具も含めて、基本的には全部お願いします。鋏だけ、あとで村井さんに見てもらってからで」


「分かりました」


入り口のベルが鳴った。


振り返ると、五十代くらいの男が入ってきた。


「悪い。遅れた」


「全然。まだ始めたばっかりです」


俊介が答える。


男は村井亮と名乗った。


十九歳の時から、この店で伊東修二に仕事を教わった。十年ほどして独立し、今は駅の反対側で自分の理髪店をやっているという。


「叔父さんの鋏、村井さんにって言われてて」


「いらんよ」


村井は即答した。


俊介が目を丸くする。


「まだ見てないですよ」


「見なくても分かる。俺、自分のあるから」


「でも、ずっと使ってたやつですよ」


「だから何だよ。俺が使ったら手に合わん」


そう言って、村井は店内を見回した。


鏡。

椅子。

作業台。

壁に掛かった料金表。


何かを探すような顔ではなかった。


「じゃあ、見るだけ見てもらえます?」


「それなら」


冬一は作業台の引き出しを開けた。


鋏が何本かある。


長さも形も少しずつ違う。


村井は一本を手に取った。


指を通す。


二、三度、空で開閉した。


「これ、昔のだな」


「分かるんですか」


俊介が聞く。


「使わされたから」


村井が十九の頃、修二は鋏を貸さなかった。


最初に渡されたのは、今持っているのとは別の安い練習用だった。


『これで切れ』


『店のやつ使っちゃ駄目なんですか』


『駄目』


『何で』


『落とすから』


『落としませんよ』


その日の午後、村井は櫛を落とした。


修二は拾いながら、


『ほらな』


と言った。


『鋏じゃないでしょう』


『同じ手だ』


『違いますよ』


『明日もその鋏』


結局、店の鋏を使わせてもらうまで何か月もかかった。


「ケチだったんですか」


佐伯が聞く。


「道具だけはね。飯はよく奢ってくれた」


「じゃあ優しい師匠だった?」


俊介が笑って聞く。


村井は鋏を戻した。


「うるさい師匠だよ」


それで終わった。


冬一たちは作業を始めた。


最初に棚の中を確認する。


整髪料。

替え刃。

首紙。

未開封のシャンプー。

古い帳簿。


俊介が必要な書類だけ残し、他は処分に回す。


村井は客用の待合椅子に座った。


手伝うつもりはないらしい。


ただ、物が出るたびに、ときどき口を挟む。


「それ古いよ」


「これですか?」


佐伯が茶色いブラシを見せる。


「俺がいた頃からある」


「三十年以上?」


「たぶん」


俊介が、


「まだ使ってたのかな」


と言う。


村井は少し考えた。


「最近は見てない」


それ以上は分からない。


ブラシは処分になった。


タオルの束を冬一が持ち上げる。


村井が見た。


「角、合ってるな」


俊介が笑う。


「叔父さん、そこうるさかったんですか」


「一番最初に言われた」


十九歳の村井は、洗ったタオルを適当に畳んで積んだ。


修二が一番上を取る。


広げる。


畳み直す。


また置く。


『何が違うんですか』


『角』


『使えば一緒でしょう』


『一緒じゃない』


『客に見えます?』


『見える』


『見てないですよ』


『お前は見てるだろ』


『俺、客じゃないです』


修二は一度黙った。


『店は髪切る前から店なんだよ』


村井は当時、その言葉が嫌いだった。


「何かそれっぽいこと言って誤魔化したなって思ってました」


「今は?」


冬一が聞く。


「今も半分はそう思ってます」


村井は笑った。


「でも、うちも角は合わせる」


佐伯がタオルを見た。


「結局やってるんですね」


「見えると気になるんだよ」


「誰に?」


俊介が聞く。


「俺に」


村井が答える。


冬一も笑った。


タオルは処分用の袋へ入った。


午前中、店の奥にある休憩室も片づけた。


小さな冷蔵庫。

電気ポット。

湯呑み。

灰皿。


修二は十年以上前に煙草をやめていたらしい。


「これ、捨てなかったんだな」


村井が灰皿を見て言った。


「叔父さん、吸ってたんですか」


「昔はな。客いないと裏で吸ってた」


「村井さんも?」


「俺は吸わない」


「じゃあ嫌だったでしょう」


「臭いって毎日言ってた」


修二は、


『理髪店で煙草臭いの駄目だろ』


と言われると、


『裏だからいい』


と答えた。


『自分に付くでしょう』


『消臭する』


『最初から吸わなきゃいいじゃないですか』


『それは別の話だ』


何年か後、本当にやめた。


村井が、


『やっとですか』


と言うと、


『別にお前に言われたからじゃない』


と返された。


「何でやめたんです?」


俊介が聞く。


「知らん」


「聞かなかったんですか」


「やめたならどうでもいいだろ」


灰皿も処分になった。


昼前、予約帳が見つかった。


レジ横の引き出しに入っていた。


俊介が受け取る。


今週の日付。


その次の週。


何人かの名前と時間が、修二の字で書かれている。


「この人、まだ来てたんだ」


村井が横から見た。


「知ってる人ですか」


「俺がいた頃からの客」


俊介はページをめくった。


「連絡は全部済んでます。叔父が亡くなったあと、予約入ってる人には店から電話しました」


「そりゃよかった」


村井は名前を一つ指した。


「この人、九時って書いてあるけど八時半に来るぞ」


「早いですね」


冬一が言う。


「昔から」


『九時開店だから九時に来てください』


修二が何度言っても、八時半に来る。


シャッターを半分開けて掃除していると、外から覗く。


『まだ?』


『まだです』


『中で待つだけだから』


『開店前です』


『座って待つよ』


修二は最初の頃こそ断っていたが、そのうち入れるようになった。


「結局入れるんだ」


俊介が笑う。


「で、文句言うんだよ。毎回」


「何て?」


「早いって」


「入れなきゃいいのに」


「俺も言った」


村井が笑った。


予約帳は、連絡が済んでいることを俊介が確認してから処分側へ置いた。


時計が正午を回り、休憩にした。


店内では飲食しづらいため、冬一と佐伯は外へ出た。


俊介も近くへ買い物に行く。


村井だけが残った。


「村井さんは?」


冬一が聞く。


「俺、もう食った」


「朝ですか」


「十一時」


「昼では」


「店やってるとそんなもんだ」


村井は待合椅子から立った。


作業台の前へ行く。


鏡を見る。


そこに自分が映る。


五十二歳の理容師。


「ここで初めて客切ったんですか」


冬一が聞いた。


「人形の次はな」


最初の客は、修二の知り合いだった。


村井が緊張しているのに、修二は横で新聞を読んでいた。


『見てなくていいんですか』


『見てる』


『新聞見てるじゃないですか』


『お前も鏡見ながら切れるだろ』


『全然違うでしょ』


耳の周りだけ修二が一度手を入れた。


それ以外は最後まで村井に切らせた。


客が帰ったあと、


『どうでした』


と聞いた。


修二は、


『遅い』


と言った。


『それだけ?』


『あと首紙曲がってた』


『髪は?』


『切れてた』


「褒めない人だったんですね」


冬一が言う。


「褒める時もあったよ」


村井は鏡越しに答えた。


「いつです?」


「忘れた」


しばらくして、


「でも、独立する時は一回来たな」


村井が自分の店を出すことになった時、修二は何も口を出さなかった。


物件も、店名も、椅子も、全部村井が決めた。


開店前日に現れた。


祝いの包みを持って。


店に入るなり、最初に言った。


『タオルの置き方、変えたのか』


村井は腹が立った。


『自分の店なんで』


『知ってるよ』


『じゃあ好きにさせてください』


『好きにしてるだろ』


『今文句言ったじゃないですか』


『聞いただけだ』


それで修二は椅子に座った。


『切ってくれ』


『明日開店ですよ』


『知ってる』


『今日やるんですか』


『客一号』


『まだ客じゃないでしょう』


『金払う』


結局、村井は開店前日に師匠の髪を切った。


修二は鏡を見て、


『耳の後ろ、前よりマシになったな』


と言った。


「それ、褒めてますね」


冬一が言う。


村井は少し笑った。


「たぶんな」


休憩後、搬出に入った。


待合椅子。

棚。

レジ台。


壁の時計も外す。


料金表も剥がす。


店の壁が少しずつ白くなる。


鏡は備え付けではなく、取り外して処分する予定だった。


村井が鏡の端へ触れた。


「これも?」


俊介が戻ってきて答える。


「はい。店自体も返すので」


「そうか」


「村井さんの店で使います?」


「いらない」


また即答だった。


「うちの鏡あるから」


「何でも持ってるって言いますね」


「店やってるんだから当たり前だろ」


「記念に何か一個くらい」


「いらないよ」


村井は少し笑った。


「俺の店、もう二十三年やってるんだぞ。今さら師匠の店から道具もらってどうすんだ」


俊介は頷いた。


「それもそうか」


「鋏だって、俺の方がいいの使ってる」


「そこまで言う?」


「道具は新しい方がいいこともある」


「叔父さん怒りそう」


「だから死んでから言ってる」


俊介が吹き出した。


村井も笑った。


午後、作業台を空にしていると、整髪料のサンプルがいくつも出てきた。


村井が一つ手に取る。


「これ、俺が持ってきたやつだ」


「最近のですか」


「去年」


自分の店で仕入れた新商品を、修二へ試しに持ってきた。


『若い客にいいですよ』


『うちに若い客いると思うか』


『たまには来るでしょう』


『お前んとこで使え』


『感想聞きたいんですよ』


『自分で使えば分かるだろ』


一週間後、村井が来る。


『どうでした』


『匂いが若い』


『意味分かんないですよ』


『俺には若い』


『髪につけたら年齢下がるんですか』


『じゃあお前使え』


『使ってますよ』


結局、修二は何本か仕入れた。


「文句言いながら使うんですよ」


村井はサンプルを戻した。


「そういう人だったんですか」


佐伯が聞く。


「気に入っても一回は文句言う」


俊介が、


「家でもそうでした」


と言う。


二人で少し笑った。


夕方近くなった。


残る大物は鏡と理髪椅子だけになった。


先に鏡を外す。


固定を確認し、二人で慎重に運ぶ。


鏡がなくなると、壁に四角い色の違いが残った。


最後に椅子。


黒い座面。

金属の足。

古いが、まだ動く。


「重いですよ」


村井が言った。


「分かります?」


佐伯が聞く。


「何回動かしたと思ってるんだ」


「模様替えする店なんですか」


「掃除」


毎年一度、床をしっかり磨く時に椅子を動かした。


村井が若い頃は、ほぼ力仕事だった。


『そっち持て』


『重いんですよこれ』


『分かってる』


『分かってる人が一人で持たないの何でですか』


『二人いるから』


『師匠も持ってくださいよ』


『持ってる』


『触ってるだけじゃないですか』


実際には修二も持っていたが、村井にはいつも自分だけ重い気がした。


「今日は手伝います?」


佐伯が聞いた。


村井は一歩下がった。


「腰やるからやめとく」


「賢明です」


冬一と佐伯で椅子を台車へ載せる準備をする。


少し手前へ引いた。


床の養生材に合わせて向きを変える。


その時、椅子が斜めになった。


正面にあった鏡はもうない。


ただ、壁に残った四角い跡へ対して少し右を向いている。


「ちょっと待って」


村井が言った。


冬一と佐伯が手を止めた。


村井が近づく。


椅子の背へ手を置く。


数センチ回した。


「もう少し左」


自分で調整する。


今度は真っすぐ。


「高さも」


レバーを踏み、座面を少し下げた。


俊介が見ていた。


「どうせ今から運ぶけど」


「分かってる」


村井は椅子から手を離した。


少し離れて見る。


「曲がってると怒るんで」


俊介が笑いかけて、途中で口を閉じた。


村井はもう一度だけ椅子を見た。


「これでいい」


冬一は何も言わず、椅子へ手を掛けた。


佐伯と持ち上げる。


真っすぐに直された椅子は、そのまま店の外へ運び出された。


あとは早かった。


台車へ固定する。


車へ積む。


床を確認する。


忘れ物がないか、店の奥から入口までもう一度見る。


俊介が鍵を持つ。


村井は何も持っていなかった。


鋏も。

櫛も。

タオルも。


店を出る。


シャッターを下ろす前に、俊介が聞いた。


「村井さん、明日店ですよね」


「ああ」


「何時から?」


「九時」


「じゃあゆっくりですね」


村井が首を振った。


「七時には入る」


「二時間も前に?」


「掃除して、タオル畳んで、道具出して」


少し考える。


「椅子も見る」


「曲がってないか?」


俊介が聞いた。


村井は笑った。


「俺が分かるからな」


シャッターが下りた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。