下の段
「青が早紀です」
榊冬一が冷蔵庫の扉を開けたところで、桐谷紗江が言った。
棚の端に細いテープが貼ってある。
上段が黄色。
下段が青。
「黄色が私です。真ん中は共有」
佐伯が覗き込んだ。
「かなり細かく分けてたんですね」
「最初は分けてなかったんですけどね」
紗江は笑った。
隣には八木直人がいる。
亡くなった早紀の兄だった。
早紀と紗江は大学時代からの友人で、十一年前からこのマンションで暮らしていた。
それぞれに自室がある。
台所、居間、風呂は共有。
早紀の部屋だけを空にすれば済むわけではなく、共有スペースにある物についても、どこまでが早紀の物なのか確認する必要があった。
冬一が青い棚を見る。
開封済みのヨーグルト。
小さなプリン。
チーズ。
調味料。
「冷蔵品は全部処分でいいです」
紗江が言う。
「分かりました」
冬一がヨーグルトを取り出す。
紗江はそれを見て、
「それ、私のだったかも」
と言った。
冬一の手が止まる。
「黄色では?」
「昨日、早紀の段に置いた気がします」
直人が笑った。
「分けてる意味ある?」
「本人にも何回も言いました」
早紀は人のヨーグルトを食べる。
紗江も早紀のプリンを食べる。
最初は冷蔵庫の中を全部一緒に使っていた。
ある夜、紗江が風呂上がりにヨーグルトを食べようとした。
ない。
『私のヨーグルト食べた?』
早紀がソファから答える。
『食べた』
『何で』
『二個あったから』
『二個とも私の』
『一個くらいいいじゃん』
その翌週。
今度は早紀が冷蔵庫を開けて、
『プリンないんだけど』
と言った。
紗江が、
『食べた』
と答える。
『私のだよ』
『一個くらいいいじゃん』
『それ私が言ったやつ』
『便利だったから使った』
そこで二人は棚を分けた。
早紀が青。
紗江が黄色。
「早紀が青を選んだの?」
直人が聞く。
「そうです」
「昔から青好きだったからな」
「そうなんですか?」
紗江が直人を見る。
「小学生の時、筆箱も水筒も青だったよ。母親が赤買ってきたら泣いた」
「それは知らなかった」
「さすがに今は泣かないでしょ」
「分かりません。新しいマグカップ青でした」
二人で笑った。
冷蔵庫の仕切りは、その後すぐ曖昧になった。
牛乳。
『共有?』
『共有』
卵。
『共有』
バター。
『共有』
チーズ。
『それ私の』
『何で』
『高かったから』
『一枚だけ』
『駄目』
翌朝には二枚減っている。
紗江が問い詰めると、
『一枚しか食べてない』
と言う。
『二枚減ってる』
『昨日一枚食べた』
『昨日も食べてるじゃん』
『一日一枚』
『そういう契約じゃない』
冷蔵庫を分けても、十一年経てばそんなものだった。
冬一はヨーグルトを処分袋へ入れた。
「結局、どっちのだったんでしょうね」
佐伯が言う。
「もういいです」
紗江が笑った。
早紀の私室から始めた。
ベッド。
机。
本棚。
衣装ケース。
ここにある物は分けやすかった。
服は早紀の物。
本も早紀の物。
化粧品。
仕事の資料。
充電器。
アクセサリー。
直人が必要な物だけ確認し、残りを処分に回す。
紗江も勝手に判断しなかった。
机の引き出しから写真が出る。
大学時代のものが多かった。
直人へ渡す。
「これ、紗江さん?」
「若いですね、私」
「早紀も」
二人とも二十歳くらいだった。
学園祭。
旅行。
居酒屋らしい店。
早紀が紗江の肩へ腕を回している写真もある。
「これ、持ちます?」
直人が聞いた。
「写真で送ってもらっていいですか」
「現物はいらない?」
「同じ頃の、うちにもいっぱいあるので」
直人は頷いた。
写真は一部だけ家族側で残す。
アルバムは処分。
本棚から料理本が出た。
紗江が表紙を見て笑う。
「これ早紀買ったんだ」
「料理してた?」
直人が聞く。
「しますよ」
「意外」
「何がですか」
「昔、目玉焼き焦がして泣いてたから」
「また泣いてる」
「小学生だからな」
「今は焦がしても食べてましたよ」
紗江が本を開く。
付箋がいくつか貼ってある。
直人は覗いた。
「トマト料理?」
「早紀、トマト好きでしたから」
「嘘だろ」
「何が?」
「あいつトマト大嫌いだったよ」
「普通に食べてましたよ。生も」
直人は本を見る。
「小学生の時、皿の端に全部並べてた」
「いつまでの話ですか」
「中学くらいまで」
「じゃあ変わったんじゃないですか」
直人は少し笑った。
「変わるか」
「変わりますよ」
「じゃあ、兄貴の知ってる妹は古いな」
「私の知ってる早紀も、十一年分だけですけど」
料理本は処分になった。
昼前、早紀の部屋から家具を運び出す。
ベッドがなくなる。
机がなくなる。
本棚の後ろには薄く埃が溜まっていた。
佐伯が掃除機をかける。
壁には何も貼られていない。
窓際に小さな傷があった。
紗江が見て、
「あ、これ」
と声を出した。
「何です?」
冬一が聞く。
「早紀が物干し竿ぶつけたところです」
室内干し用の竿を組み立てようとして、壁へぶつけた。
『傷ついた』
と早紀が言う。
紗江が、
『自分の部屋だからいいじゃん』
と答える。
すると早紀は、
『そういう問題じゃない』
と言った。
『賃貸だよ』
『じゃあ何でそんな勢いで振るの』
『振ってない』
『振らないとそこまで傷つかないでしょ』
最後は家具を少し前へずらして隠した。
「隠してたんだ」
直人が笑った。
「十一年隠れてました」
傷はそのまま残った。
修繕については後で管理会社と確認するという。
昼休憩。
三人は居間で買ってきた弁当を食べた。
直人が部屋を見回す。
「ここは何が妹のだったんですか」
紗江も見回した。
ソファ。
テレビ。
低いテーブル。
電気ケトル。
観葉植物。
「分かんないですね」
「そんなことある?」
「ありますよ」
電気ケトルを指す。
「これはどっちが買ったんだろ」
「妹じゃない?」
「何で?」
「早紀、紅茶飲んでたから」
「私も飲みます」
「じゃあ紗江さん?」
「十一年前ですよ」
二人で考える。
分からない。
フライパンもそうだった。
紗江が買った気もする。
早紀とホームセンターで一緒に選んだ気もする。
皿はもっと分からない。
一人暮らし時代から持っていた物。
二人で買った物。
割れて買い直した物。
貰い物。
十一年の間に混ざっている。
傘も同じだった。
冬一が玄関の傘立てから紺色の傘を一本出す。
「こちらは?」
紗江と直人が同時に見る。
「早紀のかな」
「私のかな」
二人の声が重なった。
紗江が笑った。
「これ、どっちも使ってました」
「共有ですか」
冬一が聞く。
「共有って決めたわけじゃなくて、玄関にある方を持っていく感じです」
「妹、昔から傘なくすんですよ」
直人が言う。
「今もです」
「やっぱり?」
「去年三本なくしました」
「そこは変わってないんだ」
直人が嬉しそうに笑った。
「傘立ての中がいっぱいになると安心するんですよ。なくしても次があるから」
「最悪ですね」
「本人にも言いました」
紗江も笑った。
直人は共有の物を全部家族側へ持って帰ろうとはしなかった。
「使う物なら置いていってください」
電気ケトルを前に言う。
紗江が、
「私のだった可能性もありますよ」
と答える。
「じゃあなおさら」
「じゃあフライパンも?」
「使います?」
「使います」
「置いときましょう」
「早紀が買った可能性ありますけど」
「妹のフライパン持って帰っても、俺が困ります」
直人は笑った。
「妻に『何でフライパン増えたの』って言われる」
「じゃあ置いときます」
「お願いします」
誰の物か決める必要がない物は、そのまま紗江が使うことになった。
冬一も購入者を推測しなかった。
午後、洗面所を確認する。
歯ブラシはすでに処分されている。
棚には洗剤や予備の石鹸。
紗江が、
「この歯磨き粉も共用です」
と言った。
直人がチューブを見る。
端が潰れていない。
中央だけ凹んでいる。
紗江がそれを持ち上げた。
「これ、早紀なんですよ」
「何が?」
「最後まで絞らないんです」
真ん中から押す。
出なくなる。
新品を開ける。
紗江が見つけて、
『まだ入ってるじゃん』
と言う。
早紀は、
『出ない』
と答える。
『下から押せば出るよ』
『じゃあ使って』
『何で私が古い方使うの』
『まだ入ってるんでしょ』
『早紀が開けたんじゃん』
『歯磨き粉は共有でしょ』
その理屈だけは都合よく共有だった。
紗江は最後まで使う。
早紀は新しい方を使う。
「毎回です」
「十一年?」
佐伯が聞く。
「十一年」
「直らなかったんですね」
「私も直らなかったので、お互い様です」
「紗江さんは何を?」
直人が聞く。
「フライパン」
洗ったフライパンを水切り籠へ置く。
夜まで置く。
翌朝も置いてある。
早紀が、
『拭けば片づくじゃん』
と言う。
紗江は、
『乾けば片づくじゃん』
と返す。
『邪魔なんだけど』
『使わないでしょ』
『見た目が嫌』
『じゃあ拭いて』
『何で私が』
『私は気にならないから』
そのまま夜になる。
翌日には乾いている。
「それも十一年?」
直人が聞く。
「十一年です」
「二人とも頑固だな」
「早紀にも言われました」
歯磨き粉は紗江が使う。
予備もそのまま家に残した。
トイレの棚から、使い終わったトイレットペーパーの芯が一つ出た。
紗江が見た瞬間、
「もう」
と言った。
佐伯が芯を持つ。
「これは?」
「捨てます」
「当然だろ」
直人が笑う。
「何で残ってるんですか」
「早紀です」
使い終わる。
芯を外す。
新しいロールをつける。
そこまではやる。
なぜか古い芯を新品の上へ置く。
紗江が、
『捨てて』
と言う。
『次トイレ行った時』
『今捨てればいいじゃん』
『今は出るところだから』
『持って出ればいいでしょ』
『次でいいじゃん』
次に入る。
芯はまだある。
『捨ててないじゃん』
『今出るところ』
『一周したよ』
『じゃあ次』
何回か続いたあと、紗江が捨てる。
「何でそれだけやらないんですかね」
佐伯が聞いた。
「知らないです」
紗江は笑いながら芯を処分袋へ入れた。
「何回聞いても分かりませんでした」
夕方。
早紀の私室は空になった。
残す書類や写真は直人の車へ運ばれた。
衣類も家具もない。
壁の小さな傷だけが残っている。
共有スペースはほとんど変わっていない。
ソファもある。
テレビもある。
電気ケトルも、フライパンも、皿も残る。
冬一が冷蔵庫を確認した。
中身は処分済み。
棚だけになっている。
黄色と青のテープが残っていた。
「これはどうしますか」
紗江が冷蔵庫の前へ来た。
「剥がします」
自分で青いテープの端を爪で起こした。
十一年貼られていたせいか、途中で細く裂ける。
もう一度つまむ。
最後まで剥がした。
青の下だけ、棚の縁が少しきれいだった。
紗江は黄色も剥がした。
直人が聞く。
「黄色も?」
「もう分けなくていいので」
二本をまとめて捨てる。
粘着が少し残った。
紗江は台所から布巾を持ってきて、水をつけた。
擦る。
一度では取れない。
もう一度。
「そこまでやらなくても」
直人が言う。
「ベタベタするんですよ」
「妹なら放っときそう」
「放っときますね」
「紗江さんが拭く?」
「私が拭きます」
「じゃあ十一年そうだったんだ」
紗江は返事をせず、もう一度擦った。
粘着が取れた。
直人が帰る前、玄関で紗江へ鍵について確認した。
「早紀の分、どうします?」
「管理会社に返します」
「分かった」
「あと、郵便が来たら連絡します」
「お願いします」
二人とも必要なことだけ決めた。
直人が靴を履く。
「紗江さん」
「はい」
「長いこと、ありがとう」
紗江は少し困った顔をした。
「私も早紀にいろいろやってもらってたので」
直人は頷いた。
「じゃあ、お互い様か」
「たぶん」
それで別れた。
冬一と佐伯も道具を持つ。
紗江が玄関まで送る。
「共有の物、かなり残りましたね」
佐伯が言った。
「助かります。全部買い直すのも嫌なので」
「誰のだったか分からないですしね」
「はい」
紗江は笑った。
冬一は何も足さなかった。
玄関を出る。
扉が閉まった。
その夜、紗江は仕事帰りにコンビニへ寄った。
夕食。
牛乳。
ヨーグルトを一つ。
マンションへ帰る。
玄関に傘は三本残っていた。
台所へ行く。
冷蔵庫を開ける。
棚に色はない。
上段は、朝まで紗江が使っていた場所。
下段は空だった。
ヨーグルトを手にしたまま少し見る。
下の段へ置いた。
扉を閉めかけて、もう一度開く。
ヨーグルトを少し奥へ動かした。
「こっちの方が取りやすいな」
冷蔵庫を閉めた。




