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生活の跡  作者: 鷺沼鳩屋
明日のぶん
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13/16

下の段


「青が早紀です」


榊冬一が冷蔵庫の扉を開けたところで、桐谷紗江が言った。


棚の端に細いテープが貼ってある。


上段が黄色。


下段が青。


「黄色が私です。真ん中は共有」


佐伯が覗き込んだ。


「かなり細かく分けてたんですね」


「最初は分けてなかったんですけどね」


紗江は笑った。


隣には八木直人がいる。


亡くなった早紀の兄だった。


早紀と紗江は大学時代からの友人で、十一年前からこのマンションで暮らしていた。


それぞれに自室がある。


台所、居間、風呂は共有。


早紀の部屋だけを空にすれば済むわけではなく、共有スペースにある物についても、どこまでが早紀の物なのか確認する必要があった。


冬一が青い棚を見る。


開封済みのヨーグルト。


小さなプリン。


チーズ。


調味料。


「冷蔵品は全部処分でいいです」


紗江が言う。


「分かりました」


冬一がヨーグルトを取り出す。


紗江はそれを見て、


「それ、私のだったかも」


と言った。


冬一の手が止まる。


「黄色では?」


「昨日、早紀の段に置いた気がします」


直人が笑った。


「分けてる意味ある?」


「本人にも何回も言いました」


早紀は人のヨーグルトを食べる。


紗江も早紀のプリンを食べる。


最初は冷蔵庫の中を全部一緒に使っていた。


ある夜、紗江が風呂上がりにヨーグルトを食べようとした。


ない。


『私のヨーグルト食べた?』


早紀がソファから答える。


『食べた』


『何で』


『二個あったから』


『二個とも私の』


『一個くらいいいじゃん』


その翌週。


今度は早紀が冷蔵庫を開けて、


『プリンないんだけど』


と言った。


紗江が、


『食べた』


と答える。


『私のだよ』


『一個くらいいいじゃん』


『それ私が言ったやつ』


『便利だったから使った』


そこで二人は棚を分けた。


早紀が青。


紗江が黄色。


「早紀が青を選んだの?」


直人が聞く。


「そうです」


「昔から青好きだったからな」


「そうなんですか?」


紗江が直人を見る。


「小学生の時、筆箱も水筒も青だったよ。母親が赤買ってきたら泣いた」


「それは知らなかった」


「さすがに今は泣かないでしょ」


「分かりません。新しいマグカップ青でした」


二人で笑った。


冷蔵庫の仕切りは、その後すぐ曖昧になった。


牛乳。


『共有?』


『共有』


卵。


『共有』


バター。


『共有』


チーズ。


『それ私の』


『何で』


『高かったから』


『一枚だけ』


『駄目』


翌朝には二枚減っている。


紗江が問い詰めると、


『一枚しか食べてない』


と言う。


『二枚減ってる』


『昨日一枚食べた』


『昨日も食べてるじゃん』


『一日一枚』


『そういう契約じゃない』


冷蔵庫を分けても、十一年経てばそんなものだった。


冬一はヨーグルトを処分袋へ入れた。


「結局、どっちのだったんでしょうね」


佐伯が言う。


「もういいです」


紗江が笑った。


早紀の私室から始めた。


ベッド。


机。


本棚。


衣装ケース。


ここにある物は分けやすかった。


服は早紀の物。


本も早紀の物。


化粧品。


仕事の資料。


充電器。


アクセサリー。


直人が必要な物だけ確認し、残りを処分に回す。


紗江も勝手に判断しなかった。


机の引き出しから写真が出る。


大学時代のものが多かった。


直人へ渡す。


「これ、紗江さん?」


「若いですね、私」


「早紀も」


二人とも二十歳くらいだった。


学園祭。


旅行。


居酒屋らしい店。


早紀が紗江の肩へ腕を回している写真もある。


「これ、持ちます?」


直人が聞いた。


「写真で送ってもらっていいですか」


「現物はいらない?」


「同じ頃の、うちにもいっぱいあるので」


直人は頷いた。


写真は一部だけ家族側で残す。


アルバムは処分。


本棚から料理本が出た。


紗江が表紙を見て笑う。


「これ早紀買ったんだ」


「料理してた?」


直人が聞く。


「しますよ」


「意外」


「何がですか」


「昔、目玉焼き焦がして泣いてたから」


「また泣いてる」


「小学生だからな」


「今は焦がしても食べてましたよ」


紗江が本を開く。


付箋がいくつか貼ってある。


直人は覗いた。


「トマト料理?」


「早紀、トマト好きでしたから」


「嘘だろ」


「何が?」


「あいつトマト大嫌いだったよ」


「普通に食べてましたよ。生も」


直人は本を見る。


「小学生の時、皿の端に全部並べてた」


「いつまでの話ですか」


「中学くらいまで」


「じゃあ変わったんじゃないですか」


直人は少し笑った。


「変わるか」


「変わりますよ」


「じゃあ、兄貴の知ってる妹は古いな」


「私の知ってる早紀も、十一年分だけですけど」


料理本は処分になった。


昼前、早紀の部屋から家具を運び出す。


ベッドがなくなる。


机がなくなる。


本棚の後ろには薄く埃が溜まっていた。


佐伯が掃除機をかける。


壁には何も貼られていない。


窓際に小さな傷があった。


紗江が見て、


「あ、これ」


と声を出した。


「何です?」


冬一が聞く。


「早紀が物干し竿ぶつけたところです」


室内干し用の竿を組み立てようとして、壁へぶつけた。


『傷ついた』


と早紀が言う。


紗江が、


『自分の部屋だからいいじゃん』


と答える。


すると早紀は、


『そういう問題じゃない』


と言った。


『賃貸だよ』


『じゃあ何でそんな勢いで振るの』


『振ってない』


『振らないとそこまで傷つかないでしょ』


最後は家具を少し前へずらして隠した。


「隠してたんだ」


直人が笑った。


「十一年隠れてました」


傷はそのまま残った。


修繕については後で管理会社と確認するという。


昼休憩。


三人は居間で買ってきた弁当を食べた。


直人が部屋を見回す。


「ここは何が妹のだったんですか」


紗江も見回した。


ソファ。


テレビ。


低いテーブル。


電気ケトル。


観葉植物。


「分かんないですね」


「そんなことある?」


「ありますよ」


電気ケトルを指す。


「これはどっちが買ったんだろ」


「妹じゃない?」


「何で?」


「早紀、紅茶飲んでたから」


「私も飲みます」


「じゃあ紗江さん?」


「十一年前ですよ」


二人で考える。


分からない。


フライパンもそうだった。


紗江が買った気もする。


早紀とホームセンターで一緒に選んだ気もする。


皿はもっと分からない。


一人暮らし時代から持っていた物。


二人で買った物。


割れて買い直した物。


貰い物。


十一年の間に混ざっている。


傘も同じだった。


冬一が玄関の傘立てから紺色の傘を一本出す。


「こちらは?」


紗江と直人が同時に見る。


「早紀のかな」


「私のかな」


二人の声が重なった。


紗江が笑った。


「これ、どっちも使ってました」


「共有ですか」


冬一が聞く。


「共有って決めたわけじゃなくて、玄関にある方を持っていく感じです」


「妹、昔から傘なくすんですよ」


直人が言う。


「今もです」


「やっぱり?」


「去年三本なくしました」


「そこは変わってないんだ」


直人が嬉しそうに笑った。


「傘立ての中がいっぱいになると安心するんですよ。なくしても次があるから」


「最悪ですね」


「本人にも言いました」


紗江も笑った。


直人は共有の物を全部家族側へ持って帰ろうとはしなかった。


「使う物なら置いていってください」


電気ケトルを前に言う。


紗江が、


「私のだった可能性もありますよ」


と答える。


「じゃあなおさら」


「じゃあフライパンも?」


「使います?」


「使います」


「置いときましょう」


「早紀が買った可能性ありますけど」


「妹のフライパン持って帰っても、俺が困ります」


直人は笑った。


「妻に『何でフライパン増えたの』って言われる」


「じゃあ置いときます」


「お願いします」


誰の物か決める必要がない物は、そのまま紗江が使うことになった。


冬一も購入者を推測しなかった。


午後、洗面所を確認する。


歯ブラシはすでに処分されている。


棚には洗剤や予備の石鹸。


紗江が、


「この歯磨き粉も共用です」


と言った。


直人がチューブを見る。


端が潰れていない。


中央だけ凹んでいる。


紗江がそれを持ち上げた。


「これ、早紀なんですよ」


「何が?」


「最後まで絞らないんです」


真ん中から押す。


出なくなる。


新品を開ける。


紗江が見つけて、


『まだ入ってるじゃん』


と言う。


早紀は、


『出ない』


と答える。


『下から押せば出るよ』


『じゃあ使って』


『何で私が古い方使うの』


『まだ入ってるんでしょ』


『早紀が開けたんじゃん』


『歯磨き粉は共有でしょ』


その理屈だけは都合よく共有だった。


紗江は最後まで使う。


早紀は新しい方を使う。


「毎回です」


「十一年?」


佐伯が聞く。


「十一年」


「直らなかったんですね」


「私も直らなかったので、お互い様です」


「紗江さんは何を?」


直人が聞く。


「フライパン」


洗ったフライパンを水切り籠へ置く。


夜まで置く。


翌朝も置いてある。


早紀が、


『拭けば片づくじゃん』


と言う。


紗江は、


『乾けば片づくじゃん』


と返す。


『邪魔なんだけど』


『使わないでしょ』


『見た目が嫌』


『じゃあ拭いて』


『何で私が』


『私は気にならないから』


そのまま夜になる。


翌日には乾いている。


「それも十一年?」


直人が聞く。


「十一年です」


「二人とも頑固だな」


「早紀にも言われました」


歯磨き粉は紗江が使う。


予備もそのまま家に残した。


トイレの棚から、使い終わったトイレットペーパーの芯が一つ出た。


紗江が見た瞬間、


「もう」


と言った。


佐伯が芯を持つ。


「これは?」


「捨てます」


「当然だろ」


直人が笑う。


「何で残ってるんですか」


「早紀です」


使い終わる。


芯を外す。


新しいロールをつける。


そこまではやる。


なぜか古い芯を新品の上へ置く。


紗江が、


『捨てて』


と言う。


『次トイレ行った時』


『今捨てればいいじゃん』


『今は出るところだから』


『持って出ればいいでしょ』


『次でいいじゃん』


次に入る。


芯はまだある。


『捨ててないじゃん』


『今出るところ』


『一周したよ』


『じゃあ次』


何回か続いたあと、紗江が捨てる。


「何でそれだけやらないんですかね」


佐伯が聞いた。


「知らないです」


紗江は笑いながら芯を処分袋へ入れた。


「何回聞いても分かりませんでした」


夕方。


早紀の私室は空になった。


残す書類や写真は直人の車へ運ばれた。


衣類も家具もない。


壁の小さな傷だけが残っている。


共有スペースはほとんど変わっていない。


ソファもある。


テレビもある。


電気ケトルも、フライパンも、皿も残る。


冬一が冷蔵庫を確認した。


中身は処分済み。


棚だけになっている。


黄色と青のテープが残っていた。


「これはどうしますか」


紗江が冷蔵庫の前へ来た。


「剥がします」


自分で青いテープの端を爪で起こした。


十一年貼られていたせいか、途中で細く裂ける。


もう一度つまむ。


最後まで剥がした。


青の下だけ、棚の縁が少しきれいだった。


紗江は黄色も剥がした。


直人が聞く。


「黄色も?」


「もう分けなくていいので」


二本をまとめて捨てる。


粘着が少し残った。


紗江は台所から布巾を持ってきて、水をつけた。


擦る。


一度では取れない。


もう一度。


「そこまでやらなくても」


直人が言う。


「ベタベタするんですよ」


「妹なら放っときそう」


「放っときますね」


「紗江さんが拭く?」


「私が拭きます」


「じゃあ十一年そうだったんだ」


紗江は返事をせず、もう一度擦った。


粘着が取れた。


直人が帰る前、玄関で紗江へ鍵について確認した。


「早紀の分、どうします?」


「管理会社に返します」


「分かった」


「あと、郵便が来たら連絡します」


「お願いします」


二人とも必要なことだけ決めた。


直人が靴を履く。


「紗江さん」


「はい」


「長いこと、ありがとう」


紗江は少し困った顔をした。


「私も早紀にいろいろやってもらってたので」


直人は頷いた。


「じゃあ、お互い様か」


「たぶん」


それで別れた。


冬一と佐伯も道具を持つ。


紗江が玄関まで送る。


「共有の物、かなり残りましたね」


佐伯が言った。


「助かります。全部買い直すのも嫌なので」


「誰のだったか分からないですしね」


「はい」


紗江は笑った。


冬一は何も足さなかった。


玄関を出る。


扉が閉まった。


その夜、紗江は仕事帰りにコンビニへ寄った。


夕食。


牛乳。


ヨーグルトを一つ。


マンションへ帰る。


玄関に傘は三本残っていた。


台所へ行く。


冷蔵庫を開ける。


棚に色はない。


上段は、朝まで紗江が使っていた場所。


下段は空だった。


ヨーグルトを手にしたまま少し見る。


下の段へ置いた。


扉を閉めかけて、もう一度開く。


ヨーグルトを少し奥へ動かした。


「こっちの方が取りやすいな」


冷蔵庫を閉めた。


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