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生活の跡  作者: 鷺沼鳩屋
明日のぶん
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14/17

返却日

返却期限は、明日だった。


榊冬一は、本棚の端に立てられていた一冊を抜き、裏表紙の図書館シールを確認した。


「西尾さん、こちら借り物です」


台所で食器を分けていた西尾亜紀が振り返る。


「図書館?」


「はい。返却期限が明日です」


「危な」


亜紀は本を受け取った。


五十代の男が、その横から表紙を見る。


「美佐、まだその図書館使ってたのか」


亜紀が父を見る。


「家から近いからね」


西尾康平、五十八歳。


亡くなった美佐の元夫だった。


二人が離婚したのは十二年前。今日は娘の亜紀に頼まれ、荷物の確認を手伝いに来ている。


亜紀が本を開く。


途中のページに、細長く折ったレシートが挟まっていた。


「栞までレシート」


康平が笑った。


「昔から」


「そうなの?」


「本の角折ると怒るからな」


亜紀が顔を上げる。


「それ、お父さんが折ってたんでしょ」


「一回だけ」


「絶対一回じゃないでしょ」


康平は答えなかった。


冬一は次の本へ手を伸ばした。


本棚には、美佐の本と、買ったまま読んでいないらしい本が混じっている。図書館のシールがあるのは今の一冊だけだった。


「借り物はこちらだけです」


「じゃあこれ、別にしときます」


亜紀は持ち帰る物の箱ではなく、自分のバッグの横へ置いた。


康平がもう一度表紙を見る。


知らない作家らしい。


「こういうの読むようになったんだ」


「最近ずっとこの人読んでたよ」


「へえ」


「昔は読まなかった?」


「少なくとも俺といた頃は見てないな」


それで終わった。


作業を続ける。


美佐の部屋は整っていた。


極端に物が少ないわけではない。食器も服も本もある。ただ、同じ物が何十個も積まれてはいなかった。


引き出しには文房具。


棚には薬。


台所には保存容器。


亜紀が必要な物だけ残していく。


康平は、冬一が物を見せても先に答えなかった。


「こちらは?」


冬一が小さな花瓶を持つ。


康平は亜紀を見る。


「処分でお願いします」


亜紀が答えた。


「こちらの時計は?」


「それも」


康平は口を挟まない。


しばらくして佐伯が、


「お父さんもよく来られてたんですか」


と聞いた。


「たまに」


亜紀が答える。


「私の用事がある時くらいかな」


康平も頷いた。


離婚したあとも、亜紀の進学や引っ越しなどで必要があれば顔を合わせた。連絡もする。


ただ、二人で食事へ行くような関係ではなかった。


「離婚してからの方が喧嘩しなかったよね」


亜紀が言う。


康平が笑う。


「一緒に住んでないからな」


「お母さんも同じこと言ってた」


「だろうな」


二人の間に、大きな事件があったわけではない。


朝起きる時間。


物を置く場所。


休日の過ごし方。


お金を使うところ。


片づける速さ。


一緒に暮らしている時には、そういうものが何度もぶつかった。


亜紀が本棚の前へしゃがむ。


「本もそれだったんでしょ」


「何が」


「喧嘩の原因」


「離婚理由をページの角にするな」


康平が笑った。


「でも怒られたんでしょ」


「怒られた」


美佐は、本を雑に扱うのが嫌いだった。


康平は気にしない。


読みかけならページの角を折る。


伏せて置く。


鞄へそのまま入れる。


結婚して間もない頃、美佐が初めて折られたページを見つけた。


『何で折るの』


『どこまで読んだか分かるから』


『栞使って』


『ない』


『紙なら何でもあるでしょ』


『折った方が早い』


『私の本でやらないで』


『戻せば分かんないだろ』


『分かるよ』


美佐は折られた角を指で伸ばした。


それから数日、康平が本を読むたびに紙片を差し出してきた。


広告。


レシート。


郵便物の端。


『これ使って』


『今読んでない』


『次読む時』


『覚えてるのかよ』


『また折るから』


「うるさかったな」


康平が言う。


亜紀が笑った。


「お父さんが悪いじゃん」


「今ならそう思う」


「当時は?」


「細かいと思ってた」


「お母さんも、お父さんのこと雑って言ってた」


「知ってる」


「本人に?」


「毎日」


佐伯が笑った。


「そこはお互い分かってたんですね」


「分かってても直らないものはありますよ」


康平が言った。


冬一は処分する本を箱へ詰めた。


昼前、机の引き出しから別のレシートが何枚か出た。


美佐は財布の中身をこまめに整理する人だったらしく、古いものは少ない。


亜紀が一枚を見る。


「これ、図書館の本に挟んでるのと同じ店だ」


駅前の喫茶店のレシートだった。


康平が覗く。


「この店まだあるのか」


「知ってる?」


「昔、美佐とよく行った」


亜紀が顔を上げた。


「初めて聞いた」


「お前が生まれる前だからな」


「何頼んでたの?」


「俺はコーヒー」


「お母さんは?」


康平が少し考える。


「クリームソーダ」


亜紀が笑った。


「嘘」


「何で」


「お母さん、甘い飲み物ほとんど飲まないよ」


「昔は飲んでた」


「本当に?」


「毎回じゃないけど」


「全然想像できない」


康平も少し笑った。


「俺も今の美佐が何飲んでたかは知らん」


亜紀はレシートをもう一度見た。


注文内容までは印字されていない。


「これ、残す?」


冬一が聞く。


亜紀は首を振った。


「いらないです」


レシートは処分箱へ入った。


昼休憩。


亜紀はコンビニのおにぎりを食べ、康平は近くの店で買ったいなり寿司を食べていた。


借りた本だけは、バッグの横に置かれたまま。


康平がそれを見る。


「期限、明日だっけ」


「うん」


「今日返せば」


「帰りに寄ろうと思ってる」


「車出すよ」


「いいの?」


「帰り道だろ」


「お父さんの家、逆方向じゃない?」


「少しくらい」


亜紀は頷いた。


それ以上の話にはならなかった。


午後は寝室を片づけた。


クローゼット。


小さな箪笥。


収納ケース。


服は亜紀が一部だけ残した。


美佐の紺色のカーディガンを持ち上げる。


「これ、よく着てたな」


康平が言った。


亜紀が父を見る。


「覚えてるんだ」


「昔から持ってた」


「そんな前から?」


「たぶん」


亜紀はタグを見る。


かなり古い。


「いる?」


「俺が?」


「いや、何となく」


「何に使うんだよ」


「だよね」


亜紀は少し笑って、処分側へ戻した。


康平も止めなかった。


棚の上から写真箱が出た。


冬一が亜紀へ渡す。


「写真です」


亜紀は床へ座って見る。


康平は最初、離れた場所にいた。


何枚か進んだところで、


「あ」


亜紀が声を出す。


「お父さん若い」


康平が近づいた。


三人で写った写真だった。


亜紀は小学生くらい。


食卓。


誕生日でも旅行でもない。


三人とも部屋着で、テーブルには鍋が置かれている。


康平が横を向いて何か言っている。


美佐は笑っている。


亜紀は箸を持ったままカメラを見ていた。


「誰が撮ったの、これ」


「タイマーじゃないか」


「何で普通の日に?」


「知らん」


康平は写真を見る。


「この鍋覚えてる」


「そっち?」


「美佐が辛くしすぎたやつ」


昔、康平が一口食べて言った。


『ちょっと辛くない?』


美佐は、


『これくらい普通』


と答えた。


『亜紀食えないだろ』


『亜紀は別にする』


『俺も別にして』


『大人でしょ』


『辛いのに大人関係ある?』


幼い亜紀が横から、


『お父さん子供?』


と言った。


『お前はどっちの味方だ』


『お母さん』


『何で』


『辛い方がおいしそうだから』


「私そんなこと言った?」


「言った」


康平が答える。


「お前、俺の白い方の鍋食ってたけどな」


「全然覚えてない」


「俺は覚えてる」


亜紀は写真をもう一度見た。


「これ、お父さん持ってないでしょ」


「ないと思う」


「いる?」


康平は少しだけ眺めた。


「お前が持っとけ」


「コピーする?」


「いいよ」


「本当に?」


「うん」


亜紀は写真を自分の残す箱へ入れた。


別の写真も出る。


家族旅行。


運動会。


海。


康平が写っている物もある。


二人で笑うことはあった。


康平が持って帰る物はなかった。


午後三時を過ぎる頃、部屋の大半が空になった。


佐伯が本棚を運び出す。


冬一は最後に棚の裏と引き出しを確認する。


亜紀が借りた本を手に取った。


「これ、どこまで読んでたんだろ」


レシートが挟まった厚みを見る。


半分より少し後ろ。


康平が、


「そこに挟んであったなら、そこじゃないか」


と言う。


「でも読み終わって適当に挟んだかもしれないじゃん」


「それは知らん」


亜紀が表紙を見る。


「何読んでたのかな」


「タイトル書いてあるだろ」


「内容」


「読めば分かるんじゃないか」


「そうなんだけど」


亜紀は本を開かなかった。


バッグの横へ戻した。


冬一も何も言わず、空になった引き出しを閉めた。


夕方。


作業が終わった。


亜紀が持ち帰る物は段ボール二箱と書類。


写真。


少しの服。


康平は何も持っていない。


冬一が最後の確認をする。


「こちらで終了です」


「ありがとうございました」


亜紀が言う。


康平は軽く頭を下げた。


外へ出る。


康平の車へ荷物を積む。


借りた本だけは亜紀が自分で持った。


「図書館、まだ開いてる?」


康平が聞く。


「返却口ならいつでも大丈夫」


「じゃあ行くか」


二人は車へ乗った。


図書館に着いた頃には、外が少し暗くなっていた。


正面入口はまだ開いている。


亜紀は本を抱えて車を降りた。


康平も降りる。


「お父さん来なくてもいいよ」


「ここまで来たから」


返却口は入口の脇にある。


亜紀が本を見る。


レシートはまだ途中のページに挟まっている。


「これ抜かなきゃ」


引き抜く。


駅前の喫茶店。


日付。


金額。


それだけだった。


亜紀はレシートをバッグの外ポケットへ入れた。


本を返却口へ入れようとして、止める。


父へ差し出した。


「お父さん、読まなくていい?」


康平が本を見る。


「何で俺が?」


「途中だったから」


「美佐が?」


「うん」


康平は表紙に目を落とした。


受け取らない。


「俺の本じゃないからな」


亜紀はしばらく父を見た。


それから、


「そっか」


と答えた。


本を返却口へ入れる。


手を離す。


奥で、本が一度滑る音がした。


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