返却日
返却期限は、明日だった。
榊冬一は、本棚の端に立てられていた一冊を抜き、裏表紙の図書館シールを確認した。
「西尾さん、こちら借り物です」
台所で食器を分けていた西尾亜紀が振り返る。
「図書館?」
「はい。返却期限が明日です」
「危な」
亜紀は本を受け取った。
五十代の男が、その横から表紙を見る。
「美佐、まだその図書館使ってたのか」
亜紀が父を見る。
「家から近いからね」
西尾康平、五十八歳。
亡くなった美佐の元夫だった。
二人が離婚したのは十二年前。今日は娘の亜紀に頼まれ、荷物の確認を手伝いに来ている。
亜紀が本を開く。
途中のページに、細長く折ったレシートが挟まっていた。
「栞までレシート」
康平が笑った。
「昔から」
「そうなの?」
「本の角折ると怒るからな」
亜紀が顔を上げる。
「それ、お父さんが折ってたんでしょ」
「一回だけ」
「絶対一回じゃないでしょ」
康平は答えなかった。
冬一は次の本へ手を伸ばした。
本棚には、美佐の本と、買ったまま読んでいないらしい本が混じっている。図書館のシールがあるのは今の一冊だけだった。
「借り物はこちらだけです」
「じゃあこれ、別にしときます」
亜紀は持ち帰る物の箱ではなく、自分のバッグの横へ置いた。
康平がもう一度表紙を見る。
知らない作家らしい。
「こういうの読むようになったんだ」
「最近ずっとこの人読んでたよ」
「へえ」
「昔は読まなかった?」
「少なくとも俺といた頃は見てないな」
それで終わった。
作業を続ける。
美佐の部屋は整っていた。
極端に物が少ないわけではない。食器も服も本もある。ただ、同じ物が何十個も積まれてはいなかった。
引き出しには文房具。
棚には薬。
台所には保存容器。
亜紀が必要な物だけ残していく。
康平は、冬一が物を見せても先に答えなかった。
「こちらは?」
冬一が小さな花瓶を持つ。
康平は亜紀を見る。
「処分でお願いします」
亜紀が答えた。
「こちらの時計は?」
「それも」
康平は口を挟まない。
しばらくして佐伯が、
「お父さんもよく来られてたんですか」
と聞いた。
「たまに」
亜紀が答える。
「私の用事がある時くらいかな」
康平も頷いた。
離婚したあとも、亜紀の進学や引っ越しなどで必要があれば顔を合わせた。連絡もする。
ただ、二人で食事へ行くような関係ではなかった。
「離婚してからの方が喧嘩しなかったよね」
亜紀が言う。
康平が笑う。
「一緒に住んでないからな」
「お母さんも同じこと言ってた」
「だろうな」
二人の間に、大きな事件があったわけではない。
朝起きる時間。
物を置く場所。
休日の過ごし方。
お金を使うところ。
片づける速さ。
一緒に暮らしている時には、そういうものが何度もぶつかった。
亜紀が本棚の前へしゃがむ。
「本もそれだったんでしょ」
「何が」
「喧嘩の原因」
「離婚理由をページの角にするな」
康平が笑った。
「でも怒られたんでしょ」
「怒られた」
美佐は、本を雑に扱うのが嫌いだった。
康平は気にしない。
読みかけならページの角を折る。
伏せて置く。
鞄へそのまま入れる。
結婚して間もない頃、美佐が初めて折られたページを見つけた。
『何で折るの』
『どこまで読んだか分かるから』
『栞使って』
『ない』
『紙なら何でもあるでしょ』
『折った方が早い』
『私の本でやらないで』
『戻せば分かんないだろ』
『分かるよ』
美佐は折られた角を指で伸ばした。
それから数日、康平が本を読むたびに紙片を差し出してきた。
広告。
レシート。
郵便物の端。
『これ使って』
『今読んでない』
『次読む時』
『覚えてるのかよ』
『また折るから』
「うるさかったな」
康平が言う。
亜紀が笑った。
「お父さんが悪いじゃん」
「今ならそう思う」
「当時は?」
「細かいと思ってた」
「お母さんも、お父さんのこと雑って言ってた」
「知ってる」
「本人に?」
「毎日」
佐伯が笑った。
「そこはお互い分かってたんですね」
「分かってても直らないものはありますよ」
康平が言った。
冬一は処分する本を箱へ詰めた。
昼前、机の引き出しから別のレシートが何枚か出た。
美佐は財布の中身をこまめに整理する人だったらしく、古いものは少ない。
亜紀が一枚を見る。
「これ、図書館の本に挟んでるのと同じ店だ」
駅前の喫茶店のレシートだった。
康平が覗く。
「この店まだあるのか」
「知ってる?」
「昔、美佐とよく行った」
亜紀が顔を上げた。
「初めて聞いた」
「お前が生まれる前だからな」
「何頼んでたの?」
「俺はコーヒー」
「お母さんは?」
康平が少し考える。
「クリームソーダ」
亜紀が笑った。
「嘘」
「何で」
「お母さん、甘い飲み物ほとんど飲まないよ」
「昔は飲んでた」
「本当に?」
「毎回じゃないけど」
「全然想像できない」
康平も少し笑った。
「俺も今の美佐が何飲んでたかは知らん」
亜紀はレシートをもう一度見た。
注文内容までは印字されていない。
「これ、残す?」
冬一が聞く。
亜紀は首を振った。
「いらないです」
レシートは処分箱へ入った。
昼休憩。
亜紀はコンビニのおにぎりを食べ、康平は近くの店で買ったいなり寿司を食べていた。
借りた本だけは、バッグの横に置かれたまま。
康平がそれを見る。
「期限、明日だっけ」
「うん」
「今日返せば」
「帰りに寄ろうと思ってる」
「車出すよ」
「いいの?」
「帰り道だろ」
「お父さんの家、逆方向じゃない?」
「少しくらい」
亜紀は頷いた。
それ以上の話にはならなかった。
午後は寝室を片づけた。
クローゼット。
小さな箪笥。
収納ケース。
服は亜紀が一部だけ残した。
美佐の紺色のカーディガンを持ち上げる。
「これ、よく着てたな」
康平が言った。
亜紀が父を見る。
「覚えてるんだ」
「昔から持ってた」
「そんな前から?」
「たぶん」
亜紀はタグを見る。
かなり古い。
「いる?」
「俺が?」
「いや、何となく」
「何に使うんだよ」
「だよね」
亜紀は少し笑って、処分側へ戻した。
康平も止めなかった。
棚の上から写真箱が出た。
冬一が亜紀へ渡す。
「写真です」
亜紀は床へ座って見る。
康平は最初、離れた場所にいた。
何枚か進んだところで、
「あ」
亜紀が声を出す。
「お父さん若い」
康平が近づいた。
三人で写った写真だった。
亜紀は小学生くらい。
食卓。
誕生日でも旅行でもない。
三人とも部屋着で、テーブルには鍋が置かれている。
康平が横を向いて何か言っている。
美佐は笑っている。
亜紀は箸を持ったままカメラを見ていた。
「誰が撮ったの、これ」
「タイマーじゃないか」
「何で普通の日に?」
「知らん」
康平は写真を見る。
「この鍋覚えてる」
「そっち?」
「美佐が辛くしすぎたやつ」
昔、康平が一口食べて言った。
『ちょっと辛くない?』
美佐は、
『これくらい普通』
と答えた。
『亜紀食えないだろ』
『亜紀は別にする』
『俺も別にして』
『大人でしょ』
『辛いのに大人関係ある?』
幼い亜紀が横から、
『お父さん子供?』
と言った。
『お前はどっちの味方だ』
『お母さん』
『何で』
『辛い方がおいしそうだから』
「私そんなこと言った?」
「言った」
康平が答える。
「お前、俺の白い方の鍋食ってたけどな」
「全然覚えてない」
「俺は覚えてる」
亜紀は写真をもう一度見た。
「これ、お父さん持ってないでしょ」
「ないと思う」
「いる?」
康平は少しだけ眺めた。
「お前が持っとけ」
「コピーする?」
「いいよ」
「本当に?」
「うん」
亜紀は写真を自分の残す箱へ入れた。
別の写真も出る。
家族旅行。
運動会。
海。
康平が写っている物もある。
二人で笑うことはあった。
康平が持って帰る物はなかった。
午後三時を過ぎる頃、部屋の大半が空になった。
佐伯が本棚を運び出す。
冬一は最後に棚の裏と引き出しを確認する。
亜紀が借りた本を手に取った。
「これ、どこまで読んでたんだろ」
レシートが挟まった厚みを見る。
半分より少し後ろ。
康平が、
「そこに挟んであったなら、そこじゃないか」
と言う。
「でも読み終わって適当に挟んだかもしれないじゃん」
「それは知らん」
亜紀が表紙を見る。
「何読んでたのかな」
「タイトル書いてあるだろ」
「内容」
「読めば分かるんじゃないか」
「そうなんだけど」
亜紀は本を開かなかった。
バッグの横へ戻した。
冬一も何も言わず、空になった引き出しを閉めた。
夕方。
作業が終わった。
亜紀が持ち帰る物は段ボール二箱と書類。
写真。
少しの服。
康平は何も持っていない。
冬一が最後の確認をする。
「こちらで終了です」
「ありがとうございました」
亜紀が言う。
康平は軽く頭を下げた。
外へ出る。
康平の車へ荷物を積む。
借りた本だけは亜紀が自分で持った。
「図書館、まだ開いてる?」
康平が聞く。
「返却口ならいつでも大丈夫」
「じゃあ行くか」
二人は車へ乗った。
図書館に着いた頃には、外が少し暗くなっていた。
正面入口はまだ開いている。
亜紀は本を抱えて車を降りた。
康平も降りる。
「お父さん来なくてもいいよ」
「ここまで来たから」
返却口は入口の脇にある。
亜紀が本を見る。
レシートはまだ途中のページに挟まっている。
「これ抜かなきゃ」
引き抜く。
駅前の喫茶店。
日付。
金額。
それだけだった。
亜紀はレシートをバッグの外ポケットへ入れた。
本を返却口へ入れようとして、止める。
父へ差し出した。
「お父さん、読まなくていい?」
康平が本を見る。
「何で俺が?」
「途中だったから」
「美佐が?」
「うん」
康平は表紙に目を落とした。
受け取らない。
「俺の本じゃないからな」
亜紀はしばらく父を見た。
それから、
「そっか」
と答えた。
本を返却口へ入れる。
手を離す。
奥で、本が一度滑る音がした。




