微糖
午後一時ちょうどに、玄関の呼び鈴が鳴った。
野口信也が出る。
「叔父さん、来た」
玄関先に立っていたのは、白髪の多い男だった。
七十一歳。
小林正雄と名乗った。
右手にコンビニの袋を提げている。
「どうも。邪魔するよ」
「全然。もう始まってるけど」
「見りゃ分かる」
居間からは、すでに棚や段ボールが運び出されているのが見えた。
小林は靴を脱ぎかけて、手にしていた袋を見た。
「あ」
信也が振り返る。
「何?」
小林は中から缶コーヒーを二本出した。
一本はブラック。
もう一本は微糖。
「また二本買っちまった」
信也は何も言わなかった。
小林もすぐに袋へ戻した。
「まあいい。誰か飲むだろ」
榊冬一は少し離れたところで本棚を空にしていた。
亡くなった野口茂は七十歳。
独身で、この家に一人で暮らしていた。
依頼人は甥の信也だった。
必要な書類や現金、写真はすでにある程度確認されており、家の中に残った家具や日用品は、ほとんど処分する予定になっている。
小林は遺族ではない。
「親父の友達より会ってた人です」
信也が冬一へそう説明した。
「叔父と?」
「三十年以上。たぶん俺より叔父の家に来てます」
「余計なこと言うな」
小林が言う。
信也が笑う。
「毎週来てたじゃん」
「毎週じゃない」
「土曜、毎週一時」
「来ない週もあった」
「いつ?」
小林は少し考えた。
「盆とか」
「毎週じゃん」
佐伯が笑った。
小林は居間へ入る。
家具が少し減っていることに気づいたようだったが、特に立ち止まらなかった。
「信也。眼鏡は?」
「眼鏡?」
「茂の」
「見てないけど」
小林はテレビ台の右端にある小さな引き出しを開けた。
中には何もない。
「ここだろ、普通」
「もう別の箱に入れたかな」
冬一が確認済みの小物箱を見る。
眼鏡が一つある。
「こちらですか」
見せる。
小林は遠くから一度見て、
「それ」
と言った。
信也が受け取る。
「よく分かるね」
「三十年見てる」
「いる?」
「いらん」
返事は早かった。
「俺、眼鏡あるし」
「そういう問題?」
「そういう問題だろ」
眼鏡は信也が一度預かることになった。
小林はそのまま居間を歩く。
窓際の小さな棚を指した。
「爪切り、その辺にないか」
佐伯が棚の中を見る。
「ありますね」
「ほら」
信也が笑った。
「何で知ってるの」
「茂、そこ以外に置かない」
「財布は?」
「財布は置いた場所忘れる」
「じゃあ知らない?」
「座布団の下、電話の横、冷蔵庫の上。大体その三つ」
信也が冬一を見る。
「本当?」
「冷蔵庫の上から小銭入れは出ました」
小林が得意そうに鼻を鳴らした。
「ほら」
「叔父さんち詳しすぎない?」
「毎週来てたんだから当たり前だろ」
「さっき毎週じゃないって言ったじゃん」
小林は返事をしなかった。
冬一は笑いながら作業へ戻った。
低い卓袱台が居間の中央にある。
表面には細かな傷が多い。
一か所だけ、角の近くに深い筋があった。
小林がそこへ指を置いた。
「これ、茂が飛車叩きつけた跡だ」
信也が眉を上げる。
「将棋で?」
「将棋以外で飛車使わんだろ」
「何で叩きつけたの」
「俺が取ったから」
「普通じゃん」
「そうなんだよ」
小林が笑う。
茂は将棋で飛車を取られるのが嫌いだった。
駒の価値として大きいからではない。
「飛車を取るのは卑怯だ」
と本気で言う。
小林は毎回、
「盤の上にあるんだから取るだろ」
と返す。
「王様だけ狙え」
「それ将棋じゃない」
「飛車は残せ」
「嫌だ」
それで三十年以上やっていた。
「勝ってたのはどっちです?」
佐伯が聞く。
「俺」
小林が即答する。
信也が、
「叔父は自分の方が強いって言ってたけど」
と言った。
小林の顔が変わった。
「嘘だよ」
「でも叔父は」
「茂の負け越し」
「何勝何敗?」
「そこまでは知らん」
「じゃあ互角じゃない?」
「違う」
小林は卓袱台へ手を置いた。
「大事なところで俺が勝ってる」
「大事なところって?」
「俺が覚えてる試合」
信也が笑った。
「それだけ覚えてるんじゃないの」
小林も笑った。
卓袱台の下から、将棋盤が出た。
厚い脚付きの盤ではなく、二つ折りの平たいものだった。
端が擦れ、蝶番の金具が少し錆びている。
駒箱もある。
冬一が信也へ確認する。
「こちらは残されますか」
信也が小林を見る。
「持ってく?」
「いらん」
「でも三十年これでやってたんでしょ」
「俺んちにも盤ある」
「これじゃなくていいの?」
「盤は盤だろ」
小林は駒箱を開けた。
歩が一枚だけ裏返っている。
表へ返す。
「こいつ、片づける時いつも一枚くらい裏だ」
「叔父さん?」
「雑なんだよ」
そう言って蓋を閉めた。
将棋盤も処分になった。
冬一は特に聞き返さなかった。
小林は何も持って帰ろうとしない。
釣り用の帽子が出ても、
「これ、よく被ってた」
と言うだけだった。
信也が、
「いる?」
と聞けば、
「帽子ある」
と答える。
古い湯呑み。
「これ使ってたよね」
「湯呑みある」
灰皿。
「叔父、昔吸ってたんだ」
「二十年前にやめた」
「じゃあ何で残してたんだろ」
「知らん」
釣り竿が二本出た。
小林は一本を持ち上げ、継ぎ目を確かめる。
「これで川行ったな」
「一緒に?」
「ああ」
「持って帰れば?」
「俺、もう釣りやめた」
元へ戻す。
信也もそれ以上勧めなかった。
冬一は少し離れた場所から見ていた。
物をよく知っている。
置き場所も分かる。
いつ使っていたかも覚えている。
それでも、小林はどれにも手を伸ばさなかった。
昼過ぎ、佐伯が家具の搬出順を確認する。
「この卓袱台、次出します」
小林が時計を見る。
一時半を少し過ぎていた。
「その前に飯食っていいか」
信也が、
「もちろん」
と答える。
作業をいったん区切った。
冬一と佐伯は玄関近くへ移動する。
信也は台所で買ってきたパンを開けた。
小林は卓袱台の前へ座った。
迷わず窓側。
座布団もないのに、そこだった。
「そこ、いつも叔父さんの席?」
信也が聞く。
「俺の」
「じゃあ叔父は向かい?」
「ああ」
「毎週?」
「毎週じゃない」
「もういいよ、それ」
信也が笑った。
小林はコンビニの袋を卓袱台へ置いた。
パンを一つ出す。
続いて缶コーヒー。
ブラックを自分の前へ置く。
もう一本を取り出した。
微糖。
手を伸ばす。
卓袱台の向こう側へ置いた。
誰も座っていない場所だった。
缶から手を離したところで、小林が止まった。
そのまま数秒、微糖を見ていた。
信也は何も言わなかった。
佐伯も玄関脇で弁当の蓋を開ける。
冬一はペットボトルの水を飲んだ。
小林が微糖を取り上げた。
「榊さん」
冬一が顔を上げる。
「はい」
「甘いの飲める?」
「飲めます」
「これ飲んで」
小林が差し出した。
冬一は受け取る。
「ありがとうございます」
「間違えて買っただけだから」
プルタブを開ける。
一口飲む。
「甘いですね」
小林もブラックを開けた。
「だろ」
飲む。
「あいつ、これしか飲まなかった」
それでパンの袋を開けた。
信也が少しして、
「ずっと同じだったの?」
と聞いた。
「何が」
「コーヒー」
「俺はブラック。茂は微糖」
「一回も逆にならなかった?」
「ならん」
「そんなもん?」
「そんなもんだ」
毎週土曜の午後一時。
小林が来る時は、途中のコンビニで二本買う。
ブラック。
微糖。
茂が先に買っている日は、卓袱台に二本置いてある。
それでも同じ。
小林がブラック。
茂が微糖。
「叔父、甘い物好きだったんだ」
信也が言う。
「いや」
「微糖なのに?」
「菓子はあんまり食わん」
「じゃあ何で」
「知らん。コーヒーだけこれ」
理由を聞いたことはないらしい。
必要もなかった。
将棋を始める。
コーヒーを飲む。
どちらかが負ける。
また来週。
「茂、負けそうになると便所行くんだよ」
小林が突然言った。
「トイレ?」
「長い」
「普通じゃない?」
「勝ってる時は行かない」
信也が笑う。
「考えてたってこと?」
「絶対そうだ」
茂が不利になる。
腕を組む。
盤を見る。
「ちょっと便所」
席を立つ。
五分戻らない。
長い時は十分。
戻ってくると急に良い手を指す。
小林が、
「便所で考えただろ」
と言う。
茂は、
「腹が弱いんだ」
と言い張る。
「腹弱い人間が毎週微糖飲むか?」
「関係ある?」
「知らん」
「ないと思うよ」
信也が笑った。
小林も笑う。
「一回、便所の前で待っててやったんだ」
「何してるの」
「考えさせないように」
「子供じゃん」
「茂も怒ったよ。落ち着かないって」
「そりゃ怒るよ」
「だったら盤の前で考えりゃいい」
冬一も笑った。
小林がこちらを見る。
「榊さん、将棋やる?」
「ほとんど分からないです」
「じゃあ駄目だ」
「即答ですね」
「今から覚えるには時間かかる」
「まだ七十一でしょう」
佐伯が言う。
「俺じゃない。榊さんが」
「そっちですか」
また笑いが起きた。
休憩が終わる。
小林は空になったブラック缶を自分で袋へ入れた。
冬一が飲み終えた微糖も受け取ろうとしたが、
「こちらで捨てます」
と言うと、
「そう」
で終わった。
卓袱台を運び出す。
将棋盤も箱へ入る。
小林は手を出さなかった。
午後の作業が進む。
本棚。
テレビ台。
布団。
衣類。
信也が迷った物だけ確認する。
小林はときどき、
「それは茂のじゃない」
「それ、昔からあった」
「その工具、ほとんど使ってない」
と口を挟む。
ただし、
「だから残せ」
とは言わなかった。
押し入れの奥から古い紙袋が出た。
中に年賀状が束になっている。
信也が確認する。
「小林さんからのもあるかな」
「出してない」
「一枚も?」
「近所に年賀状出してどうする」
「そういうもの?」
「毎週会うのに正月まで紙で挨拶する必要ないだろ」
「でも正月は?」
「会う」
「会うんだ」
「一月最初の土曜」
小林が当然のように答えた。
夕方。
部屋の中には大きな家具がほとんどなくなった。
最後に残った将棋盤も運び出される。
信也がもう一度、小林へ聞いた。
「本当に何もいらない?」
小林は部屋を見回した。
釣り道具もない。
卓袱台もない。
テレビもない。
爪切りの入っていた棚もない。
「いらん」
「一個くらい」
「何で」
「いや、何となく」
小林は少し考えた。
「うちにあるからいい」
「何が?」
「俺の物が」
信也はそれ以上言わなかった。
冬一は最後の収納を確認した。
空。
窓を閉める。
佐伯が搬出物の確認をする。
信也が玄関の鍵を持つ。
小林は先に靴を履いた。
外へ出る。
信也も後を追う。
「小林さん」
「何」
「土曜、暇になりますね」
小林は玄関前で一度立ち止まった。
「そうだな」
それだけ言って、歩き出した。
振り返らなかった。




