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生活の跡  作者: 鷺沼鳩屋
いない人の場所
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8/12

微糖

午後一時ちょうどに、玄関の呼び鈴が鳴った。


野口信也が出る。


「叔父さん、来た」


玄関先に立っていたのは、白髪の多い男だった。


七十一歳。


小林正雄と名乗った。


右手にコンビニの袋を提げている。


「どうも。邪魔するよ」


「全然。もう始まってるけど」


「見りゃ分かる」


居間からは、すでに棚や段ボールが運び出されているのが見えた。


小林は靴を脱ぎかけて、手にしていた袋を見た。


「あ」


信也が振り返る。


「何?」


小林は中から缶コーヒーを二本出した。


一本はブラック。


もう一本は微糖。


「また二本買っちまった」


信也は何も言わなかった。


小林もすぐに袋へ戻した。


「まあいい。誰か飲むだろ」


榊冬一は少し離れたところで本棚を空にしていた。


亡くなった野口茂は七十歳。


独身で、この家に一人で暮らしていた。


依頼人は甥の信也だった。


必要な書類や現金、写真はすでにある程度確認されており、家の中に残った家具や日用品は、ほとんど処分する予定になっている。


小林は遺族ではない。


「親父の友達より会ってた人です」


信也が冬一へそう説明した。


「叔父と?」


「三十年以上。たぶん俺より叔父の家に来てます」


「余計なこと言うな」


小林が言う。


信也が笑う。


「毎週来てたじゃん」


「毎週じゃない」


「土曜、毎週一時」


「来ない週もあった」


「いつ?」


小林は少し考えた。


「盆とか」


「毎週じゃん」


佐伯が笑った。


小林は居間へ入る。


家具が少し減っていることに気づいたようだったが、特に立ち止まらなかった。


「信也。眼鏡は?」


「眼鏡?」


「茂の」


「見てないけど」


小林はテレビ台の右端にある小さな引き出しを開けた。


中には何もない。


「ここだろ、普通」


「もう別の箱に入れたかな」


冬一が確認済みの小物箱を見る。


眼鏡が一つある。


「こちらですか」


見せる。


小林は遠くから一度見て、


「それ」


と言った。


信也が受け取る。


「よく分かるね」


「三十年見てる」


「いる?」


「いらん」


返事は早かった。


「俺、眼鏡あるし」


「そういう問題?」


「そういう問題だろ」


眼鏡は信也が一度預かることになった。


小林はそのまま居間を歩く。


窓際の小さな棚を指した。


「爪切り、その辺にないか」


佐伯が棚の中を見る。


「ありますね」


「ほら」


信也が笑った。


「何で知ってるの」


「茂、そこ以外に置かない」


「財布は?」


「財布は置いた場所忘れる」


「じゃあ知らない?」


「座布団の下、電話の横、冷蔵庫の上。大体その三つ」


信也が冬一を見る。


「本当?」


「冷蔵庫の上から小銭入れは出ました」


小林が得意そうに鼻を鳴らした。


「ほら」


「叔父さんち詳しすぎない?」


「毎週来てたんだから当たり前だろ」


「さっき毎週じゃないって言ったじゃん」


小林は返事をしなかった。


冬一は笑いながら作業へ戻った。


低い卓袱台が居間の中央にある。


表面には細かな傷が多い。


一か所だけ、角の近くに深い筋があった。


小林がそこへ指を置いた。


「これ、茂が飛車叩きつけた跡だ」


信也が眉を上げる。


「将棋で?」


「将棋以外で飛車使わんだろ」


「何で叩きつけたの」


「俺が取ったから」


「普通じゃん」


「そうなんだよ」


小林が笑う。


茂は将棋で飛車を取られるのが嫌いだった。


駒の価値として大きいからではない。


「飛車を取るのは卑怯だ」


と本気で言う。


小林は毎回、


「盤の上にあるんだから取るだろ」


と返す。


「王様だけ狙え」


「それ将棋じゃない」


「飛車は残せ」


「嫌だ」


それで三十年以上やっていた。


「勝ってたのはどっちです?」


佐伯が聞く。


「俺」


小林が即答する。


信也が、


「叔父は自分の方が強いって言ってたけど」


と言った。


小林の顔が変わった。


「嘘だよ」


「でも叔父は」


「茂の負け越し」


「何勝何敗?」


「そこまでは知らん」


「じゃあ互角じゃない?」


「違う」


小林は卓袱台へ手を置いた。


「大事なところで俺が勝ってる」


「大事なところって?」


「俺が覚えてる試合」


信也が笑った。


「それだけ覚えてるんじゃないの」


小林も笑った。


卓袱台の下から、将棋盤が出た。


厚い脚付きの盤ではなく、二つ折りの平たいものだった。


端が擦れ、蝶番の金具が少し錆びている。


駒箱もある。


冬一が信也へ確認する。


「こちらは残されますか」


信也が小林を見る。


「持ってく?」


「いらん」


「でも三十年これでやってたんでしょ」


「俺んちにも盤ある」


「これじゃなくていいの?」


「盤は盤だろ」


小林は駒箱を開けた。


歩が一枚だけ裏返っている。


表へ返す。


「こいつ、片づける時いつも一枚くらい裏だ」


「叔父さん?」


「雑なんだよ」


そう言って蓋を閉めた。


将棋盤も処分になった。


冬一は特に聞き返さなかった。


小林は何も持って帰ろうとしない。


釣り用の帽子が出ても、


「これ、よく被ってた」


と言うだけだった。


信也が、


「いる?」


と聞けば、


「帽子ある」


と答える。


古い湯呑み。


「これ使ってたよね」


「湯呑みある」


灰皿。


「叔父、昔吸ってたんだ」


「二十年前にやめた」


「じゃあ何で残してたんだろ」


「知らん」


釣り竿が二本出た。


小林は一本を持ち上げ、継ぎ目を確かめる。


「これで川行ったな」


「一緒に?」


「ああ」


「持って帰れば?」


「俺、もう釣りやめた」


元へ戻す。


信也もそれ以上勧めなかった。


冬一は少し離れた場所から見ていた。


物をよく知っている。


置き場所も分かる。


いつ使っていたかも覚えている。


それでも、小林はどれにも手を伸ばさなかった。


昼過ぎ、佐伯が家具の搬出順を確認する。


「この卓袱台、次出します」


小林が時計を見る。


一時半を少し過ぎていた。


「その前に飯食っていいか」


信也が、


「もちろん」


と答える。


作業をいったん区切った。


冬一と佐伯は玄関近くへ移動する。


信也は台所で買ってきたパンを開けた。


小林は卓袱台の前へ座った。


迷わず窓側。


座布団もないのに、そこだった。


「そこ、いつも叔父さんの席?」


信也が聞く。


「俺の」


「じゃあ叔父は向かい?」


「ああ」


「毎週?」


「毎週じゃない」


「もういいよ、それ」


信也が笑った。


小林はコンビニの袋を卓袱台へ置いた。


パンを一つ出す。


続いて缶コーヒー。


ブラックを自分の前へ置く。


もう一本を取り出した。


微糖。


手を伸ばす。


卓袱台の向こう側へ置いた。


誰も座っていない場所だった。


缶から手を離したところで、小林が止まった。


そのまま数秒、微糖を見ていた。


信也は何も言わなかった。


佐伯も玄関脇で弁当の蓋を開ける。


冬一はペットボトルの水を飲んだ。


小林が微糖を取り上げた。


「榊さん」


冬一が顔を上げる。


「はい」


「甘いの飲める?」


「飲めます」


「これ飲んで」


小林が差し出した。


冬一は受け取る。


「ありがとうございます」


「間違えて買っただけだから」


プルタブを開ける。


一口飲む。


「甘いですね」


小林もブラックを開けた。


「だろ」


飲む。


「あいつ、これしか飲まなかった」


それでパンの袋を開けた。


信也が少しして、


「ずっと同じだったの?」


と聞いた。


「何が」


「コーヒー」


「俺はブラック。茂は微糖」


「一回も逆にならなかった?」


「ならん」


「そんなもん?」


「そんなもんだ」


毎週土曜の午後一時。


小林が来る時は、途中のコンビニで二本買う。


ブラック。


微糖。


茂が先に買っている日は、卓袱台に二本置いてある。


それでも同じ。


小林がブラック。


茂が微糖。


「叔父、甘い物好きだったんだ」


信也が言う。


「いや」


「微糖なのに?」


「菓子はあんまり食わん」


「じゃあ何で」


「知らん。コーヒーだけこれ」


理由を聞いたことはないらしい。


必要もなかった。


将棋を始める。


コーヒーを飲む。


どちらかが負ける。


また来週。


「茂、負けそうになると便所行くんだよ」


小林が突然言った。


「トイレ?」


「長い」


「普通じゃない?」


「勝ってる時は行かない」


信也が笑う。


「考えてたってこと?」


「絶対そうだ」


茂が不利になる。


腕を組む。


盤を見る。


「ちょっと便所」


席を立つ。


五分戻らない。


長い時は十分。


戻ってくると急に良い手を指す。


小林が、


「便所で考えただろ」


と言う。


茂は、


「腹が弱いんだ」


と言い張る。


「腹弱い人間が毎週微糖飲むか?」


「関係ある?」


「知らん」


「ないと思うよ」


信也が笑った。


小林も笑う。


「一回、便所の前で待っててやったんだ」


「何してるの」


「考えさせないように」


「子供じゃん」


「茂も怒ったよ。落ち着かないって」


「そりゃ怒るよ」


「だったら盤の前で考えりゃいい」


冬一も笑った。


小林がこちらを見る。


「榊さん、将棋やる?」


「ほとんど分からないです」


「じゃあ駄目だ」


「即答ですね」


「今から覚えるには時間かかる」


「まだ七十一でしょう」


佐伯が言う。


「俺じゃない。榊さんが」


「そっちですか」


また笑いが起きた。


休憩が終わる。


小林は空になったブラック缶を自分で袋へ入れた。


冬一が飲み終えた微糖も受け取ろうとしたが、


「こちらで捨てます」


と言うと、


「そう」


で終わった。


卓袱台を運び出す。


将棋盤も箱へ入る。


小林は手を出さなかった。


午後の作業が進む。


本棚。


テレビ台。


布団。


衣類。


信也が迷った物だけ確認する。


小林はときどき、


「それは茂のじゃない」


「それ、昔からあった」


「その工具、ほとんど使ってない」


と口を挟む。


ただし、


「だから残せ」


とは言わなかった。


押し入れの奥から古い紙袋が出た。


中に年賀状が束になっている。


信也が確認する。


「小林さんからのもあるかな」


「出してない」


「一枚も?」


「近所に年賀状出してどうする」


「そういうもの?」


「毎週会うのに正月まで紙で挨拶する必要ないだろ」


「でも正月は?」


「会う」


「会うんだ」


「一月最初の土曜」


小林が当然のように答えた。


夕方。


部屋の中には大きな家具がほとんどなくなった。


最後に残った将棋盤も運び出される。


信也がもう一度、小林へ聞いた。


「本当に何もいらない?」


小林は部屋を見回した。


釣り道具もない。


卓袱台もない。


テレビもない。


爪切りの入っていた棚もない。


「いらん」


「一個くらい」


「何で」


「いや、何となく」


小林は少し考えた。


「うちにあるからいい」


「何が?」


「俺の物が」


信也はそれ以上言わなかった。


冬一は最後の収納を確認した。


空。


窓を閉める。


佐伯が搬出物の確認をする。


信也が玄関の鍵を持つ。


小林は先に靴を履いた。


外へ出る。


信也も後を追う。


「小林さん」


「何」


「土曜、暇になりますね」


小林は玄関前で一度立ち止まった。


「そうだな」


それだけ言って、歩き出した。


振り返らなかった。


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