百七十六センチ
来週、この家は壊される。
三宅智子は、玄関でそう言った。
「土地ごと売ることになって。中を空にしたら、そのまま解体です」
榊冬一が靴を脱ぐ。
古い木造の一戸建てだった。
廊下は人が歩くたび少し鳴り、居間の柱には長年の日焼けの跡がある。台所には小さな食器棚と冷蔵庫。居間には低い卓袱台と、薄くなった座布団が二枚。
智子の母、文江が一人で暮らしていた家だった。
智子の隣には息子の悠太がいる。
二十八歳。
背が高く、玄関の鴨居をくぐる時だけ少し頭を下げた。
「悠太は来なくてもよかったんですけどね」
智子が言う。
「休みだったから」
悠太はそれだけ答えた。
佐伯が居間の奥を確認する。
「残される物は、昨日まとめた箱だけで大丈夫ですか」
「はい。あとは全部お願いします」
悠太が台所へ入った。
冷蔵庫の上に置かれた麦茶用の容器を見つける。
「あ、まだある」
透明なプラスチック製で、蓋だけ青い。
智子も見る。
「それ、ずっと使ってたね」
「麦茶めちゃくちゃ薄いやつ」
「おばあちゃん濃いの嫌いだったから」
「薄いっていうか、水だったよ」
智子が笑った。
夏に来ると、必ず冷蔵庫に麦茶があった。
文江がコップへ注ぐ。
悠太が一口飲む。
「薄い」
「ちゃんと麦茶」
「色ついた水じゃん」
「嫌なら飲まなくていい」
そう言われると全部飲む。
次に来ても同じ薄さだった。
「何回言っても濃くならなかったな」
「おばあちゃん、自分があれ好きだったんだから仕方ないでしょ」
「俺に出す分だけ濃くすればいいじゃん」
「そんな面倒なことしないよ」
悠太は容器を持ち上げた。
「これも捨てるの?」
「使う?」
「いらない」
「じゃあ捨てる」
冬一は処分品へ入れた。
台所の棚から、そうめんの器が出た。
ガラス製で、縁に青い花が入っている。
悠太がまた反応した。
「これもある」
「夏は毎回それだったね」
「毎回そうめんだった」
「文句言いながら食べてたでしょ」
「三日連続は文句言うよ」
夏休みに泊まる。
一日目の昼、そうめん。
二日目の昼、そうめん。
三日目に、
「今日の昼何?」
と聞く。
文江は、
「そうめん」
と答える。
悠太が、
「また?」
と言う。
すると文江は、
「昨日も食べたから今日も食べられる」
と返した。
「理屈になってないんだよ」
悠太が笑う。
「じゃあ何食べたいのって聞かれて、カレーって言ったら」
「そうめんにされた?」
「そうめんだった」
「聞いただけだからね、おばあちゃん」
「聞くなよ」
台所に笑い声が残った。
冬一は器を包みながら、欠けがないかだけ確認した。
すべて処分だった。
居間のテレビ台を空にすると、リモコンが出た。
透明な袋に入れられ、その上からテープで閉じられている。
佐伯が持ち上げる。
「これは徹底してますね」
悠太がすぐ笑った。
「おばあちゃん、何でも包むんですよ」
「汚れるからって」
智子が言う。
リモコン。
扇風機の操作部分。
固定電話の子機。
一時期はテレビ本体のリモコンまでさらに布袋へ入れようとした。
「押せなくなるじゃんって言ったら、出して使えばいいって」
「毎回?」
「毎回」
「それは面倒ですね」
冬一が言う。
「でしょう」
悠太は笑った。
「でも袋破れると、次行った時には新しくなってるんですよ」
冬一はリモコンを処分箱へ入れた。
午前中は、そんな物がいくつも出た。
古い鉛筆削り。
孫が小学生だった頃のプラスチックの皿。
短くなった色鉛筆。
九九の表まで、食器棚と壁の隙間から出てきた。
悠太が広げる。
「これ、俺のだ」
「何でまだあるの」
智子が笑う。
小学二年の夏。
悠太は七の段がどうしても覚えられなかった。
文江が、
「全部言えるまで晩ご飯なし」
と宣言した。
悠太は本気で嫌がった。
七一が七。
七二十四。
七三二十一。
途中で詰まる。
文江がもう一回と言う。
また詰まる。
「すごい厳しかったんですよ、最初だけ」
悠太が言う。
「最初だけ?」
佐伯が聞く。
「五分くらいしたら、おばあちゃんの方が腹減ったって」
智子が吹き出した。
結局、
「今日はもういい」
と言って一緒に夕食を食べた。
「次の日、続きは?」
冬一が聞く。
「忘れてました」
「おばあちゃんが?」
「二人とも」
九九表も処分になった。
昼前、居間の大きな食器棚を運び出すことになった。
冬一と佐伯が中を空にし、固定具を外す。
智子と悠太には少し離れてもらった。
二人で棚を手前へ引く。
床を擦らないよう片側を浮かせ、向きを変える。
棚が壁から離れた。
「榊」
佐伯が言った。
壁ではなく、柱の側面に何本も線があった。
冬一は手を止めた。
鉛筆で引かれた横線。
その横に、小さな文字。
『ゆうた 六さい』
少し上に、
『ゆうた 七さい』
さらに上。
八歳。
九歳。
十歳。
十一歳。
智子が近づく。
「ああ」
悠太も来た。
「まだ残ってたんだ」
一番下は智子の腰より少し上だった。
毎年一本ずつ上がっている。
十歳のところだけ、線が二本ある。
下の一本には小さく×印。
悠太が見て、すぐ笑った。
「これ覚えてる」
「何?」
「背伸びしたやつ」
柱に背をつける。
文江が頭の上へ鉛筆を当てる。
「踵つけて」
「つけてる」
「顎引いて」
「引いてる」
「動かない」
悠太は少しでも高くなりたくて、こっそり踵を浮かせた。
文江は何も言わず線を引く。
悠太が喜ぶ。
「伸びた!」
そこで文江が、
「もう一回」
と言った。
「何で」
「いいから」
二回目は踵を押さえられた。
正しい線は一センチほど下だった。
「×まで付ける必要ある?」
と悠太が文句を言う。
文江は、
「不正記録だから」
と答えた。
佐伯が笑う。
「厳しいですね」
「九九は五分で諦めるのに、身長だけは厳しいんですよ」
悠太も笑った。
線は十五歳まで続いていた。
最後に、
『ゆうた 十五さい 168』
とある。
その上には何もない。
智子が指先で触れそうになり、触れずに止めた。
「中学までだったんだ」
「そうだっけ」
「高校入ってから、あんまり来なくなったでしょ」
「来てたよ」
智子が息子を見る。
「ここに?」
「たまに」
「知らなかった」
悠太は柱を見たまま言う。
「部活の帰りとか」
「何しに?」
「ジュース飲みに」
「家で飲めばいいじゃない」
「ばあちゃんちの方が近かったし」
少しして、
「ばあちゃん一人だったし」
と言った。
智子が何か言う前に、悠太は台所を見た。
「冷蔵庫にいつもオレンジジュースあったんだよ」
「あなたのためじゃない?」
「いや、ばあちゃんも飲んでた」
「お母さん、オレンジジュースなんか買ってなかったよ」
「俺が来る時だけあったけど」
智子が息子を見る。
悠太も気づいたように少し黙った。
「……じゃあ俺のじゃん」
佐伯が笑った。
智子も笑った。
「そうなんじゃない」
「言えよ」
誰に言っているのか分からないまま、悠太も笑った。
柱の線は残した。
家そのものが解体されるので、壁や柱から切り取る予定はない。
冬一が確認する。
「記録として写真を撮りますか」
「そうですね」
智子がスマートフォンを出した。
六歳から十五歳までが入るよう、少し離れて撮る。
一枚。
もう一枚。
十歳の二本線も撮った。
「これでいいかな」
「俺はいらないよ」
悠太が言う。
「送らないよ。私が持っとく」
「じゃあ聞くなよ」
「聞いてない」
「今こっち見たじゃん」
「見ただけ」
智子が笑った。
昼休憩。
三人は庭側の縁側に座った。
悠太は自分で買ってきたパンを食べている。
智子が息子を見る。
「おばあちゃん、あなたのこと本当に好きだったよね」
悠太がパンを噛みながら、
「孫だからね」
と答える。
「私には『孫は娘よりかわいい』って普通に言ってたから」
「母さん負けてるじゃん」
「最初から勝負になってないよ」
文江は、娘には遠慮がなかった。
智子が電話すると、
『何』
と言う。
悠太が電話すると、
『どうしたの』
になる。
「同じ人と思えない」
と智子が言うと、
「娘と孫は違う」
と返された。
「何が違うの」
「責任」
「どういう意味?」
「孫は甘やかしても、あんたが何とかする」
「最悪」
悠太が笑った。
「合理的じゃん」
「どこが」
「責任の所在が明確」
「あなた今おばあちゃん側だからね」
「俺、甘やかされた側だし」
文江は宿題をやれとは言う。
やっているかは見ない。
野菜を食べろとは言う。
自分も残す。
九時には寝ろと言う。
九時半から一緒にテレビを見る。
「教育方針めちゃくちゃだな」
佐伯が言った。
「孫だからいいんですよ、たぶん」
智子が笑った。
午後、押し入れからアルバムが何冊か出た。
智子が確認する。
悠太は最初、
「写真は母さんに任せる」
と言っていたが、途中から隣へ座った。
文江が小学生の悠太のランドセルを背負っている写真。
「何これ」
「覚えてないの?」
「ない」
「重い重いって言うから、おばあちゃんがそんな重いわけないって」
実際に背負った。
そのまま写真を撮られた。
文江は妙に真面目な顔をしている。
「似合ってるじゃん」
「六十過ぎてるよ」
「いけるいける」
別の写真。
畳で寝ている小学生の悠太。
隣で文江が新聞を読んでいる。
「俺、寝すぎじゃない?」
「おばあちゃんち来ると昼寝してたよ」
「暇だったから」
「毎週行ってたくせに」
「暇だから行ってたんだよ」
智子が一枚ずつ抜く。
悠太は写真そのものを持ち帰るとは言わなかった。
夕方には家具の大半がなくなった。
居間も台所も広くなる。
柱だけが、家具に隠れることなく見えている。
智子がそこへ立った。
十五歳の線を見る。
「今、何センチ?」
悠太が靴紐を結びながら答える。
「百七十六」
「伸びたね」
「十三年前と比べればね」
智子が柱を見る。
「測る?」
悠太が顔を上げた。
「二十八だよ?」
「知ってる」
「いらないでしょ」
「じゃあいいけど」
悠太は笑って玄関へ向かった。
もう帰る準備を始める。
片方の靴を履く。
もう片方にも足を入れる。
そこで止まった。
少し考え、履きかけた靴を脱ぐ。
靴下のまま居間へ戻ってきた。
「母さん」
「何」
「鉛筆まだある?」
智子が息子を見る。
冬一は作業道具を置いていた箱を開けた。
昼に処分品から分けておいた、黄色い六角鉛筆が一本ある。
「これなら」
悠太へ渡そうとすると、
「母さんに」
と言った。
冬一は智子へ渡した。
悠太が柱の前に立つ。
背中をつける。
智子は鉛筆を持ったまま、少し困ったように笑った。
「どうやるんだっけ」
「知らないよ」
「あなた毎年やってたでしょ」
「俺は立つ側だから」
智子が息子の頭の上へ手を置いた。
少しして、
「顎引いて。動かない」
と言った。
悠太の顔から、笑いが一度消えた。
そのまま顎を引く。
踵を柱へつける。
智子が線を引いた。
十五歳の線より、八センチ上。
その横へ書く。
『ゆうた 二十八さい 176』
智子が文字を見る。
「私の字だ」
悠太が横から覗く。
「そりゃそうだろ」
「おばあちゃんの字じゃない」
「母さんが書いたんだから」
智子は笑った。
「写真撮る?」
「いいよ」
「いらない?」
「うん」
智子も撮らなかった。
黄色い鉛筆は処分品へ戻した。
悠太はもう一度玄関へ行き、靴を履いた。
その日の作業が終わる。
冬一は窓を閉め、最後に台所を確認した。
食器棚も、冷蔵庫も、薄い麦茶を作っていた容器もない。
居間へ戻る。
柱だけが残っている。
一番上には、百七十六センチの線が一本増えていた。




