留守番電話
「電話だけは、最後まで残してもらえますか」
森川奈緒が言った。
居間の隅に、小さな電話台がある。
その上に置かれた白い固定電話は少し黄ばんでいた。コードは壁際を這い、留守番電話の表示だけが赤く点いている。
榊冬一が確認する。
「回線はまだ使えますか」
「明日止まります。電話機は処分で大丈夫です」
「では、最後に外します」
「お願いします」
それで作業を始めた。
亡くなった母、澄子が一人で暮らしていた二DKだった。
大きな家具は少ない。箪笥、食器棚、低いテーブル。居間には座椅子とテレビがあり、電話台はその横に置かれている。
冬一がテレビ台の引き出しを開けると、古い番組表が何枚か出た。
奈緒が覗く。
「母、テレビ好きだったんですよ」
「よく見られてたんですか」
「見てました。それで電話してくるんです」
「テレビの話を?」
「何でもです」
昨日見たドラマ。
天気予報。
通販番組。
近所のスーパーで大根が安かったこと。
向かいの家の猫が窓にいたこと。
奈緒の住んでいる地域で雨が降っているらしいこと。
「『そっち雨だって』って電話してくるんですよ」
佐伯が食器棚から顔を出した。
「親切じゃないですか」
「私、窓ありますから」
「それはそうですね」
「しかも仕事中に掛けてくるんです」
電話に出る。
『雨降るって』
「うん」
『傘持ってる?』
「持ってる」
『じゃあいいけど』
切れる。
「本当にそれだけ?」
冬一が聞く。
「それだけです」
少ししてまた掛かってくる。
『そういえば、昨日のテレビ見た?』
「まだ仕事中なんだけど」
『じゃあ帰ってから見なさい』
「録画してない」
『何で』
「知らないよ」
「そんなのばっかりでした」
奈緒は笑った。
冬一は番組表を古紙へ分けた。
電話台の引き出しにはボールペンが三本と、小さなメモ帳。
何ページか使われている。
スーパーの電話番号。
病院の予約時間。
近所の人の名前。
奈緒の携帯番号。
冬一はメモ帳を閉じて奈緒へ見せた。
「こちらは?」
「いらないです」
処分箱へ入れる。
電話だけは、そのまま残した。
午前中、台所を片づけている時だった。
突然、電話が鳴った。
冬一と佐伯の手が止まった。
奈緒も台所から居間を見る。
もう一度鳴る。
三回目で奈緒が受話器を取った。
「はい、森川です」
少し聞く。
「あ、すみません。結構です」
また聞く。
「はい。本人はもういないので」
間。
「いえ、大丈夫です。失礼します」
受話器を置いた。
佐伯が、
「営業ですか」
と聞く。
「電気の何か」
「まだ掛かってくるんですね」
「母なら最後まで聞いたでしょうね」
「興味あったんですか」
「全然」
奈緒は笑った。
澄子は営業電話を途中で切れなかった。
相手も仕事だから、と言って、説明を最後まで聞く。
奈緒が遊びに来た時にも何度かあった。
横で聞いていると、
「お母さん、それ絶対いらないでしょ」
と言いたくなる。
十分近く話して、ようやく澄子が、
『今回は結構です』
と言う。
電話を切る。
奈緒が、
「最初の三十秒で言えるでしょ」
と言う。
「向こうも一生懸命説明してるのに悪いじゃない」
「買わない方が悪くない?」
「それとこれは別」
「別かなあ」
「別」
そして結局、一度も買わない。
佐伯が、
「営業する側からすると、ちょっと期待しますね」
と言った。
「でしょう」
奈緒が笑う。
「母は『ちゃんと断った』って満足してるんです」
食器棚を空にする。
湯呑み。
小皿。
茶碗。
醤油差し。
奈緒はほとんど迷わなかった。
写真が出れば見る。
書類なら必要なものだけ残す。
食器も家具も処分。
母の電話について話しても、電話機を残したいとは言わなかった。
昼前、押し入れから古いエコバッグが何枚も出た。
佐伯が広げる。
「多いですね」
「全部母です」
「使ってたんですか」
「使ってました。毎回違うの持っていくから、どこに何入れたか分からなくなるんです」
スーパーから帰ってくる。
財布がない。
「鞄の中じゃない?」
「ない」
「さっき使ったでしょ」
「使った」
二人で袋を全部ひっくり返す。
最後に冷蔵品の袋から出てくる。
「何で財布と豆腐が一緒なの」
と奈緒が言う。
澄子は、
「両方買ったから」
と答える。
「答えになってない」
「入ってたんだからいいでしょ」
そういうことも電話してきた。
『財布あった』
「何の話?」
『昨日なかったやつ』
「昨日聞いてない」
『じゃあいい』
「何で掛けたの」
『あったから』
奈緒はエコバッグをまとめながら笑った。
「一回、言ったんですよ」
「何をです?」
冬一が聞く。
「用がないなら掛けてこないでって」
その日は本当に忙しかった。
仕事中に二回続けて着信があり、二回目に出ると、
『駅前の薬局、閉まるって』
と言われた。
奈緒が使ったこともない店だった。
「ごめん、今忙しいから。用がないなら掛けないで」
少しきつい言い方になった。
澄子は、
『分かった』
と言って切った。
「その次の日です」
午前十時過ぎにまた電話が来た。
奈緒は仕事中だった。
画面に「母」と出ている。
昨日言ったばかりなのにと思いながら出る。
「何?」
『今日は用がある』
「何」
『昨日、用がないなら掛けるなって言われた』
「それ、用じゃないでしょ」
『昨日の話だから用でしょ』
「何の?」
『電話の』
奈緒は職場の廊下で笑ってしまった。
「もういいよ。何?」
『別にない』
「ないんじゃん」
『じゃあ切るね』
「はいはい」
『今日雨だって』
「知ってる」
そこで切れた。
佐伯が笑った。
「強いですね」
「何が何でも掛けるんですよ」
「嫌でした?」
冬一が聞いた。
奈緒は畳んだエコバッグを袋へ入れた。
「忙しい時は」
それだけだった。
昼休憩に入る。
奈緒は居間の床へ座り、買ってきたおにぎりを食べた。
電話台はまだ残っている。
冬一と佐伯も少し離れて昼を取った。
奈緒が電話を見る。
「これ、留守電の声まだ母ですよね」
立ち上がった。
電話機のボタンを探す。
「どれだろ」
いくつか見て、応答メッセージの確認ボタンを押した。
短い電子音。
それから女の声が流れた。
『森川です。ただいま留守にしております。発信音のあとに、お名前とご用件をお願いいたします』
奈緒が黙った。
機械から流れる澄子の声は、妙にきちんとしていた。
「こんな声だったっけ」
もう一度押す。
『森川です。ただいま留守にしております――』
最後まで聞く。
佐伯も何も言わなかった。
奈緒は停止ボタンを押した。
「よそ行きの声ですね」
「電話だからじゃないですか」
冬一が言う。
「私に掛ける時と全然違う」
少し笑う。
「私にはいきなり『大根安いよ』なのに」
電話機を見たまま、
「これも予定どおり処分でお願いします」
と言った。
冬一は頷いた。
午後、寝室を空にした。
箪笥から母の服が出る。
写真も何枚か見つかった。
奈緒は旅行先で撮った一枚と、孫と並んでいる一枚だけ抜いた。
一人で写っている澄子の写真を見て、
「これ、私が撮ったやつだ」
と言った。
近所の公園らしい。
澄子はカメラを見ず、何か横を向いて笑っている。
「何見てたんでしょうね」
佐伯が言った。
「覚えてないです」
奈緒はしばらく見たあと、その写真も残した。
それ以外は処分。
アルバムを閉じる。
作業は進んだ。
家具が減り、床が広くなる。
電話台の周りだけが最後まで手つかずだった。
夕方近く、佐伯が小さな棚を運び出した時、奈緒が言った。
「母、私が帰る時、毎回同じこと言うんですよ」
靴を履く。
玄関を開ける。
すると奥から、
「着いたら電話して」
と声が飛んでくる。
「もう四十過ぎてるんだけど」
と奈緒が言う。
「歳は関係ない」
「電車で三十分だよ」
「着いたら電話して」
「はいはい」
家を出る。
駅まで歩く。
電車に乗る。
自宅の駅で降りる。
途中で買い物をして帰る。
鍵を開ける。
荷物を置く。
上着を脱ぐ。
テレビをつける。
そこで電話が鳴る。
『着いた?』
「着いた」
『何で電話しないの』
「今掛けようと思ってた」
『嘘』
「ほんと」
『絶対忘れてたでしょ』
「忘れてない」
『じゃあ何で掛けないの』
「今帰ったばっかりだから」
『何分前?』
「知らないよ」
『嘘つくと長くなるよ』
「何が」
『電話が』
「もう長いよ」
それが何度もあった。
「ほとんど母から掛けてきてました」
奈緒が言った。
「こっちから掛ける前に」
佐伯が、
「待てなかったんですね」
と言う。
「十分も待ってないですから」
「早いですね」
「早いんですよ」
奈緒は笑った。
「一回、駅から掛けたこともあります。『今着いた』って」
「まだ着いてない」
冬一が言う。
「そう。母にも言われました」
『家じゃないでしょ』
「駅まで着いた」
『家に着いてない』
「あと五分じゃん」
『じゃあ五分後』
「何が違うの」
『着いたらって言ったでしょ』
結局、五分後にもう一度掛けた。
「面倒でしょう」
奈緒が言う。
誰も答える前に、
「面倒なんですよ」
と自分で笑った。
夕方、冷蔵庫を運び出した。
食器棚もなくなった。
寝室は空。
居間には電話台と固定電話だけが残った。
奈緒が持ち帰る写真と書類は、小さな紙袋一つに収まっている。
佐伯が部屋を一周する。
「あと、電話ですね」
奈緒が頷く。
冬一は電話台の前へ行った。
「外して大丈夫ですか」
「……ちょっと待ってもらえます?」
「はい」
奈緒は鞄からスマートフォンを取り出した。
画面を開き、しばらく操作する。
「番号、まだ入ってる」
独り言のように言った。
それから玄関へ向かう。
靴を履く。
「少し外にいます」
冬一は電話から手を離した。
奈緒が玄関を出る。
扉は少しだけ開いたままになった。
数秒後。
固定電話が鳴った。
空になった居間に音が響く。
一回。
二回。
三回。
四回。
留守番電話が動いた。
『森川です。ただいま留守にしております。発信音のあとに、お名前とご用件をお願いいたします』
昼に聞いた声だった。
発信音が鳴る。
開いた玄関の向こうからは何も聞こえない。
けれど、留守番電話のスピーカーから、奈緒の声が流れた。
『今、出たよ』
少し間が空く。
『……着いたら電話するね』
通話が切れた。
留守番電話の表示に、新しい録音が一件増えた。
奈緒が戻ってくる。
スマートフォンを鞄へしまった。
録音の表示を見たが、再生はしなかった。
冬一が聞く。
「外します」
奈緒は頷いた。
「お願いします」
冬一は壁から電話線を抜いた。
続いて電源コードを外す。
赤い表示が消えた。




