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生活の跡  作者: 鷺沼鳩屋
いない人の場所
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6/11

留守番電話

「電話だけは、最後まで残してもらえますか」


森川奈緒が言った。


居間の隅に、小さな電話台がある。


その上に置かれた白い固定電話は少し黄ばんでいた。コードは壁際を這い、留守番電話の表示だけが赤く点いている。


榊冬一が確認する。


「回線はまだ使えますか」


「明日止まります。電話機は処分で大丈夫です」


「では、最後に外します」


「お願いします」


それで作業を始めた。


亡くなった母、澄子が一人で暮らしていた二DKだった。


大きな家具は少ない。箪笥、食器棚、低いテーブル。居間には座椅子とテレビがあり、電話台はその横に置かれている。


冬一がテレビ台の引き出しを開けると、古い番組表が何枚か出た。


奈緒が覗く。


「母、テレビ好きだったんですよ」


「よく見られてたんですか」


「見てました。それで電話してくるんです」


「テレビの話を?」


「何でもです」


昨日見たドラマ。


天気予報。


通販番組。


近所のスーパーで大根が安かったこと。


向かいの家の猫が窓にいたこと。


奈緒の住んでいる地域で雨が降っているらしいこと。


「『そっち雨だって』って電話してくるんですよ」


佐伯が食器棚から顔を出した。


「親切じゃないですか」


「私、窓ありますから」


「それはそうですね」


「しかも仕事中に掛けてくるんです」


電話に出る。


『雨降るって』


「うん」


『傘持ってる?』


「持ってる」


『じゃあいいけど』


切れる。


「本当にそれだけ?」


冬一が聞く。


「それだけです」


少ししてまた掛かってくる。


『そういえば、昨日のテレビ見た?』


「まだ仕事中なんだけど」


『じゃあ帰ってから見なさい』


「録画してない」


『何で』


「知らないよ」


「そんなのばっかりでした」


奈緒は笑った。


冬一は番組表を古紙へ分けた。


電話台の引き出しにはボールペンが三本と、小さなメモ帳。


何ページか使われている。


スーパーの電話番号。


病院の予約時間。


近所の人の名前。


奈緒の携帯番号。


冬一はメモ帳を閉じて奈緒へ見せた。


「こちらは?」


「いらないです」


処分箱へ入れる。


電話だけは、そのまま残した。


午前中、台所を片づけている時だった。


突然、電話が鳴った。


冬一と佐伯の手が止まった。


奈緒も台所から居間を見る。


もう一度鳴る。


三回目で奈緒が受話器を取った。


「はい、森川です」


少し聞く。


「あ、すみません。結構です」


また聞く。


「はい。本人はもういないので」


間。


「いえ、大丈夫です。失礼します」


受話器を置いた。


佐伯が、


「営業ですか」


と聞く。


「電気の何か」


「まだ掛かってくるんですね」


「母なら最後まで聞いたでしょうね」


「興味あったんですか」


「全然」


奈緒は笑った。


澄子は営業電話を途中で切れなかった。


相手も仕事だから、と言って、説明を最後まで聞く。


奈緒が遊びに来た時にも何度かあった。


横で聞いていると、


「お母さん、それ絶対いらないでしょ」


と言いたくなる。


十分近く話して、ようやく澄子が、


『今回は結構です』


と言う。


電話を切る。


奈緒が、


「最初の三十秒で言えるでしょ」


と言う。


「向こうも一生懸命説明してるのに悪いじゃない」


「買わない方が悪くない?」


「それとこれは別」


「別かなあ」


「別」


そして結局、一度も買わない。


佐伯が、


「営業する側からすると、ちょっと期待しますね」


と言った。


「でしょう」


奈緒が笑う。


「母は『ちゃんと断った』って満足してるんです」


食器棚を空にする。


湯呑み。


小皿。


茶碗。


醤油差し。


奈緒はほとんど迷わなかった。


写真が出れば見る。


書類なら必要なものだけ残す。


食器も家具も処分。


母の電話について話しても、電話機を残したいとは言わなかった。


昼前、押し入れから古いエコバッグが何枚も出た。


佐伯が広げる。


「多いですね」


「全部母です」


「使ってたんですか」


「使ってました。毎回違うの持っていくから、どこに何入れたか分からなくなるんです」


スーパーから帰ってくる。


財布がない。


「鞄の中じゃない?」


「ない」


「さっき使ったでしょ」


「使った」


二人で袋を全部ひっくり返す。


最後に冷蔵品の袋から出てくる。


「何で財布と豆腐が一緒なの」


と奈緒が言う。


澄子は、


「両方買ったから」


と答える。


「答えになってない」


「入ってたんだからいいでしょ」


そういうことも電話してきた。


『財布あった』


「何の話?」


『昨日なかったやつ』


「昨日聞いてない」


『じゃあいい』


「何で掛けたの」


『あったから』


奈緒はエコバッグをまとめながら笑った。


「一回、言ったんですよ」


「何をです?」


冬一が聞く。


「用がないなら掛けてこないでって」


その日は本当に忙しかった。


仕事中に二回続けて着信があり、二回目に出ると、


『駅前の薬局、閉まるって』


と言われた。


奈緒が使ったこともない店だった。


「ごめん、今忙しいから。用がないなら掛けないで」


少しきつい言い方になった。


澄子は、


『分かった』


と言って切った。


「その次の日です」


午前十時過ぎにまた電話が来た。


奈緒は仕事中だった。


画面に「母」と出ている。


昨日言ったばかりなのにと思いながら出る。


「何?」


『今日は用がある』


「何」


『昨日、用がないなら掛けるなって言われた』


「それ、用じゃないでしょ」


『昨日の話だから用でしょ』


「何の?」


『電話の』


奈緒は職場の廊下で笑ってしまった。


「もういいよ。何?」


『別にない』


「ないんじゃん」


『じゃあ切るね』


「はいはい」


『今日雨だって』


「知ってる」


そこで切れた。


佐伯が笑った。


「強いですね」


「何が何でも掛けるんですよ」


「嫌でした?」


冬一が聞いた。


奈緒は畳んだエコバッグを袋へ入れた。


「忙しい時は」


それだけだった。


昼休憩に入る。


奈緒は居間の床へ座り、買ってきたおにぎりを食べた。


電話台はまだ残っている。


冬一と佐伯も少し離れて昼を取った。


奈緒が電話を見る。


「これ、留守電の声まだ母ですよね」


立ち上がった。


電話機のボタンを探す。


「どれだろ」


いくつか見て、応答メッセージの確認ボタンを押した。


短い電子音。


それから女の声が流れた。


『森川です。ただいま留守にしております。発信音のあとに、お名前とご用件をお願いいたします』


奈緒が黙った。


機械から流れる澄子の声は、妙にきちんとしていた。


「こんな声だったっけ」


もう一度押す。


『森川です。ただいま留守にしております――』


最後まで聞く。


佐伯も何も言わなかった。


奈緒は停止ボタンを押した。


「よそ行きの声ですね」


「電話だからじゃないですか」


冬一が言う。


「私に掛ける時と全然違う」


少し笑う。


「私にはいきなり『大根安いよ』なのに」


電話機を見たまま、


「これも予定どおり処分でお願いします」


と言った。


冬一は頷いた。


午後、寝室を空にした。


箪笥から母の服が出る。


写真も何枚か見つかった。


奈緒は旅行先で撮った一枚と、孫と並んでいる一枚だけ抜いた。


一人で写っている澄子の写真を見て、


「これ、私が撮ったやつだ」


と言った。


近所の公園らしい。


澄子はカメラを見ず、何か横を向いて笑っている。


「何見てたんでしょうね」


佐伯が言った。


「覚えてないです」


奈緒はしばらく見たあと、その写真も残した。


それ以外は処分。


アルバムを閉じる。


作業は進んだ。


家具が減り、床が広くなる。


電話台の周りだけが最後まで手つかずだった。


夕方近く、佐伯が小さな棚を運び出した時、奈緒が言った。


「母、私が帰る時、毎回同じこと言うんですよ」


靴を履く。


玄関を開ける。


すると奥から、


「着いたら電話して」


と声が飛んでくる。


「もう四十過ぎてるんだけど」


と奈緒が言う。


「歳は関係ない」


「電車で三十分だよ」


「着いたら電話して」


「はいはい」


家を出る。


駅まで歩く。


電車に乗る。


自宅の駅で降りる。


途中で買い物をして帰る。


鍵を開ける。


荷物を置く。


上着を脱ぐ。


テレビをつける。


そこで電話が鳴る。


『着いた?』


「着いた」


『何で電話しないの』


「今掛けようと思ってた」


『嘘』


「ほんと」


『絶対忘れてたでしょ』


「忘れてない」


『じゃあ何で掛けないの』


「今帰ったばっかりだから」


『何分前?』


「知らないよ」


『嘘つくと長くなるよ』


「何が」


『電話が』


「もう長いよ」


それが何度もあった。


「ほとんど母から掛けてきてました」


奈緒が言った。


「こっちから掛ける前に」


佐伯が、


「待てなかったんですね」


と言う。


「十分も待ってないですから」


「早いですね」


「早いんですよ」


奈緒は笑った。


「一回、駅から掛けたこともあります。『今着いた』って」


「まだ着いてない」


冬一が言う。


「そう。母にも言われました」


『家じゃないでしょ』


「駅まで着いた」


『家に着いてない』


「あと五分じゃん」


『じゃあ五分後』


「何が違うの」


『着いたらって言ったでしょ』


結局、五分後にもう一度掛けた。


「面倒でしょう」


奈緒が言う。


誰も答える前に、


「面倒なんですよ」


と自分で笑った。


夕方、冷蔵庫を運び出した。


食器棚もなくなった。


寝室は空。


居間には電話台と固定電話だけが残った。


奈緒が持ち帰る写真と書類は、小さな紙袋一つに収まっている。


佐伯が部屋を一周する。


「あと、電話ですね」


奈緒が頷く。


冬一は電話台の前へ行った。


「外して大丈夫ですか」


「……ちょっと待ってもらえます?」


「はい」


奈緒は鞄からスマートフォンを取り出した。


画面を開き、しばらく操作する。


「番号、まだ入ってる」


独り言のように言った。


それから玄関へ向かう。


靴を履く。


「少し外にいます」


冬一は電話から手を離した。


奈緒が玄関を出る。


扉は少しだけ開いたままになった。


数秒後。


固定電話が鳴った。


空になった居間に音が響く。


一回。


二回。


三回。


四回。


留守番電話が動いた。


『森川です。ただいま留守にしております。発信音のあとに、お名前とご用件をお願いいたします』


昼に聞いた声だった。


発信音が鳴る。


開いた玄関の向こうからは何も聞こえない。


けれど、留守番電話のスピーカーから、奈緒の声が流れた。


『今、出たよ』


少し間が空く。


『……着いたら電話するね』


通話が切れた。


留守番電話の表示に、新しい録音が一件増えた。


奈緒が戻ってくる。


スマートフォンを鞄へしまった。


録音の表示を見たが、再生はしなかった。


冬一が聞く。


「外します」


奈緒は頷いた。


「お願いします」


冬一は壁から電話線を抜いた。


続いて電源コードを外す。


赤い表示が消えた。

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