コップひとつ
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安西良子の部屋は、遺品整理の現場にしては物が少なかった。
食器棚の皿は一人分より少し多い程度。押し入れの布団も二組。棚の上に飾り物はなく、使わなくなった家電や空き箱もほとんど残っていない。
「母、何でも捨てる人だったので」
安西由香が言った。
佐伯が食器棚の上段を見ながら、
「助かりますね」
と言う。
「仕事としては?」
「かなり」
「娘としては腹立ちますよ」
由香は笑った。
榊冬一は台所の引き出しを開けた。
輪ゴムが数本。缶切り。菜箸。予備のスポンジが一つ。
物の位置まできれいに決まっている。
「私の家に来ると、ずっと捨てろ捨てろって言うんですよ」
「物が多いんですか」
冬一が聞く。
「普通です」
少し離れたところから佐伯が、
「その言い方は多い人のやつですね」
と言った。
「普通よりちょっとです」
「母がうちに来ると、最初に収納を見るんです」
「掃除しに?」
「違います。文句言うために」
由香の家の廊下には、通販の箱や紙袋がしばらく置かれることがある。
良子はそれを見るたび、
「これ、いつからいるの」
と聞いた。
「先週」
「前に来た時もあった」
「じゃあ先月」
「家賃取ったら」
「箱から?」
「場所使ってるから」
「母こそ人の家で何してるの」
そう言い合いながら、良子は勝手には捨てなかった。
最後には必ず、
「捨てる?」
と聞く。
由香が、
「まだ」
と答えれば、
「じゃあ次来た時もいたら、また聞く」
と言うだけだった。
「三回来ても同じ箱があると、すごい顔するんですよ」
「捨てはしないんですね」
冬一が言う。
「そこだけは。私の物だからって」
由香は少し笑った。
「お菓子の缶とか、紙袋とか。きれいな箱って捨てにくくないですか」
「分かります」
佐伯が言う。
「ほら」
「俺も物多い方ですけど」
「味方なら最後まで味方してくださいよ」
三人で笑った。
母の良子は違った。
新しい物を買うと、古い物を一つ処分する。
服も食器も同じだった。
由香が誕生日にストールを贈った時も、良子は喜んだあとで古い一枚を出してきた。
「何で今捨てるの」
と由香が聞く。
「増えるから」
「一枚くらい増えてもいいじゃない」
「一枚ずつ言ってたら増えるの」
そういう人だった。
一度、由香が箱入りの焼き菓子を持ってきた時もそうだった。
良子は中身を出したあと、空箱を由香へ差し出した。
「持って帰って」
「何で。プレゼントなのに箱返される人いる?」
「箱は食べないでしょ」
「きれいじゃん」
「じゃあ、あんた好きでしょ」
結局、由香が持って帰った。
「その箱、今も家にあります」
「使ってます?」
佐伯が聞く。
「聞かないでください」
冬一は引き出しの中を確認し、使いかけの文房具や細かな日用品を分けた。
由香の判断も早い。
「それはいりません」
「そっちも」
「写真だけ見せてください」
母娘で物への考え方は反対だったが、由香は母の部屋の物を無理に残そうとはしなかった。
食器棚の下段から、白いマグカップが出た。
模様も文字もない。
取っ手の付け根に細かな傷があり、底には薄く茶色い染みが残っている。
「あ、それ置いといてもらえます?」
由香が言った。
冬一は手を止めた。
「残しますか」
「いえ。あとで水飲むかもしれないので」
「分かりました」
流し台の端へ置いた。
由香が近づいてきて、カップを見る。
「これ、私が来るといつも使ってたやつなんですよ」
「専用ですか」
「勝手に専用にしてました」
実家へ来ると、由香は冷蔵庫を開ける。
母に、
「何か飲む」
と聞く。
良子は、
「自分で入れて」
と答える。
「客に入れさせるの?」
「客は勝手に冷蔵庫開けない」
そこで毎回終わる。
由香は白いカップを出し、麦茶か水を入れて飲む。
「母の家なのに、私が来ると何もしてくれないんですよ」
「してくれないんですか」
佐伯が聞く。
「ご飯は出ます」
「十分じゃないですか」
「そこは出ます」
由香は笑った。
カップは流し台に残したまま、作業へ戻った。
冬一は他の食器を包む。
湯呑みが二つ。小皿が三枚。茶碗が一つ。
良子の暮らしは、必要な数が目で分かるくらいだった。
その一方で、裁縫箱だけは少し物が多かった。
糸。
針。
ボタン。
小さく切った布。
由香が中を見る。
「これは取ってたんだ」
「裁縫される方でした?」
「直すくらいです」
由香は赤い糸巻きを手に取った。
子供の頃、靴下に穴が空くと、良子は一度だけ縫った。
同じ場所がまた破れると捨てる。
「まだ履けるって言っても駄目なんですよ」
「一回は直すんですね」
冬一が言う。
「そう。一回だけ」
「基準が厳しい」
「母の中では明確なんです。私は分かんないけど」
高校生の頃、由香が気に入っていた靴下を二回目の穴で捨てられ、大喧嘩したことがある。
「勝手に捨てるなって言ったら、『捨てなかったら、あんた一生それ履くでしょ』って」
「履きました?」
佐伯が聞く。
「たぶん履きます」
「じゃあお母様が正しい」
「何で二人とも母側なんですか」
冬一も笑った。
裁縫箱は由香が持ち帰ることになった。
「使うんですか」
佐伯が聞く。
「使わないと思います」
「じゃあ」
「これはいいんです」
由香は箱を閉じた。
佐伯は何も言わなかった。
昼前、冷蔵庫の中を空にした。
食材は少なかった。
卵が二つ。
味噌。
半分使った人参。
小さな容器に煮物。
賞味期限の近い牛乳。
「ほんとに買いだめしない人ですね」
冬一が言う。
「冷蔵庫に入らないだけです」
「小さいですもんね」
「大きいの買おうって何回言っても、一人でこんなのいらないって」
由香は冷蔵庫の扉を開いた。
内側のポケットもほとんど空だった。
「私が来ると、飲み物ないって文句言うんですよ」
「由香さんが?」
「私が」
「自分で持ってくればいいでしょう」
佐伯が言う。
「母にも同じこと言われました」
良子は娘が来る日に合わせて買い物をするような人ではなかった。
由香が来てから、
「何か食べる?」
と聞く。
「何ある?」
「あるもので」
「何」
「見れば分かる」
そんな会話をして、結局二人で冷蔵庫を覗く。
卵しかなければ卵を焼く。
昨日の煮物があれば温める。
足りなければ近所へ買いに行く。
「もうちょっと歓迎されてもよくないですかね」
由香が笑う。
「よく来られてたんですね」
冬一が言った。
「月に二、三回くらいです」
「十分ですね」
「近いので。用がなくても寄ってました」
冷蔵庫の電源を抜く。
低い機械音が消えた。
昼休憩。
由香はコンビニのパンを食べ、途中で喉が渇いたと言って台所へ行った。
朝残した白いカップを使う。
蛇口から水を入れ、その場で半分ほど飲んだ。
「まだこれ使えるんですよね」
カップを見ながら言う。
「使えますね」
冬一が答える。
「母だったら、傷あるからそろそろ捨てるって言いそう」
「じゃあ何で残ってたんでしょうね」
佐伯が言った。
由香は少し考え、
「使ってたからじゃないですか」
と答えた。
それ以上は誰も言わなかった。
残りの水を飲む。
由香はカップを流し台へ置いた。
佐伯が見て、
「洗わないんですか」
と聞いた。
「あとで」
由香は即答した。
少しして、自分で笑った。
「これ、母に一番怒られてたやつ」
実家へ来るたび同じだった。
白いカップで飲む。
流しへ置く。
良子が、
「飲んだら洗って」
と言う。
由香は、
「あとで」
と答える。
「そのあと、いつ来るの」
「帰るまでには」
「帰る時には忘れてる」
「覚えてるよ」
そして、大抵忘れる。
帰り際、玄関で靴を履いていると、台所から水の音がする。
「あ、洗うの忘れた」
と言うと、
「もう洗った」
と返ってくる。
「洗うって言ったのに」
「いつ」
「あとで」
「そのあとが来ないから洗ったの」
毎回似たようなやり取りだった。
「母が洗っちゃうから、私が洗わなくなるんですよ」
由香が言う。
佐伯が、
「それ、お母様に言いました?」
と聞く。
「言いました」
「何て?」
「『人のせいにしない』」
冬一が笑った。
「強いですね」
「強いんです」
由香も笑った。
台所の下段から保存容器が二つ出た。
由香が蓋を見て、
「これ、やっと二個になってる」
と言う。
「前はもっと?」
「母、料理を持たせるたびこれで渡すんです。で、返さないと電話してくる」
「何個貸してると思ってるの」と良子は数まで覚えていた。
由香が二つ返すと、
「あと一個」
と言われる。
「そんなの覚えてない」
「私は覚えてる」
「じゃあ母の勝ち」
結局、由香の家の冷蔵庫から見つかる。
「人の家のタッパーまで管理してました」
由香は笑った。
二つとも処分になった。
午後、家具の搬出を始めた。
食器棚。
小さなテーブル。
椅子二脚。
良子の寝室からは箪笥とベッド。
由香は必要な写真を数枚選び、それ以外は処分に回した。
一枚、台所で良子が包丁を持っている写真があった。
撮影したのは由香らしい。
「何でこんなの撮ったんだろ」
良子はカメラを見ていない。
まな板の上の何かを切っている。
由香は少し眺めて、
「これはいらないです」
とアルバムへ戻した。
家族旅行の写真を二枚だけ抜く。
アルバムも処分になった。
寝室の引き出しから、由香が子供の頃に書いたらしい年賀状が一枚出た。
「あら」
『おかあさんへ』と大きな字で書いてある。
由香が裏返す。
短い挨拶と絵。
「これ何歳だろ」
「残しますか」
冬一が聞く。
由香は少し迷い、
「写真撮っていいですか」
「どうぞ」
スマートフォンで一枚撮る。
年賀状そのものは処分に戻した。
「物増やしたら母に怒られるので」
「写真は増えますよ」
佐伯が言う。
「そこは数えないことにします」
夕方が近づく頃、台所から物がなくなった。
食器棚を運び出す。
冷蔵庫も出す。
流しの横にあった水切り籠も処分だった。
佐伯が持ち上げると、由香が、
「それもお願いします」
と言った。
水切り籠のあった場所には、薄い水垢の跡だけが残った。
冬一は最後に流し台を確認する。
朝から置かれていた白いカップが、まだ中にあった。
「安西さん」
由香が来る。
カップを見る。
「あ」
佐伯が廊下から、
「『あとで』来ました?」
と聞いた。
由香が笑った。
「来ました」
袖を少しまくる。
蛇口を開いた。
自分でカップを洗う。
スポンジに洗剤をつけ、内側を回す。取っ手の付け根も洗い、底の泡を流す。
最後に水を切る。
由香はカップを持ったまま、右手を伸ばした。
水切り籠があった場所へ。
手が途中で止まった。
何もない。
白い流し台。
薄く残った四角い跡だけ。
由香はカップを持ったまま、そこを見た。
蛇口から一滴、水が落ちた。
少しして、カップを流し台の端へ伏せた。
飲み口を下にして。
「母、こう置くんですよ」
誰に言うでもなく言った。
しばらくして、もう一度持ち上げる。
冬一へ差し出した。
「これもお願いします」
「はい」
冬一は受け取った。
由香は手についた水をハンカチで拭いた。
「やっと自分で洗いました」
少し笑った。
佐伯が、
「次は怒られませんね」
と言う。
由香は玄関の方を見た。
「今回は、たぶん褒められます」
冬一は白いカップを処分品の箱へ入れた。
最終確認を終え、由香は裁縫箱と写真の入った封筒だけを持って家を出た。
玄関の鍵を閉める。
鞄の中には、さっき撮った年賀状の写真が入っている。
裁縫箱は手提げ袋に収まっていた。
その夜、冬一は自宅の机で郵便物を整理していた。
期限の切れた案内。
古い領収書。
もう必要のない書類。
まとめて古紙へ回す。
引き出しの奥から、折り畳んだ原稿用紙が出てきた。
表に、
『ぼくのおとうさん』
と書いてある。
冬一は開かなかった。
ほかの紙と一緒に机の端へ置く。
そのまま何枚か整理した。
古い領収書を重ねる。
封筒を捨てる。
机の端の紙をまとめて持ち上げた。
原稿用紙も一緒だった。
少しして、それだけ抜いた。
引き出しへ戻す。
閉めた。




