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生活の跡  作者: 鷺沼鳩屋
残したもの、残ったもの
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5/11

コップひとつ

気に入ってもらえたならブックマーク・評価をしていただけると嬉しいです。

良ければ私の他の作品も読んでみてください。

安西良子の部屋は、遺品整理の現場にしては物が少なかった。


食器棚の皿は一人分より少し多い程度。押し入れの布団も二組。棚の上に飾り物はなく、使わなくなった家電や空き箱もほとんど残っていない。


「母、何でも捨てる人だったので」


安西由香が言った。


佐伯が食器棚の上段を見ながら、


「助かりますね」


と言う。


「仕事としては?」


「かなり」


「娘としては腹立ちますよ」


由香は笑った。


榊冬一は台所の引き出しを開けた。


輪ゴムが数本。缶切り。菜箸。予備のスポンジが一つ。


物の位置まできれいに決まっている。


「私の家に来ると、ずっと捨てろ捨てろって言うんですよ」


「物が多いんですか」


冬一が聞く。


「普通です」


少し離れたところから佐伯が、


「その言い方は多い人のやつですね」


と言った。


「普通よりちょっとです」


「母がうちに来ると、最初に収納を見るんです」


「掃除しに?」


「違います。文句言うために」


由香の家の廊下には、通販の箱や紙袋がしばらく置かれることがある。


良子はそれを見るたび、


「これ、いつからいるの」


と聞いた。


「先週」


「前に来た時もあった」


「じゃあ先月」


「家賃取ったら」


「箱から?」


「場所使ってるから」


「母こそ人の家で何してるの」


そう言い合いながら、良子は勝手には捨てなかった。


最後には必ず、


「捨てる?」


と聞く。


由香が、


「まだ」


と答えれば、


「じゃあ次来た時もいたら、また聞く」


と言うだけだった。


「三回来ても同じ箱があると、すごい顔するんですよ」


「捨てはしないんですね」


冬一が言う。


「そこだけは。私の物だからって」


由香は少し笑った。


「お菓子の缶とか、紙袋とか。きれいな箱って捨てにくくないですか」


「分かります」


佐伯が言う。


「ほら」


「俺も物多い方ですけど」


「味方なら最後まで味方してくださいよ」


三人で笑った。


母の良子は違った。


新しい物を買うと、古い物を一つ処分する。


服も食器も同じだった。


由香が誕生日にストールを贈った時も、良子は喜んだあとで古い一枚を出してきた。


「何で今捨てるの」


と由香が聞く。


「増えるから」


「一枚くらい増えてもいいじゃない」


「一枚ずつ言ってたら増えるの」


そういう人だった。


一度、由香が箱入りの焼き菓子を持ってきた時もそうだった。


良子は中身を出したあと、空箱を由香へ差し出した。


「持って帰って」


「何で。プレゼントなのに箱返される人いる?」


「箱は食べないでしょ」


「きれいじゃん」


「じゃあ、あんた好きでしょ」


結局、由香が持って帰った。


「その箱、今も家にあります」


「使ってます?」


佐伯が聞く。


「聞かないでください」


冬一は引き出しの中を確認し、使いかけの文房具や細かな日用品を分けた。


由香の判断も早い。


「それはいりません」

「そっちも」

「写真だけ見せてください」


母娘で物への考え方は反対だったが、由香は母の部屋の物を無理に残そうとはしなかった。


食器棚の下段から、白いマグカップが出た。


模様も文字もない。


取っ手の付け根に細かな傷があり、底には薄く茶色い染みが残っている。


「あ、それ置いといてもらえます?」


由香が言った。


冬一は手を止めた。


「残しますか」


「いえ。あとで水飲むかもしれないので」


「分かりました」


流し台の端へ置いた。


由香が近づいてきて、カップを見る。


「これ、私が来るといつも使ってたやつなんですよ」


「専用ですか」


「勝手に専用にしてました」


実家へ来ると、由香は冷蔵庫を開ける。


母に、


「何か飲む」


と聞く。


良子は、


「自分で入れて」


と答える。


「客に入れさせるの?」


「客は勝手に冷蔵庫開けない」


そこで毎回終わる。


由香は白いカップを出し、麦茶か水を入れて飲む。


「母の家なのに、私が来ると何もしてくれないんですよ」


「してくれないんですか」


佐伯が聞く。


「ご飯は出ます」


「十分じゃないですか」


「そこは出ます」


由香は笑った。


カップは流し台に残したまま、作業へ戻った。


冬一は他の食器を包む。


湯呑みが二つ。小皿が三枚。茶碗が一つ。


良子の暮らしは、必要な数が目で分かるくらいだった。


その一方で、裁縫箱だけは少し物が多かった。


糸。


針。


ボタン。


小さく切った布。


由香が中を見る。


「これは取ってたんだ」


「裁縫される方でした?」


「直すくらいです」


由香は赤い糸巻きを手に取った。


子供の頃、靴下に穴が空くと、良子は一度だけ縫った。


同じ場所がまた破れると捨てる。


「まだ履けるって言っても駄目なんですよ」


「一回は直すんですね」


冬一が言う。


「そう。一回だけ」


「基準が厳しい」


「母の中では明確なんです。私は分かんないけど」


高校生の頃、由香が気に入っていた靴下を二回目の穴で捨てられ、大喧嘩したことがある。


「勝手に捨てるなって言ったら、『捨てなかったら、あんた一生それ履くでしょ』って」


「履きました?」


佐伯が聞く。


「たぶん履きます」


「じゃあお母様が正しい」


「何で二人とも母側なんですか」


冬一も笑った。


裁縫箱は由香が持ち帰ることになった。


「使うんですか」


佐伯が聞く。


「使わないと思います」


「じゃあ」


「これはいいんです」


由香は箱を閉じた。


佐伯は何も言わなかった。


昼前、冷蔵庫の中を空にした。


食材は少なかった。


卵が二つ。


味噌。


半分使った人参。


小さな容器に煮物。


賞味期限の近い牛乳。


「ほんとに買いだめしない人ですね」


冬一が言う。


「冷蔵庫に入らないだけです」


「小さいですもんね」


「大きいの買おうって何回言っても、一人でこんなのいらないって」


由香は冷蔵庫の扉を開いた。


内側のポケットもほとんど空だった。


「私が来ると、飲み物ないって文句言うんですよ」


「由香さんが?」


「私が」


「自分で持ってくればいいでしょう」


佐伯が言う。


「母にも同じこと言われました」


良子は娘が来る日に合わせて買い物をするような人ではなかった。


由香が来てから、


「何か食べる?」


と聞く。


「何ある?」


「あるもので」


「何」


「見れば分かる」


そんな会話をして、結局二人で冷蔵庫を覗く。


卵しかなければ卵を焼く。


昨日の煮物があれば温める。


足りなければ近所へ買いに行く。


「もうちょっと歓迎されてもよくないですかね」


由香が笑う。


「よく来られてたんですね」


冬一が言った。


「月に二、三回くらいです」


「十分ですね」


「近いので。用がなくても寄ってました」


冷蔵庫の電源を抜く。


低い機械音が消えた。


昼休憩。


由香はコンビニのパンを食べ、途中で喉が渇いたと言って台所へ行った。


朝残した白いカップを使う。


蛇口から水を入れ、その場で半分ほど飲んだ。


「まだこれ使えるんですよね」


カップを見ながら言う。


「使えますね」


冬一が答える。


「母だったら、傷あるからそろそろ捨てるって言いそう」


「じゃあ何で残ってたんでしょうね」


佐伯が言った。


由香は少し考え、


「使ってたからじゃないですか」


と答えた。


それ以上は誰も言わなかった。


残りの水を飲む。


由香はカップを流し台へ置いた。


佐伯が見て、


「洗わないんですか」


と聞いた。


「あとで」


由香は即答した。


少しして、自分で笑った。


「これ、母に一番怒られてたやつ」


実家へ来るたび同じだった。


白いカップで飲む。


流しへ置く。


良子が、


「飲んだら洗って」


と言う。


由香は、


「あとで」


と答える。


「そのあと、いつ来るの」


「帰るまでには」


「帰る時には忘れてる」


「覚えてるよ」


そして、大抵忘れる。


帰り際、玄関で靴を履いていると、台所から水の音がする。


「あ、洗うの忘れた」


と言うと、


「もう洗った」


と返ってくる。


「洗うって言ったのに」


「いつ」


「あとで」


「そのあとが来ないから洗ったの」


毎回似たようなやり取りだった。


「母が洗っちゃうから、私が洗わなくなるんですよ」


由香が言う。


佐伯が、


「それ、お母様に言いました?」


と聞く。


「言いました」


「何て?」


「『人のせいにしない』」


冬一が笑った。


「強いですね」


「強いんです」


由香も笑った。


台所の下段から保存容器が二つ出た。


由香が蓋を見て、


「これ、やっと二個になってる」


と言う。


「前はもっと?」


「母、料理を持たせるたびこれで渡すんです。で、返さないと電話してくる」


「何個貸してると思ってるの」と良子は数まで覚えていた。


由香が二つ返すと、


「あと一個」


と言われる。


「そんなの覚えてない」


「私は覚えてる」


「じゃあ母の勝ち」


結局、由香の家の冷蔵庫から見つかる。


「人の家のタッパーまで管理してました」


由香は笑った。


二つとも処分になった。


午後、家具の搬出を始めた。


食器棚。


小さなテーブル。


椅子二脚。


良子の寝室からは箪笥とベッド。


由香は必要な写真を数枚選び、それ以外は処分に回した。


一枚、台所で良子が包丁を持っている写真があった。


撮影したのは由香らしい。


「何でこんなの撮ったんだろ」


良子はカメラを見ていない。


まな板の上の何かを切っている。


由香は少し眺めて、


「これはいらないです」


とアルバムへ戻した。


家族旅行の写真を二枚だけ抜く。


アルバムも処分になった。


寝室の引き出しから、由香が子供の頃に書いたらしい年賀状が一枚出た。


「あら」


『おかあさんへ』と大きな字で書いてある。


由香が裏返す。


短い挨拶と絵。


「これ何歳だろ」


「残しますか」


冬一が聞く。


由香は少し迷い、


「写真撮っていいですか」


「どうぞ」


スマートフォンで一枚撮る。


年賀状そのものは処分に戻した。


「物増やしたら母に怒られるので」


「写真は増えますよ」


佐伯が言う。


「そこは数えないことにします」


夕方が近づく頃、台所から物がなくなった。


食器棚を運び出す。


冷蔵庫も出す。


流しの横にあった水切り籠も処分だった。


佐伯が持ち上げると、由香が、


「それもお願いします」


と言った。


水切り籠のあった場所には、薄い水垢の跡だけが残った。


冬一は最後に流し台を確認する。


朝から置かれていた白いカップが、まだ中にあった。


「安西さん」


由香が来る。


カップを見る。


「あ」


佐伯が廊下から、


「『あとで』来ました?」


と聞いた。


由香が笑った。


「来ました」


袖を少しまくる。


蛇口を開いた。


自分でカップを洗う。


スポンジに洗剤をつけ、内側を回す。取っ手の付け根も洗い、底の泡を流す。


最後に水を切る。


由香はカップを持ったまま、右手を伸ばした。


水切り籠があった場所へ。


手が途中で止まった。


何もない。


白い流し台。


薄く残った四角い跡だけ。


由香はカップを持ったまま、そこを見た。


蛇口から一滴、水が落ちた。


少しして、カップを流し台の端へ伏せた。


飲み口を下にして。


「母、こう置くんですよ」


誰に言うでもなく言った。


しばらくして、もう一度持ち上げる。


冬一へ差し出した。


「これもお願いします」


「はい」


冬一は受け取った。


由香は手についた水をハンカチで拭いた。


「やっと自分で洗いました」


少し笑った。


佐伯が、


「次は怒られませんね」


と言う。


由香は玄関の方を見た。


「今回は、たぶん褒められます」


冬一は白いカップを処分品の箱へ入れた。


最終確認を終え、由香は裁縫箱と写真の入った封筒だけを持って家を出た。


玄関の鍵を閉める。


鞄の中には、さっき撮った年賀状の写真が入っている。


裁縫箱は手提げ袋に収まっていた。


その夜、冬一は自宅の机で郵便物を整理していた。


期限の切れた案内。


古い領収書。


もう必要のない書類。


まとめて古紙へ回す。


引き出しの奥から、折り畳んだ原稿用紙が出てきた。


表に、


『ぼくのおとうさん』


と書いてある。


冬一は開かなかった。


ほかの紙と一緒に机の端へ置く。


そのまま何枚か整理した。


古い領収書を重ねる。


封筒を捨てる。


机の端の紙をまとめて持ち上げた。


原稿用紙も一緒だった。


少しして、それだけ抜いた。


引き出しへ戻す。


閉めた。


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― 新着の感想 ―
ここまで読ませていただきました。文体のせいなのか、一つ一つの日常が心臓の鼓動のように、一定のリズムを刻んで浮かんでくる感覚が素晴らしかったです。 有名俳優が主演する芸術映画を観るような作品になろうで…
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