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生活の跡  作者: 鷺沼鳩屋
残したもの、残ったもの
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4/13

うるさい時計

カチ、カチ、カチ。


榊冬一が居間へ入って最初に気になったのは、壁の時計だった。


白い文字盤に黒い数字。縁は濃い茶色で、特に古風でも高価そうでもない。


ただ、音が大きい。


秒針が一つ進むたび、部屋のどこにいても聞こえた。


「先に謝っておきます」


高瀬美和が言った。


冬一が振り返る。


「何をですか」


「あれ、うるさいです」


壁の時計を指した。


「作業してたら、そのうち気になると思います」


佐伯が耳を澄ませる。


カチ。


カチ。


「確かに」


「でしょう」


美和は笑った。


亡くなった父、昭夫が一人で暮らしていた家だった。


七十七歳。


娘の美和は、必要な書類と写真をすでにある程度確認している。家具や家電はほとんど処分。残したい物が新たに出れば、その都度確認することになっていた。


「時計も処分で大丈夫ですか」


冬一が聞く。


「お願いします」


返事は早かった。


「主人も嫌がるので」


「ご自宅でも鳴ったら大変ですね」


佐伯が言う。


「絶対嫌がります。私も嫌です」


カチ、カチ、カチ。


「父だけですよ、こんなの平気なの」


冬一は作業を始めた。


テレビ台の引き出しを空にし、本棚から書類を分ける。佐伯は台所へ入った。


美和は確認が必要な物が出るまで、居間の椅子へ座っていた。


テレビの横に小さなラジオがある。


冬一が持ち上げると、


「それもお願いします」


と美和が言った。


「ラジオ、よく聞かれてたんですか」


「テレビ見ながら聞いてました」


冬一は手を止めた。


「同時に?」


「同時に」


「何でですか」


「知りません」


美和は笑った。


「私も何回も聞きました。テレビとラジオ、両方つけて何してるのって」


父は、


「見てるのと聞いてるのは別だから」


と言った。


「分かります?」


「分からないですね」


「ですよね」


テレビで野球を見る。


ラジオで別の試合を聞く。


新聞も開いている。


美和が、


「どれか一個にしたら」


と言うと、


「全部分かる」


と返す。


「分かってないんですよ。テレビで点入ったの見逃して、ラジオも聞き逃して、私に今どうなったって聞くんです」


佐伯が台所から笑った。


「娘さんが一番分かってる」


「私、野球嫌いなのに」


「それでも?」


「毎回聞かれるから、点数だけ覚えてました」


ラジオは処分箱へ入った。


テレビも処分だった。


配線を外し、二人で持ち上げる。


電源が切れていても、壁の時計だけは鳴っている。


カチ、カチ、カチ。


テレビ台がなくなると、その音が少し大きくなった。


押し入れから、電池が十本以上出てきた。


単三と単四。


未開封のものもある。


佐伯が、


「多いな」


と言った。


美和が覗く。


「ああ、父です」


「買い置きですか」


「なくなってから買うのが嫌だったんでしょうね」


「備えがいいですね」


「同じサイズを三回買ってくる人に言います?」


美和は笑った。


父に、


「まだあるよ」


と言う。


「腐らない」


と返す。


「使わないのに?」


「いつか使う」


「お父様、結構残す方だったんですね」


冬一が言う。


「電池だけですよ。食べ物はすぐ捨てるのに」


「基準があるんでしょうね」


「本人にしか分からない基準が」


美和は未開封の電池を一つ取った。


「これ、主人に持って帰ろうかな」


「どうぞ」


「また増やしたって怒られそう」


それでも一パックだけ残した。


残りは処分。


居間の棚から、古い延長コードが三本出る。


台所には予備の電球。


洗面所には使いかけの乾電池。


美和が、


「やっぱりいらない」


と言って、さっき残した一パックも処分側へ戻した。


「家にもあります」


それで終わった。


昼前、古い座椅子を運ぶ。


父がいつも座っていた物らしい。


「これ、相当使ってますね」


佐伯が持ち上げた。


背もたれの片側だけ布が薄くなっている。


「そこから動かなかったので」


テレビ。


ラジオ。


新聞。


座椅子。


全部その場所だった。


「父、音量も大きいんですよ」


美和が言う。


「テレビ?」


「何でも」


携帯電話を持っていなかった頃は、家の電話へ掛ける。


受話器の向こうからテレビの音がする。


「テレビ下げて」


と美和が言う。


父は、


「聞こえてる」


と返す。


「私が聞こえないの」


「俺は聞こえる」


「だから父さんの話してない」


何度言っても直らなかった。


美和が結婚して家を出てからも同じだった。


電話を掛ければテレビ。


正月に来ればテレビ。


夏に来れば高校野球。


秋は野球中継がなくてもニュース。


「孫が赤ちゃんの時も、寝た瞬間にテレビ大きくするんですよ」


「起きません?」


「起きます」


「怒られますね」


「私に」


美和は笑った。


父は謝る。


その五分後にはまた少し音量が上がっている。


「耳、悪かったんですか」


「最後の方は少し。でも昔からです」


「じゃあ癖ですね」


「悪い癖です」


座椅子も運び出した。


居間に残る家具が減った。


カチ、カチ、カチ。


壁の時計はまだ同じ速さで鳴っている。


昼休憩になった。


冬一と佐伯は家の前で食べるつもりだったが、美和が、


「ここでいいですよ。もう汚れる物もないので」


と言った。


三人で居間の端へ座った。


美和はコンビニのサンドイッチを開く。


「この部屋で勉強してたんですよ、私」


「自分の部屋じゃなく?」


冬一が聞く。


「冬、寒かったので」


高校受験の頃。


美和はこたつで参考書を広げ、父は隣の座椅子でテレビを見ていた。


父のテレビがうるさい。


「消して」


と言う。


父は消す。


美和は勉強する。


十分ほどして顔を上げる。


父は座椅子に座ったまま、何もしていない。


「本も読まないんですか」


佐伯が聞く。


「読まないんです。テレビの人だから」


「じゃあ、ずっと?」


「ずっと」


父は何も言わず座っている。


美和は気になる。


勉強へ戻る。


また顔を上げる。


まだいる。


「結局、私が『テレビつければ』って言うんですよ」


「お父様は?」


「すぐつけます」


佐伯が笑った。


「待ってたんですね」


「たぶん」


テレビをつける。


今度は音が小さい。


小さすぎて、父が前へ身を乗り出している。


美和が、


「もうちょっと上げていいよ」


と言う。


父が一つ上げる。


「もう一個」


もう一つ。


「そこまで」


それで二時間くらい過ごす。


「勉強できました?」


「できましたよ。慣れるので」


美和はサンドイッチを食べた。


「テレビがない方が、逆に気になったくらい」


それ以上は言わなかった。


午後、寝室の家具を運び出した。


箪笥。


小さな机。


布団。


写真が何枚か出た。


釣り場で魚を持った昭夫。


孫を膝に乗せた昭夫。


旅行先で美和と並んでいる昭夫。


美和は数枚だけ残した。


一枚、昭夫がテレビのリモコンを握ったまま眠っている写真があった。


美和が笑う。


「これ誰が撮ったんだろ」


「ご家族じゃないですか」


「たぶん私です」


昭夫の口が少し開いている。


テレビ画面は写真の端にしか写っていない。


「この人、寝てるのにテレビ消すと起きるんですよ」


「分かります」


佐伯が言う。


「寝てないって言うんですよね」


「そう。絶対寝てたのに」


写真を抜くか迷い、


「これはいいです」


と戻した。


孫と写った一枚だけ残す。


アルバムは処分になった。


午後二時を過ぎる頃には、家の音がかなり減っていた。


冷蔵庫の中を空にして、電源を抜く。


低い機械音が止まる。


台所の換気扇はもちろん動いていない。


テレビはない。


ラジオもない。


人が歩くと床が鳴る。


外を車が通る。


そして、


カチ、カチ、カチ。


時計だけが鳴っていた。


佐伯が時計を見る。


「これ、朝よりうるさくなってない?」


「物がなくなったからじゃないですか」


冬一が言う。


美和が、


「嫌でしょう」


と笑った。


「嫌ではないです」


「私は嫌」


そう言いながら時計を見る。


午後二時十三分。


秒針が進む。


カチ。


カチ。


カチ。


冬一は空になった食器棚を玄関へ運ぶため、佐伯と位置を合わせた。


持ち上げる。


廊下へ出す。


戻ってくる。


美和が壁を見ていた。


「止まった?」


冬一も時計を見る。


秒針が動いていない。


二時十三分と少し。


佐伯が耳を澄ませる。


何も鳴らない。


外で車が走った。


遠くから犬の声がした。


家の中では、それだけだった。


「電池ですね」


冬一が言った。


美和はしばらく時計を見た。


「静かですね」


「そうですね」


冬一は脚立を持ってきた。


「このまま処分で大丈夫ですか」


時計はもともと処分する予定だった。


美和は答えず、さっき電池をまとめた箱の方を見る。


「あれ、まだあります?」


「電池ですか」


「はい」


佐伯が処分品の箱から未開封のパックを出した。


美和が受け取る。


「一本、使ってもいいですよね」


「もちろんです」


冬一が時計を壁から外そうとすると、


「私やります」


と言った。


脚立へ上る。


冬一が下を押さえる。


美和は時計を外し、裏蓋を開いた。


古い電池を抜く。


新しい一本を入れる。


裏返す。


秒針はすぐには動かなかった。


美和が時計を軽く傾ける。


一秒。


二秒。


カチ。


秒針が進んだ。


もう一度。


カチ。


美和が笑った。


「ほんと、うるさい」


冬一も笑った。


時計を壁へ戻す。


作業を再開した。


カチ、カチ、カチ。


その後、美和は時計の話をしなかった。


冬一たちも触れなかった。


洗面所を空にする。


物置から古い工具を出す。


押し入れの最後の布団を運ぶ。


部屋は少しずつ空になった。


時計だけは鳴り続ける。


夕方。


最後の家具がトラックへ積まれた。


家の中に残っているのは、美和が持ち帰る写真の入った封筒と、壁の時計だけだった。


佐伯が最終確認を始める。


冬一は台所。


棚の中。


流しの下。


窓。


居間へ戻ると、美和が時計の下に立っていた。


「これで最後ですか」


「はい」


「じゃあ」


少し見上げる。


「私、止めてもいいですか」


「どうぞ」


冬一が脚立を置いた。


美和が上る。


時計を壁から外す。


昼に自分で入れたばかりの電池を抜いた。


秒針が止まる。


二度目は、誰も何も言わなかった。


美和は時計を冬一へ渡した。


「処分でお願いします」


「分かりました」


新しい電池だけを手のひらに残している。


冬一が、


「そちらは?」


と聞く。


「持って帰ります」


「はい」


時計は処分品の箱へ入った。


美和は電池を鞄の小さなポケットへ入れた。


玄関へ向かう。


靴を履く。


佐伯が戸締まりを確認する間、美和はもう一度だけ居間を見た。


テレビもない。


ラジオもない。


座椅子もない。


壁には、時計を掛けていた小さな金具だけが残っていた。


「ほんとに、うるさい時計だった」


美和はそう言って、玄関を出た。


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