うるさい時計
カチ、カチ、カチ。
榊冬一が居間へ入って最初に気になったのは、壁の時計だった。
白い文字盤に黒い数字。縁は濃い茶色で、特に古風でも高価そうでもない。
ただ、音が大きい。
秒針が一つ進むたび、部屋のどこにいても聞こえた。
「先に謝っておきます」
高瀬美和が言った。
冬一が振り返る。
「何をですか」
「あれ、うるさいです」
壁の時計を指した。
「作業してたら、そのうち気になると思います」
佐伯が耳を澄ませる。
カチ。
カチ。
「確かに」
「でしょう」
美和は笑った。
亡くなった父、昭夫が一人で暮らしていた家だった。
七十七歳。
娘の美和は、必要な書類と写真をすでにある程度確認している。家具や家電はほとんど処分。残したい物が新たに出れば、その都度確認することになっていた。
「時計も処分で大丈夫ですか」
冬一が聞く。
「お願いします」
返事は早かった。
「主人も嫌がるので」
「ご自宅でも鳴ったら大変ですね」
佐伯が言う。
「絶対嫌がります。私も嫌です」
カチ、カチ、カチ。
「父だけですよ、こんなの平気なの」
冬一は作業を始めた。
テレビ台の引き出しを空にし、本棚から書類を分ける。佐伯は台所へ入った。
美和は確認が必要な物が出るまで、居間の椅子へ座っていた。
テレビの横に小さなラジオがある。
冬一が持ち上げると、
「それもお願いします」
と美和が言った。
「ラジオ、よく聞かれてたんですか」
「テレビ見ながら聞いてました」
冬一は手を止めた。
「同時に?」
「同時に」
「何でですか」
「知りません」
美和は笑った。
「私も何回も聞きました。テレビとラジオ、両方つけて何してるのって」
父は、
「見てるのと聞いてるのは別だから」
と言った。
「分かります?」
「分からないですね」
「ですよね」
テレビで野球を見る。
ラジオで別の試合を聞く。
新聞も開いている。
美和が、
「どれか一個にしたら」
と言うと、
「全部分かる」
と返す。
「分かってないんですよ。テレビで点入ったの見逃して、ラジオも聞き逃して、私に今どうなったって聞くんです」
佐伯が台所から笑った。
「娘さんが一番分かってる」
「私、野球嫌いなのに」
「それでも?」
「毎回聞かれるから、点数だけ覚えてました」
ラジオは処分箱へ入った。
テレビも処分だった。
配線を外し、二人で持ち上げる。
電源が切れていても、壁の時計だけは鳴っている。
カチ、カチ、カチ。
テレビ台がなくなると、その音が少し大きくなった。
押し入れから、電池が十本以上出てきた。
単三と単四。
未開封のものもある。
佐伯が、
「多いな」
と言った。
美和が覗く。
「ああ、父です」
「買い置きですか」
「なくなってから買うのが嫌だったんでしょうね」
「備えがいいですね」
「同じサイズを三回買ってくる人に言います?」
美和は笑った。
父に、
「まだあるよ」
と言う。
「腐らない」
と返す。
「使わないのに?」
「いつか使う」
「お父様、結構残す方だったんですね」
冬一が言う。
「電池だけですよ。食べ物はすぐ捨てるのに」
「基準があるんでしょうね」
「本人にしか分からない基準が」
美和は未開封の電池を一つ取った。
「これ、主人に持って帰ろうかな」
「どうぞ」
「また増やしたって怒られそう」
それでも一パックだけ残した。
残りは処分。
居間の棚から、古い延長コードが三本出る。
台所には予備の電球。
洗面所には使いかけの乾電池。
美和が、
「やっぱりいらない」
と言って、さっき残した一パックも処分側へ戻した。
「家にもあります」
それで終わった。
昼前、古い座椅子を運ぶ。
父がいつも座っていた物らしい。
「これ、相当使ってますね」
佐伯が持ち上げた。
背もたれの片側だけ布が薄くなっている。
「そこから動かなかったので」
テレビ。
ラジオ。
新聞。
座椅子。
全部その場所だった。
「父、音量も大きいんですよ」
美和が言う。
「テレビ?」
「何でも」
携帯電話を持っていなかった頃は、家の電話へ掛ける。
受話器の向こうからテレビの音がする。
「テレビ下げて」
と美和が言う。
父は、
「聞こえてる」
と返す。
「私が聞こえないの」
「俺は聞こえる」
「だから父さんの話してない」
何度言っても直らなかった。
美和が結婚して家を出てからも同じだった。
電話を掛ければテレビ。
正月に来ればテレビ。
夏に来れば高校野球。
秋は野球中継がなくてもニュース。
「孫が赤ちゃんの時も、寝た瞬間にテレビ大きくするんですよ」
「起きません?」
「起きます」
「怒られますね」
「私に」
美和は笑った。
父は謝る。
その五分後にはまた少し音量が上がっている。
「耳、悪かったんですか」
「最後の方は少し。でも昔からです」
「じゃあ癖ですね」
「悪い癖です」
座椅子も運び出した。
居間に残る家具が減った。
カチ、カチ、カチ。
壁の時計はまだ同じ速さで鳴っている。
昼休憩になった。
冬一と佐伯は家の前で食べるつもりだったが、美和が、
「ここでいいですよ。もう汚れる物もないので」
と言った。
三人で居間の端へ座った。
美和はコンビニのサンドイッチを開く。
「この部屋で勉強してたんですよ、私」
「自分の部屋じゃなく?」
冬一が聞く。
「冬、寒かったので」
高校受験の頃。
美和はこたつで参考書を広げ、父は隣の座椅子でテレビを見ていた。
父のテレビがうるさい。
「消して」
と言う。
父は消す。
美和は勉強する。
十分ほどして顔を上げる。
父は座椅子に座ったまま、何もしていない。
「本も読まないんですか」
佐伯が聞く。
「読まないんです。テレビの人だから」
「じゃあ、ずっと?」
「ずっと」
父は何も言わず座っている。
美和は気になる。
勉強へ戻る。
また顔を上げる。
まだいる。
「結局、私が『テレビつければ』って言うんですよ」
「お父様は?」
「すぐつけます」
佐伯が笑った。
「待ってたんですね」
「たぶん」
テレビをつける。
今度は音が小さい。
小さすぎて、父が前へ身を乗り出している。
美和が、
「もうちょっと上げていいよ」
と言う。
父が一つ上げる。
「もう一個」
もう一つ。
「そこまで」
それで二時間くらい過ごす。
「勉強できました?」
「できましたよ。慣れるので」
美和はサンドイッチを食べた。
「テレビがない方が、逆に気になったくらい」
それ以上は言わなかった。
午後、寝室の家具を運び出した。
箪笥。
小さな机。
布団。
写真が何枚か出た。
釣り場で魚を持った昭夫。
孫を膝に乗せた昭夫。
旅行先で美和と並んでいる昭夫。
美和は数枚だけ残した。
一枚、昭夫がテレビのリモコンを握ったまま眠っている写真があった。
美和が笑う。
「これ誰が撮ったんだろ」
「ご家族じゃないですか」
「たぶん私です」
昭夫の口が少し開いている。
テレビ画面は写真の端にしか写っていない。
「この人、寝てるのにテレビ消すと起きるんですよ」
「分かります」
佐伯が言う。
「寝てないって言うんですよね」
「そう。絶対寝てたのに」
写真を抜くか迷い、
「これはいいです」
と戻した。
孫と写った一枚だけ残す。
アルバムは処分になった。
午後二時を過ぎる頃には、家の音がかなり減っていた。
冷蔵庫の中を空にして、電源を抜く。
低い機械音が止まる。
台所の換気扇はもちろん動いていない。
テレビはない。
ラジオもない。
人が歩くと床が鳴る。
外を車が通る。
そして、
カチ、カチ、カチ。
時計だけが鳴っていた。
佐伯が時計を見る。
「これ、朝よりうるさくなってない?」
「物がなくなったからじゃないですか」
冬一が言う。
美和が、
「嫌でしょう」
と笑った。
「嫌ではないです」
「私は嫌」
そう言いながら時計を見る。
午後二時十三分。
秒針が進む。
カチ。
カチ。
カチ。
冬一は空になった食器棚を玄関へ運ぶため、佐伯と位置を合わせた。
持ち上げる。
廊下へ出す。
戻ってくる。
美和が壁を見ていた。
「止まった?」
冬一も時計を見る。
秒針が動いていない。
二時十三分と少し。
佐伯が耳を澄ませる。
何も鳴らない。
外で車が走った。
遠くから犬の声がした。
家の中では、それだけだった。
「電池ですね」
冬一が言った。
美和はしばらく時計を見た。
「静かですね」
「そうですね」
冬一は脚立を持ってきた。
「このまま処分で大丈夫ですか」
時計はもともと処分する予定だった。
美和は答えず、さっき電池をまとめた箱の方を見る。
「あれ、まだあります?」
「電池ですか」
「はい」
佐伯が処分品の箱から未開封のパックを出した。
美和が受け取る。
「一本、使ってもいいですよね」
「もちろんです」
冬一が時計を壁から外そうとすると、
「私やります」
と言った。
脚立へ上る。
冬一が下を押さえる。
美和は時計を外し、裏蓋を開いた。
古い電池を抜く。
新しい一本を入れる。
裏返す。
秒針はすぐには動かなかった。
美和が時計を軽く傾ける。
一秒。
二秒。
カチ。
秒針が進んだ。
もう一度。
カチ。
美和が笑った。
「ほんと、うるさい」
冬一も笑った。
時計を壁へ戻す。
作業を再開した。
カチ、カチ、カチ。
その後、美和は時計の話をしなかった。
冬一たちも触れなかった。
洗面所を空にする。
物置から古い工具を出す。
押し入れの最後の布団を運ぶ。
部屋は少しずつ空になった。
時計だけは鳴り続ける。
夕方。
最後の家具がトラックへ積まれた。
家の中に残っているのは、美和が持ち帰る写真の入った封筒と、壁の時計だけだった。
佐伯が最終確認を始める。
冬一は台所。
棚の中。
流しの下。
窓。
居間へ戻ると、美和が時計の下に立っていた。
「これで最後ですか」
「はい」
「じゃあ」
少し見上げる。
「私、止めてもいいですか」
「どうぞ」
冬一が脚立を置いた。
美和が上る。
時計を壁から外す。
昼に自分で入れたばかりの電池を抜いた。
秒針が止まる。
二度目は、誰も何も言わなかった。
美和は時計を冬一へ渡した。
「処分でお願いします」
「分かりました」
新しい電池だけを手のひらに残している。
冬一が、
「そちらは?」
と聞く。
「持って帰ります」
「はい」
時計は処分品の箱へ入った。
美和は電池を鞄の小さなポケットへ入れた。
玄関へ向かう。
靴を履く。
佐伯が戸締まりを確認する間、美和はもう一度だけ居間を見た。
テレビもない。
ラジオもない。
座椅子もない。
壁には、時計を掛けていた小さな金具だけが残っていた。
「ほんとに、うるさい時計だった」
美和はそう言って、玄関を出た。




