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生活の跡  作者: 鷺沼鳩屋
残したもの、残ったもの
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2/13

片方の靴

今日の依頼は、藤村修一の母、澄江が亡くなったあとの二DKを空にする遺品整理だった。


榊冬一の仕事は、部屋に残された物を遺族と確認しながら、残す物、処分する物、買取に回せる物へ分け、通帳や現金、写真や重要書類を拾い上げ、最後には家具まで運び出すことだった。


「先に、残す物だけもう一度確認します」


冬一は壁際の段ボール三箱を指した。青いテープが貼ってある。


「通帳と印鑑、現金。写真と手紙は出てきたら一度お見せします。こちらの三箱は昨日、ご家族で選ばれた物ですね」


「はい。妹も来て、欲しい物は持って帰りました」


「では、判断のつかない物はこちらで止めます。それ以外は見積もりどおりで進めます」


修一が頷く。


佐伯が軍手をはめた。


「榊、寝室から頼む。俺は台所」


「はい」


冬一は箪笥の一段目を抜いた。


衣類をそのまま袋へ放り込むことはしない。ポケットを確認し、ハンカチや紙片を出し、現金や鍵が紛れていないかを見る。それから衣類を処分用の袋へ入れた。


二段目から銀行名の入った封筒が出る。


中は開かず、修一へ見せた。


「これは?」


「古いやつだと思います。見てもいいですか」


「どうぞ」


修一が中身を確かめる。


残高のない古い通帳だった。


「これは捨てて大丈夫です」


冬一は書類の処分箱へ入れた。


机の引き出しからは、病院の領収書、年賀状、乾いたボールペン。奥に茶封筒が一つあった。


持ち上げると、硬貨の音がした。


「藤村さん」


修一が来る。


封筒には千円札が二枚と、小銭がいくらか入っていた。


「ああ。まただ」


「また?」


佐伯が台所から顔を出した。


「母、財布に入れると使っちゃうからって、金をあちこちに分けるんですよ」


「場所は覚えてるんですか」


「覚えてないです」


佐伯が笑った。


「それ、隠した意味あります?」


「ないです」


修一も笑った。


冬一は封筒ごと修一へ渡した。


台所からは、空の菓子缶と洗ったジャム瓶がいくつも出た。紙袋は大きさごとに畳まれ、輪ゴムは小さな缶にまとめてある。


佐伯が菓子缶を一つ持ってくる。


「こちら、中は空です。処分でいいですか」


「全部お願いします。母、こういうの取っておくんですよ」


「何か入れる用ですか」


「『何かに使える』用です」


冬一がジャム瓶を箱へ入れながら聞いた。


「使いました?」


修一は少し考えた。


「たぶん、ほとんど」


「ほとんど?」


「使ってないです」


佐伯が吹き出した。


修一の母は、まだ使えそうな物を捨てない人だった。


父は逆だったという。


「使ってないとすぐ捨てるんですよ。母が取っといた箱まで勝手に」


「揉めそうですね」


「毎回ですよ。親父が『使わないだろ』母が『使う時が来る』で、母がごみ袋から戻す」


「どっちが勝つんです?」


「母です。戻したもん勝ちだから」


冬一も笑った。


菓子缶を重ねる前に、中をもう一度見る。空なら金属へ。紙袋は底に書類が残っていないか確かめて資源物へ。薬は別にする。写真や宛名のある封筒は、処分箱へ入れる前に一度止める。


作業は速いが、何でも同じ袋には入れない。


修一はしばらく見ていた。


「遺品整理って、もっと一気に捨てる仕事かと思ってました」


冬一は畳んだ紙袋を束ねた。


「捨てる物を運ぶだけなら早いです。でも、残す物まで一緒に捨てたら戻せないので」


「なるほど」


「こちらで決められない物は、藤村さんに決めてもらいます」


それだけ言って、次の引き出しへ移った。


昼前には寝室の箪笥が空になった。


修一は判断が早かった。


古いコートも、本も、花瓶も迷わない。冬一が確認すると、ほとんど一度で「処分で」と返ってくる。


玄関収納の下段に手を入れた時も、最初は同じだった。


紙箱の奥から黒い革靴が出た。


右足だけだった。


冬一は隣の箱を開ける。左はない。靴箱の棚にもない。


「藤村さん、こちらは」


修一が玄関へ来た。


靴を見るなり、少し眉を上げる。


「ああ。親父のだと思います」


受け取る。


黒い革は乾いて、つま先の艶もほとんど消えていた。踵が外側だけ少し減っている。


「お父様の物ですか」


「ええ。二十九年前に死んでます」


佐伯が手を止めた。


「ずいぶん長く残ってたんですね」


「何で片方だけなんだろ」


修一は靴の中を覗いた。


「左だけ先に捨てたのかな」


誰にも分からない。


修一はしばらく靴を見たあと、冬一へ返した。


「片方じゃ履けないし、これもお願いします」


「分かりました」


冬一は革靴を処分品の箱へ入れた。


玄関収納を続ける。


靴べら。折り畳み傘。防水スプレー。棚の一番奥から、木製の靴ブラシと丸い缶が出た。


缶の蓋には黒い靴墨が乾いてこびりついていた。


修一が見て、笑った。


「それも親父です」


「靴、よく磨いてたんですか」


「毎週日曜」


修一はブラシを受け取った。


「新聞敷いて、玄関でやるんですよ。母が毎週『臭いから外でやって』って」


「お父様は?」


「『外は埃がつく』」


佐伯が笑った。


「平行線ですね」


「二十年くらい平行線だったと思います」


父は新聞を広げ、自分の革靴を二足並べる。その隣に修一の学校靴も置いた。


「俺までやらされるんですよ」


「手伝いですか」


「修行みたいなもんです」


修一はブラシを手にしたまま、床を指した。


適当に擦って父へ渡す。


「踵」


と言われる。


踵をやる。


「横」


横をやる。


今度こそ終わったと思って渡すと、父が黙って受け取り、結局自分で仕上げる。


「だったら最初から自分でやれよって、毎回思ってました」


冬一が笑う。


「言わなかったんですか」


「言いましたよ。怒られました」


小学生の頃、一度だけ靴墨をたっぷり付けた。


たくさん塗れば早く黒くなると思ったらしい。


父は靴を見るなり、


「そんなに使ったら減るだろ」


と怒った。


修一も負けずに、


「使ったら減るの当たり前じゃん」


と言い返した。


「そこだけは今でも俺が正しいと思ってます」


「俺も藤村さん側ですね」


佐伯が言う。


「でしょう」


「でも怒られた?」


「めちゃくちゃ」


台所にいた母だけが笑っていた。


父は塗りすぎた靴墨を布で拭い、その真っ黒になった布を修一へ押しつけた。


「最後まで自分でやれって」


「やったんですか」


「やらされました」


修一が笑う。


ブラシを持った右手が、何となく一度だけ靴を払うように動いた。


本人は気づいたのか、すぐ止めた。


靴墨の缶を開けようとする。


蓋は固まって動かない。


「ああ、もう駄目だ」


「こちらも処分で?」


「はい」


ブラシと缶は、片方の革靴と同じ箱へ入った。


午後、押し入れからアルバムが出た。


冬一は勝手にめくらず、修一へ渡す。


「写真です」


「中、見ていいですよ」


「必要な物だけ抜いていただければ」


修一は畳へ座ってページをめくった。


冬一はその間に押し入れの上段を空にする。


しばらくして、


「これ、親父」


と声がした。


家族写真だった。


スーツ姿の父と、若い澄江、小学生くらいの修一。


佐伯が横から覗く。


「靴、見えないですね」


修一が笑った。


「そこ見る?」


写真は残さなかった。


「妹が同じの持ってるんで」


アルバムも処分になった。


冬一は他の写真が挟まっていないかだけ確認し、箱を閉じた。


昼休憩は建物の外で取った。


修一もコンビニのおにぎりを持ってきて、少し離れた縁石へ座った。


佐伯が聞く。


「お父様が亡くなった時、藤村さんはおいくつだったんですか」


「十八です」


「じゃあ、いろいろ覚えてますね」


「どうですかね」


修一は海苔を噛んだ。


「最後の方、あんまり喋ってなかったですし」


高校三年の頃、進路で揉めた。


父は地元で働けばいいと言った。修一は進学したかった。


何度か怒鳴り合い、そのあと互いに必要なことしか言わなくなった。


「親父、黙ると長いんですよ」


冬一が聞いた。


「藤村さんも?」


修一は少し考えた。


「俺もですね」


佐伯が笑う。


「似てたんですね」


「そこは認めたくないな」


修一も笑った。


おにぎりの袋を小さく畳む。


「卒業式の前の日も、口きいてなかったんですよ」


冬一は缶コーヒーを開けた。


「でも朝起きたら、靴だけ磨いてあった」


卒業式で履く革靴を、修一は前の晩に玄関へ出していた。


父に磨いてもらうためではない。


朝すぐ履けるように、いつもの場所へ置いただけだった。


翌朝、妙に光っていた。


玄関の隅に、折り畳まれた新聞紙と黒くなった布が置いてあった。


「見れば分かるんですよ。親父がやったって」


修一は言った。


「でも、その時にありがとうって言ったら、何か負けた気がして」


佐伯が、


「十八ですからね」


と言った。


「そう。十八だったんですよ」


修一は笑った。


「今なら言いますけどね。たぶん」


少しして、


「親父が死んだの、その年です」


佐伯は何も言わなかった。


冬一も聞かなかった。


修一は残ったお茶を飲んだ。


「結局、一回も言ってないな」


休憩が終わると、自分から立った。


午後は家具の搬出に入った。


冬一と佐伯で箪笥を運び出す。修一には廊下に置いた荷物を一度退けてもらう。


本棚の裏から硬貨が数枚出た。


冬一が拾って渡す。


冬物のコートの内ポケットからは、一万円札が一枚出た。


「藤村さん」


修一が受け取る。


「またか」


「お母様、まだ隠してましたね」


佐伯が言う。


「本人は隠してるつもりないんですよ。入れたまま忘れるだけで」


修一は一万円札を財布へ入れた。


「こういうの、知らずに捨てたら終わりですね」


「そうですね」


冬一は次の服のポケットへ手を入れた。


「だから、処分で決まっている物も一度は見ます」


「手紙も?」


「差出人や宛名までは。中身まで勝手に読むことはしません。残すか判断できなければ、ご家族に見てもらいます」


「なるほど」


冬一は次の袋を閉じた。


佐伯が隣で箪笥を持ち上げる。


「榊、そっち持てるか」


「はい」


二人で玄関まで運ぶ。


家具を壁へ当てないよう、角で一度向きを変える。大型の物が出ると、部屋は急に広くなった。


夕方には、家具があった場所だけ壁紙の色が違っていた。


押し入れも空。


台所には冷蔵庫と食器棚だけ。


残す物は、青いテープを貼った三箱に収まっていた。


衣類。


書類。


澄江が使っていた裁縫箱。


修一が残したのは、それだけだった。


冬一は三箱を修一の車へ運ぶ。


部屋へ戻ると、修一が玄関で処分品を見ていた。


片方の革靴が箱の端にある。


「榊さん」


「はい」


「あの靴、もう積みます?」


「これからです」


「もう一回、いいですか」


冬一は右靴を取り出した。


修一が受け取る。


しばらく見てから、


「ブラシもあります?」


冬一は同じ箱から木製のブラシを出した。


靴墨の缶もあったが、修一は首を振る。


「ブラシだけで」


玄関の段差へ腰を下ろす。


冬一と佐伯は作業を止めたわけではない。残りの箱をまとめながら、修一の前だけ空けた。


修一は右靴を膝へ置いた。


乾いたブラシを当てる。


最初につま先。


次に横。


踵。


一度、靴を傾ける。


またつま先へ戻る。


革の表面から細かな埃が落ち、消えていた艶が少しだけ戻る。


修一の手が止まった。


ブラシを見る。


「覚えてるもんですね」


冬一は何も言わなかった。


修一はもう一度だけ踵を払った。


靴を少し離して見る。


「親父なら、やり直しって言うな」


笑った。


ブラシを冬一へ返す。


靴は返さなかった。


「これ、持って帰っていいですか」


「もちろんです」


冬一は処分品の記録から革靴を外した。


修一は靴を見たまま言う。


「片方だけですけどね」


「はい」


「母、何でこれだけ残してたんですかね」


冬一は靴を見る。


「分かりません」


修一は少し笑った。


「俺もです」


紙袋を一枚渡す。


修一は右靴を入れた。


佐伯がブラシを持つ。


「これは?」


「それはいいです。家にあります」


「分かりました」


ブラシは処分品へ戻った。


部屋の中には、もうほとんど何もなかった。


冬一は最後に収納を一つずつ確認する。


押し入れ。


机のあった場所。


台所。


玄関収納。


残す物も、見落とした書類もない。


佐伯が修一へ作業終了を伝えた。


修一が部屋の鍵を閉める。


三人でエレベーターを待った。


紙袋の口は開いたままだった。


黒い革靴のつま先が少し出ている。


エレベーターが来る。


修一が乗り込む。


閉まりかけたところで、紙袋の縁に擦れた白い埃が靴の先についているのに気づいた。


修一は袖で一度だけ拭った。


扉が閉じるまで、紙袋の口は開いたままだった。


黒い靴のつま先が、少しだけ見えていた。


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