片方の靴
今日の依頼は、藤村修一の母、澄江が亡くなったあとの二DKを空にする遺品整理だった。
榊冬一の仕事は、部屋に残された物を遺族と確認しながら、残す物、処分する物、買取に回せる物へ分け、通帳や現金、写真や重要書類を拾い上げ、最後には家具まで運び出すことだった。
「先に、残す物だけもう一度確認します」
冬一は壁際の段ボール三箱を指した。青いテープが貼ってある。
「通帳と印鑑、現金。写真と手紙は出てきたら一度お見せします。こちらの三箱は昨日、ご家族で選ばれた物ですね」
「はい。妹も来て、欲しい物は持って帰りました」
「では、判断のつかない物はこちらで止めます。それ以外は見積もりどおりで進めます」
修一が頷く。
佐伯が軍手をはめた。
「榊、寝室から頼む。俺は台所」
「はい」
冬一は箪笥の一段目を抜いた。
衣類をそのまま袋へ放り込むことはしない。ポケットを確認し、ハンカチや紙片を出し、現金や鍵が紛れていないかを見る。それから衣類を処分用の袋へ入れた。
二段目から銀行名の入った封筒が出る。
中は開かず、修一へ見せた。
「これは?」
「古いやつだと思います。見てもいいですか」
「どうぞ」
修一が中身を確かめる。
残高のない古い通帳だった。
「これは捨てて大丈夫です」
冬一は書類の処分箱へ入れた。
机の引き出しからは、病院の領収書、年賀状、乾いたボールペン。奥に茶封筒が一つあった。
持ち上げると、硬貨の音がした。
「藤村さん」
修一が来る。
封筒には千円札が二枚と、小銭がいくらか入っていた。
「ああ。まただ」
「また?」
佐伯が台所から顔を出した。
「母、財布に入れると使っちゃうからって、金をあちこちに分けるんですよ」
「場所は覚えてるんですか」
「覚えてないです」
佐伯が笑った。
「それ、隠した意味あります?」
「ないです」
修一も笑った。
冬一は封筒ごと修一へ渡した。
台所からは、空の菓子缶と洗ったジャム瓶がいくつも出た。紙袋は大きさごとに畳まれ、輪ゴムは小さな缶にまとめてある。
佐伯が菓子缶を一つ持ってくる。
「こちら、中は空です。処分でいいですか」
「全部お願いします。母、こういうの取っておくんですよ」
「何か入れる用ですか」
「『何かに使える』用です」
冬一がジャム瓶を箱へ入れながら聞いた。
「使いました?」
修一は少し考えた。
「たぶん、ほとんど」
「ほとんど?」
「使ってないです」
佐伯が吹き出した。
修一の母は、まだ使えそうな物を捨てない人だった。
父は逆だったという。
「使ってないとすぐ捨てるんですよ。母が取っといた箱まで勝手に」
「揉めそうですね」
「毎回ですよ。親父が『使わないだろ』母が『使う時が来る』で、母がごみ袋から戻す」
「どっちが勝つんです?」
「母です。戻したもん勝ちだから」
冬一も笑った。
菓子缶を重ねる前に、中をもう一度見る。空なら金属へ。紙袋は底に書類が残っていないか確かめて資源物へ。薬は別にする。写真や宛名のある封筒は、処分箱へ入れる前に一度止める。
作業は速いが、何でも同じ袋には入れない。
修一はしばらく見ていた。
「遺品整理って、もっと一気に捨てる仕事かと思ってました」
冬一は畳んだ紙袋を束ねた。
「捨てる物を運ぶだけなら早いです。でも、残す物まで一緒に捨てたら戻せないので」
「なるほど」
「こちらで決められない物は、藤村さんに決めてもらいます」
それだけ言って、次の引き出しへ移った。
昼前には寝室の箪笥が空になった。
修一は判断が早かった。
古いコートも、本も、花瓶も迷わない。冬一が確認すると、ほとんど一度で「処分で」と返ってくる。
玄関収納の下段に手を入れた時も、最初は同じだった。
紙箱の奥から黒い革靴が出た。
右足だけだった。
冬一は隣の箱を開ける。左はない。靴箱の棚にもない。
「藤村さん、こちらは」
修一が玄関へ来た。
靴を見るなり、少し眉を上げる。
「ああ。親父のだと思います」
受け取る。
黒い革は乾いて、つま先の艶もほとんど消えていた。踵が外側だけ少し減っている。
「お父様の物ですか」
「ええ。二十九年前に死んでます」
佐伯が手を止めた。
「ずいぶん長く残ってたんですね」
「何で片方だけなんだろ」
修一は靴の中を覗いた。
「左だけ先に捨てたのかな」
誰にも分からない。
修一はしばらく靴を見たあと、冬一へ返した。
「片方じゃ履けないし、これもお願いします」
「分かりました」
冬一は革靴を処分品の箱へ入れた。
玄関収納を続ける。
靴べら。折り畳み傘。防水スプレー。棚の一番奥から、木製の靴ブラシと丸い缶が出た。
缶の蓋には黒い靴墨が乾いてこびりついていた。
修一が見て、笑った。
「それも親父です」
「靴、よく磨いてたんですか」
「毎週日曜」
修一はブラシを受け取った。
「新聞敷いて、玄関でやるんですよ。母が毎週『臭いから外でやって』って」
「お父様は?」
「『外は埃がつく』」
佐伯が笑った。
「平行線ですね」
「二十年くらい平行線だったと思います」
父は新聞を広げ、自分の革靴を二足並べる。その隣に修一の学校靴も置いた。
「俺までやらされるんですよ」
「手伝いですか」
「修行みたいなもんです」
修一はブラシを手にしたまま、床を指した。
適当に擦って父へ渡す。
「踵」
と言われる。
踵をやる。
「横」
横をやる。
今度こそ終わったと思って渡すと、父が黙って受け取り、結局自分で仕上げる。
「だったら最初から自分でやれよって、毎回思ってました」
冬一が笑う。
「言わなかったんですか」
「言いましたよ。怒られました」
小学生の頃、一度だけ靴墨をたっぷり付けた。
たくさん塗れば早く黒くなると思ったらしい。
父は靴を見るなり、
「そんなに使ったら減るだろ」
と怒った。
修一も負けずに、
「使ったら減るの当たり前じゃん」
と言い返した。
「そこだけは今でも俺が正しいと思ってます」
「俺も藤村さん側ですね」
佐伯が言う。
「でしょう」
「でも怒られた?」
「めちゃくちゃ」
台所にいた母だけが笑っていた。
父は塗りすぎた靴墨を布で拭い、その真っ黒になった布を修一へ押しつけた。
「最後まで自分でやれって」
「やったんですか」
「やらされました」
修一が笑う。
ブラシを持った右手が、何となく一度だけ靴を払うように動いた。
本人は気づいたのか、すぐ止めた。
靴墨の缶を開けようとする。
蓋は固まって動かない。
「ああ、もう駄目だ」
「こちらも処分で?」
「はい」
ブラシと缶は、片方の革靴と同じ箱へ入った。
午後、押し入れからアルバムが出た。
冬一は勝手にめくらず、修一へ渡す。
「写真です」
「中、見ていいですよ」
「必要な物だけ抜いていただければ」
修一は畳へ座ってページをめくった。
冬一はその間に押し入れの上段を空にする。
しばらくして、
「これ、親父」
と声がした。
家族写真だった。
スーツ姿の父と、若い澄江、小学生くらいの修一。
佐伯が横から覗く。
「靴、見えないですね」
修一が笑った。
「そこ見る?」
写真は残さなかった。
「妹が同じの持ってるんで」
アルバムも処分になった。
冬一は他の写真が挟まっていないかだけ確認し、箱を閉じた。
昼休憩は建物の外で取った。
修一もコンビニのおにぎりを持ってきて、少し離れた縁石へ座った。
佐伯が聞く。
「お父様が亡くなった時、藤村さんはおいくつだったんですか」
「十八です」
「じゃあ、いろいろ覚えてますね」
「どうですかね」
修一は海苔を噛んだ。
「最後の方、あんまり喋ってなかったですし」
高校三年の頃、進路で揉めた。
父は地元で働けばいいと言った。修一は進学したかった。
何度か怒鳴り合い、そのあと互いに必要なことしか言わなくなった。
「親父、黙ると長いんですよ」
冬一が聞いた。
「藤村さんも?」
修一は少し考えた。
「俺もですね」
佐伯が笑う。
「似てたんですね」
「そこは認めたくないな」
修一も笑った。
おにぎりの袋を小さく畳む。
「卒業式の前の日も、口きいてなかったんですよ」
冬一は缶コーヒーを開けた。
「でも朝起きたら、靴だけ磨いてあった」
卒業式で履く革靴を、修一は前の晩に玄関へ出していた。
父に磨いてもらうためではない。
朝すぐ履けるように、いつもの場所へ置いただけだった。
翌朝、妙に光っていた。
玄関の隅に、折り畳まれた新聞紙と黒くなった布が置いてあった。
「見れば分かるんですよ。親父がやったって」
修一は言った。
「でも、その時にありがとうって言ったら、何か負けた気がして」
佐伯が、
「十八ですからね」
と言った。
「そう。十八だったんですよ」
修一は笑った。
「今なら言いますけどね。たぶん」
少しして、
「親父が死んだの、その年です」
佐伯は何も言わなかった。
冬一も聞かなかった。
修一は残ったお茶を飲んだ。
「結局、一回も言ってないな」
休憩が終わると、自分から立った。
午後は家具の搬出に入った。
冬一と佐伯で箪笥を運び出す。修一には廊下に置いた荷物を一度退けてもらう。
本棚の裏から硬貨が数枚出た。
冬一が拾って渡す。
冬物のコートの内ポケットからは、一万円札が一枚出た。
「藤村さん」
修一が受け取る。
「またか」
「お母様、まだ隠してましたね」
佐伯が言う。
「本人は隠してるつもりないんですよ。入れたまま忘れるだけで」
修一は一万円札を財布へ入れた。
「こういうの、知らずに捨てたら終わりですね」
「そうですね」
冬一は次の服のポケットへ手を入れた。
「だから、処分で決まっている物も一度は見ます」
「手紙も?」
「差出人や宛名までは。中身まで勝手に読むことはしません。残すか判断できなければ、ご家族に見てもらいます」
「なるほど」
冬一は次の袋を閉じた。
佐伯が隣で箪笥を持ち上げる。
「榊、そっち持てるか」
「はい」
二人で玄関まで運ぶ。
家具を壁へ当てないよう、角で一度向きを変える。大型の物が出ると、部屋は急に広くなった。
夕方には、家具があった場所だけ壁紙の色が違っていた。
押し入れも空。
台所には冷蔵庫と食器棚だけ。
残す物は、青いテープを貼った三箱に収まっていた。
衣類。
書類。
澄江が使っていた裁縫箱。
修一が残したのは、それだけだった。
冬一は三箱を修一の車へ運ぶ。
部屋へ戻ると、修一が玄関で処分品を見ていた。
片方の革靴が箱の端にある。
「榊さん」
「はい」
「あの靴、もう積みます?」
「これからです」
「もう一回、いいですか」
冬一は右靴を取り出した。
修一が受け取る。
しばらく見てから、
「ブラシもあります?」
冬一は同じ箱から木製のブラシを出した。
靴墨の缶もあったが、修一は首を振る。
「ブラシだけで」
玄関の段差へ腰を下ろす。
冬一と佐伯は作業を止めたわけではない。残りの箱をまとめながら、修一の前だけ空けた。
修一は右靴を膝へ置いた。
乾いたブラシを当てる。
最初につま先。
次に横。
踵。
一度、靴を傾ける。
またつま先へ戻る。
革の表面から細かな埃が落ち、消えていた艶が少しだけ戻る。
修一の手が止まった。
ブラシを見る。
「覚えてるもんですね」
冬一は何も言わなかった。
修一はもう一度だけ踵を払った。
靴を少し離して見る。
「親父なら、やり直しって言うな」
笑った。
ブラシを冬一へ返す。
靴は返さなかった。
「これ、持って帰っていいですか」
「もちろんです」
冬一は処分品の記録から革靴を外した。
修一は靴を見たまま言う。
「片方だけですけどね」
「はい」
「母、何でこれだけ残してたんですかね」
冬一は靴を見る。
「分かりません」
修一は少し笑った。
「俺もです」
紙袋を一枚渡す。
修一は右靴を入れた。
佐伯がブラシを持つ。
「これは?」
「それはいいです。家にあります」
「分かりました」
ブラシは処分品へ戻った。
部屋の中には、もうほとんど何もなかった。
冬一は最後に収納を一つずつ確認する。
押し入れ。
机のあった場所。
台所。
玄関収納。
残す物も、見落とした書類もない。
佐伯が修一へ作業終了を伝えた。
修一が部屋の鍵を閉める。
三人でエレベーターを待った。
紙袋の口は開いたままだった。
黒い革靴のつま先が少し出ている。
エレベーターが来る。
修一が乗り込む。
閉まりかけたところで、紙袋の縁に擦れた白い埃が靴の先についているのに気づいた。
修一は袖で一度だけ拭った。
扉が閉じるまで、紙袋の口は開いたままだった。
黒い靴のつま先が、少しだけ見えていた。




