二本目の牛乳
スーパーの牛乳売り場で、榊冬一は一本だけ取った。
低脂肪でも特濃でもない、いつもの牛乳だった。籠には豆腐と長葱、卵、値引きされた鯖の切り身が入っている。帰れば米はある。味噌もまだ残っていた。
牛乳を籠へ寝かせたところで、上着のポケットが震えた。
画面には伯母の名前が出ていた。
冬一は通路の端へ寄った。
「もしもし」
『冬一君? 今、大丈夫?』
「はい」
伯母は一度黙った。
その間に、背後を買い物籠の車輪が鳴りながら通り過ぎた。
『お父さんね。今朝、亡くなったの』
冬一は牛乳売り場を見た。棚の奥で、店員が新しいパックを並べている。
「そうですか」
自分の声は普段と変わらなかった。
伯母は葬儀社のこと、明日のこと、鍵を預かっていることを話した。冬一は必要なところだけ聞いた。
「分かりました。明日の朝、行きます」
電話を切った。
籠を持ち直す。
何か買い忘れている気がして、冬一は店内を一周した。醤油はある。洗剤もある。ティッシュもまだ残っている。
結局、何も足さずにレジへ向かった。
自宅に戻り、買った物を冷蔵庫へ入れた。
卵。豆腐。鯖。
最後に牛乳を持ち上げる。
二本あった。
冬一はしばらく見てから、レシートを開いた。
牛乳 二点。
会計の間違いではなかった。
レシートを畳んで捨て、一方を奥へ入れ、もう一方をその隣へ置いた。
いつ取ったのかは思い出せなかった。
冷蔵庫を閉めると、台所はいつもと同じ静けさに戻った。
翌朝、始発より少し遅い電車に乗った。
父の住んでいた町までは、一時間半ほどかかった。
駅前には昔と同じパン屋があり、その隣の薬局は携帯電話の店になっていた。冬一は改札前で伯母と合流した。
「寝られた?」
「普通に」
「そう」
伯母はそれ以上聞かなかった。
父は小さな葬儀場にいた。
顔には白い布が掛けられていた。伯母が取ろうとしたので、冬一は自分で取った。
父の頬は痩せていた。
最後に会ったのは二年ほど前だった。その時より随分小さく見えた。
「急だったからね」
伯母が言った。
冬一は布を戻した。
葬儀は翌日に行われた。
父と親しかった人が何人いたのか、冬一は知らなかった。参列者は多くなかった。名前を聞いても分からない人が何人かいて、向こうは冬一のことを知っていた。
「息子さん、大きくなったね」
そう言った老人には、会った記憶がなかった。
冬一は頭を下げた。
火葬を待つ間、父と同じ団地に住んでいたという男が冬一の隣へ座った。
「朝、よく会ったよ。新聞取りに出る時間が同じでね」
「そうですか」
「冬でも半袖の時があったな。あれは何だったんだろうな」
男は笑った。
冬一も少しだけ笑った。父ならやりそうだと思ったが、半袖で新聞を取りに出る父の姿は覚えていなかった。
「息子さんは、こっちには?」
「今は離れてます」
「そうか」
会話はそこで終わった。
父について知らないことが一つ増えた。冬一は紙コップの茶を飲んだ。ぬるくなっていた。
火葬のあと、伯母から父の部屋の鍵を受け取った。
「業者、頼もうか」
「必要な物だけ先に見ます」
「一人で平気?」
「荷物を運ぶわけじゃないので」
伯母は鍵から手を離した。
父の部屋へ行くのは、それから二日後になった。
団地の三階。
玄関を開けると、父の靴が二足並んでいた。
黒い革靴と、踵の潰れた運動靴。
冬一は自分の靴を脱ぎ、その横へ置いた。
部屋には父の匂いが残っていた。
煙草は吸わない人だった。整髪料も使わない。それでも、実家へ帰った時にいつもあった匂いがした。
何の匂いなのか、冬一は昔から知らない。
窓を開けた。
冷たい風が入り、カーテンが少し膨らんだ。
持ち帰る物を選ぶだけのつもりだった。
ところが押し入れを開けると、古い肌着や毛布まで目に入り、台所には空の醤油瓶が二本置かれていた。父は捨てる日を忘れていたらしい。
冬一は市の指定袋を買いに出た。
戻ってから、捨てられる物だけ捨てることにした。
古新聞を束ねる。
薬の袋をまとめる。
洗面所の使いかけの石鹸を袋へ入れる。
食器棚には茶碗が二つあった。一つは父が使っていた物で、もう一つは母が生きていた頃からある花柄の茶碗だった。
冬一は両方残した。
花柄の方を手に取ると、縁に小さな欠けがあった。
母はその茶碗を気に入っていた。
中学生の頃、冬一は台所で母に聞いたことがある。
「父さんのどこがよかったの」
母は洗った皿を布巾で拭いていた。
「忘れた」
「何それ」
「忘れたものは仕方ないでしょ」
母は笑いもしなかった。
茶碗を棚へ戻した。
母が死んだあと、父はいくつかの物を小さいものへ替えていた。
炊飯器は三合炊きになっていた。湯沸かし器も小さい。台所の水切り籠には箸が一膳だけあり、洗面所の歯ブラシも一本だった。
それでも食器棚には二人分の物が残っている。
冬一は数を合わせなかった。
棚の奥から未開封の割り箸が十膳ほど出てきたので、そちらはまとめて袋へ入れた。輪ゴム、乾電池、使いかけのアルミホイル。父が何のために買ったのか考える必要のない物も、いくらでもあった。
部屋はそういう物の方が多かった。
何かを決めたわけではない。食器は後でまとめればいいと思った。
台所の下から、焦げた片手鍋が出てきた。
底の黒い部分を指で擦る。
父は料理が上手くなかった。
小学生の頃、母が夜勤の日だけ、父が夕食を作ることがあった。大抵はカレーだった。
「玉ねぎ、もっと小さくしてよ」
一度そう言うと、父は包丁を置いた。
「食えば同じだ」
「違うよ」
「同じだ」
結局、大きな玉ねぎの入ったカレーを食べた。
翌月も同じだった。
冬一は鍋を不燃物の袋へ入れた。
洗面台の引き出しには爪切りがあった。
銀色の、どこにでもある爪切りだった。
父は子供の爪を切るのが下手だった。
深く切る。
冬一が手を引くと、
「動くからだ」
と言った。
「父さんが下手なんだよ」
「じゃあ自分で切れ」
そのあと父は笑った。
何がおかしかったのか、冬一には分からなかった。
爪切りも袋へ入れた。
昼を過ぎたところで、冬一は近くのコンビニへ行った。
おにぎりを二つと缶コーヒーを買い、戻って居間の床に座った。椅子はあったが、座面に父の新聞が積まれていた。
テレビは消えたままだった。
冷蔵庫が時々低く鳴った。
冬一は鮭のおにぎりを食べながら、部屋を見た。壁の時計は十一分進んでいる。卓上カレンダーは先月のまま。窓際には輪ゴムで束ねた郵便物がある。
食べ終えてから、郵便物だけ確認した。
電気料金の知らせ。通販の広告。健康診断の案内。スーパーの特売チラシ。
必要そうなものを机へ置き、残りを古紙へ回した。
父が最後に何をしていたのか、分かるようなものはなかった。
缶コーヒーを飲み切り、空き缶を自分の袋へ入れた。
午後になると、部屋の中が寒くなった。
窓を閉める。
父の衣類は多くなかった。
背広が二着。
冬物のコート。
シャツ。
下着。
靴下。
冬一は背広のポケットだけ確認した。レシートと、折れた爪楊枝が出てきた。
それ以上は何もなかった。
背広の内ポケットからは、期限の切れたポイントカードも出てきた。
冬一は鋏で二つに切り、可燃ごみへ入れた。
父の人生を片づけている、とは思わなかった。
服を袋へ入れ、空いたハンガーをまとめた。
ただそれを繰り返した。
机は寝室の隅にあった。
机の横には小さな本棚があり、その上に古い写真立てが伏せて置かれていた。
起こす。
母と父が並んで写っていた。
どこかの観光地らしい。母は帽子を被り、父は眩しそうに目を細めている。冬一は写っていない。
写真立ての裏には日付も場所も書かれていなかった。
冬一は一度机の上へ置き、少ししてから元のように伏せた。
持ち帰るかどうかは、あとで決めることにした。
机は、昔、実家で使っていた物だった。
引き出しの上段には印鑑、ボールペン、封筒。二段目には説明書や保証書が詰め込まれていた。
一番下が引っかかった。
何度か引くと、紙の端が擦れる音がした。
冬一は少し持ち上げて、ゆっくり開けた。
古い書類が入っていた。
保険の案内。
町内会の紙。
母の筆跡で名前の書かれた封筒。
その下に、小学校の原稿用紙があった。
黄色くなっている。
一枚目の上に、大きな字で題が書かれていた。
『ぼくのおとうさん』
右端に、榊冬一、とある。
冬一は椅子へ座った。
覚えていなかった。
紙を開く。
字はところどころ濃さが違い、消しゴムで擦った跡も残っている。
――ぼくのおとうさんは、からだがおおきいです。
父は大きな男ではなかった。
冬一は次を読んだ。
――にちようびにこうえんにつれていってくれます。
そんなことがあったらしい。
――かたぐるまをしてくれます。たかくてたのしいです。
冬一はそこで一度紙から目を離した。
父の肩車を思い出そうとした。
何も出てこない。
公園も分からない。
鉄棒。
滑り台。
砂場。
どれを想像しても、実際にあった記憶なのか、頭の中で作っているだけなのか判断できなかった。
続きを読んだ。
――おかあさんがおそいひは、カレーをつくります。
これは覚えている。
大きな玉ねぎ。
鍋の底。
辛くないカレー。
――おとうさんのカレーがすきです。
冬一は少し笑った。
「嘘だろ」
声に出た。
その先に、まだ何行かあった。
紙を折った。
元の折り目とは違うところで折れそうになり、やめる。
机の上へ置いた。
外から子供の声が聞こえた。
団地の下で遊んでいるらしい。
冬一は立ち上がり、作業を続けた。
父とは、高校の頃からよく揉めた。
その全部を思い出す必要はなかった。
進学先について口を出された。
就職した時には、
「長く続けばいいな」
と言われた。
冬一は嫌味だと思った。
家を出る日は、父は仕事へ行っていた。
見送りはなかった。
その後、正月に帰った年もあれば、帰らなかった年もある。
母が死んでからは、さらに減った。
最後に父から電話が来たのはいつだったか。
それは作文より思い出せなかった。
冬一は本棚を空にした。
父は歴史小説をよく読んだ。
同じ作家の文庫が並んでいる。何冊か背表紙が色褪せていた。
冬一は一冊だけ抜いた。
ぱらぱらと捲る。
栞代わりのレシートが挟まっていた。
三年前の日付だった。
本を閉じて、他と一緒に箱へ戻した。
持ち帰らなかった。
夕方、ゴミ袋が六つになった。
机の上には作文が残っていた。
冬一は最後にそれを手に取った。
もう一度、題を見る。
『ぼくのおとうさん』
下に自分の名前。
紙の端は丸くなっていた。
父が何度読んだのかは分からない。
一度も読まなかったかもしれない。
学校から返されたものを母がしまい、そのまま父の机へ移っただけかもしれなかった。
冬一は作文をゴミ袋の上へ置いた。
玄関まで一袋ずつ運ぶ。
最後に戻ると、白い紙が袋の上にあった。
取る。
鞄へ入れた。
それだけだった。
部屋の整理は一日では終わらなかった。
翌日、伯母から電話があった。
『何か必要な物、あった?』
「まだ分かりません」
『写真とかは取っておいた方がいいんじゃない』
冬一は机の横を見た。
伏せた写真立てはそのままだった。
「一応、見ます」
『そう。無理に全部今日決めなくていいからね』
「はい」
電話を切ったあと、冬一は写真立てを起こさなかった。
業者にも来てもらい、家具や家電を運び出した。
冬一は立ち会った。
冷蔵庫が最後になった。
「中、空ですか」
作業員に聞かれた。
「見ます」
扉を開ける。
調味料はすでに処分したつもりだった。
下の段に牛乳が一本残っていた。
半分ほど入っている。
賞味期限は五日前だった。
「すみません。これだけ」
冬一は取り出した。
流しへ持っていき、蓋を開ける。
少し匂いを嗅いでから、中身を流した。
白い筋が銀色の流しを通り、排水口へ消える。
水を出す。
パックの中も洗った。
口を開いて畳み、他の資源ごみへ重ねる。
「大丈夫です」
作業員に声を掛けた。
冷蔵庫が運び出された。
床には四角く埃が残った。
冬一は借りた箒でそこを掃いた。
何も置かれていない部屋は、思っていたより広かった。
鍵を閉め、伯母へ返した。
数日後、冬一は仕事帰りにスーパーへ寄った。
卵。
長葱。
豆腐。
鯖は高かったのでやめた。
牛乳売り場へ行く。
一本取った。
そのままレジへ向かいかけて、途中で止まった。
買い忘れではない。
冬一は売り場へ戻った。
もう一本、同じ牛乳を取った。
二本を並べて籠へ入れる。
帰宅して、冷蔵庫を開けた。
一本を奥へ置く。
もう一本を、その隣へ置く。
牛乳は二本あった。
今度は、間違えて買ったのではなかった。
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