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生活の跡  作者: 鷺沼鳩屋
残したもの、残ったもの
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1/17

二本目の牛乳

スーパーの牛乳売り場で、榊冬一は一本だけ取った。


低脂肪でも特濃でもない、いつもの牛乳だった。籠には豆腐と長葱、卵、値引きされた鯖の切り身が入っている。帰れば米はある。味噌もまだ残っていた。


牛乳を籠へ寝かせたところで、上着のポケットが震えた。


画面には伯母の名前が出ていた。


冬一は通路の端へ寄った。


「もしもし」


『冬一君? 今、大丈夫?』


「はい」


伯母は一度黙った。


その間に、背後を買い物籠の車輪が鳴りながら通り過ぎた。


『お父さんね。今朝、亡くなったの』


冬一は牛乳売り場を見た。棚の奥で、店員が新しいパックを並べている。


「そうですか」


自分の声は普段と変わらなかった。


伯母は葬儀社のこと、明日のこと、鍵を預かっていることを話した。冬一は必要なところだけ聞いた。


「分かりました。明日の朝、行きます」


電話を切った。


籠を持ち直す。


何か買い忘れている気がして、冬一は店内を一周した。醤油はある。洗剤もある。ティッシュもまだ残っている。


結局、何も足さずにレジへ向かった。


自宅に戻り、買った物を冷蔵庫へ入れた。


卵。豆腐。鯖。


最後に牛乳を持ち上げる。


二本あった。


冬一はしばらく見てから、レシートを開いた。


牛乳 二点。


会計の間違いではなかった。


レシートを畳んで捨て、一方を奥へ入れ、もう一方をその隣へ置いた。


いつ取ったのかは思い出せなかった。


冷蔵庫を閉めると、台所はいつもと同じ静けさに戻った。


翌朝、始発より少し遅い電車に乗った。


父の住んでいた町までは、一時間半ほどかかった。


駅前には昔と同じパン屋があり、その隣の薬局は携帯電話の店になっていた。冬一は改札前で伯母と合流した。


「寝られた?」


「普通に」


「そう」


伯母はそれ以上聞かなかった。


父は小さな葬儀場にいた。


顔には白い布が掛けられていた。伯母が取ろうとしたので、冬一は自分で取った。


父の頬は痩せていた。


最後に会ったのは二年ほど前だった。その時より随分小さく見えた。


「急だったからね」


伯母が言った。


冬一は布を戻した。


葬儀は翌日に行われた。


父と親しかった人が何人いたのか、冬一は知らなかった。参列者は多くなかった。名前を聞いても分からない人が何人かいて、向こうは冬一のことを知っていた。


「息子さん、大きくなったね」


そう言った老人には、会った記憶がなかった。


冬一は頭を下げた。


火葬を待つ間、父と同じ団地に住んでいたという男が冬一の隣へ座った。


「朝、よく会ったよ。新聞取りに出る時間が同じでね」


「そうですか」


「冬でも半袖の時があったな。あれは何だったんだろうな」


男は笑った。


冬一も少しだけ笑った。父ならやりそうだと思ったが、半袖で新聞を取りに出る父の姿は覚えていなかった。


「息子さんは、こっちには?」


「今は離れてます」


「そうか」


会話はそこで終わった。


父について知らないことが一つ増えた。冬一は紙コップの茶を飲んだ。ぬるくなっていた。


火葬のあと、伯母から父の部屋の鍵を受け取った。


「業者、頼もうか」


「必要な物だけ先に見ます」


「一人で平気?」


「荷物を運ぶわけじゃないので」


伯母は鍵から手を離した。


父の部屋へ行くのは、それから二日後になった。


団地の三階。


玄関を開けると、父の靴が二足並んでいた。


黒い革靴と、踵の潰れた運動靴。


冬一は自分の靴を脱ぎ、その横へ置いた。


部屋には父の匂いが残っていた。


煙草は吸わない人だった。整髪料も使わない。それでも、実家へ帰った時にいつもあった匂いがした。


何の匂いなのか、冬一は昔から知らない。


窓を開けた。


冷たい風が入り、カーテンが少し膨らんだ。


持ち帰る物を選ぶだけのつもりだった。


ところが押し入れを開けると、古い肌着や毛布まで目に入り、台所には空の醤油瓶が二本置かれていた。父は捨てる日を忘れていたらしい。


冬一は市の指定袋を買いに出た。


戻ってから、捨てられる物だけ捨てることにした。


古新聞を束ねる。


薬の袋をまとめる。


洗面所の使いかけの石鹸を袋へ入れる。


食器棚には茶碗が二つあった。一つは父が使っていた物で、もう一つは母が生きていた頃からある花柄の茶碗だった。


冬一は両方残した。


花柄の方を手に取ると、縁に小さな欠けがあった。


母はその茶碗を気に入っていた。


中学生の頃、冬一は台所で母に聞いたことがある。


「父さんのどこがよかったの」


母は洗った皿を布巾で拭いていた。


「忘れた」


「何それ」


「忘れたものは仕方ないでしょ」


母は笑いもしなかった。


茶碗を棚へ戻した。


母が死んだあと、父はいくつかの物を小さいものへ替えていた。


炊飯器は三合炊きになっていた。湯沸かし器も小さい。台所の水切り籠には箸が一膳だけあり、洗面所の歯ブラシも一本だった。


それでも食器棚には二人分の物が残っている。


冬一は数を合わせなかった。


棚の奥から未開封の割り箸が十膳ほど出てきたので、そちらはまとめて袋へ入れた。輪ゴム、乾電池、使いかけのアルミホイル。父が何のために買ったのか考える必要のない物も、いくらでもあった。


部屋はそういう物の方が多かった。


何かを決めたわけではない。食器は後でまとめればいいと思った。


台所の下から、焦げた片手鍋が出てきた。


底の黒い部分を指で擦る。


父は料理が上手くなかった。


小学生の頃、母が夜勤の日だけ、父が夕食を作ることがあった。大抵はカレーだった。


「玉ねぎ、もっと小さくしてよ」


一度そう言うと、父は包丁を置いた。


「食えば同じだ」


「違うよ」


「同じだ」


結局、大きな玉ねぎの入ったカレーを食べた。


翌月も同じだった。


冬一は鍋を不燃物の袋へ入れた。


洗面台の引き出しには爪切りがあった。


銀色の、どこにでもある爪切りだった。


父は子供の爪を切るのが下手だった。


深く切る。


冬一が手を引くと、


「動くからだ」


と言った。


「父さんが下手なんだよ」


「じゃあ自分で切れ」


そのあと父は笑った。


何がおかしかったのか、冬一には分からなかった。


爪切りも袋へ入れた。


昼を過ぎたところで、冬一は近くのコンビニへ行った。


おにぎりを二つと缶コーヒーを買い、戻って居間の床に座った。椅子はあったが、座面に父の新聞が積まれていた。


テレビは消えたままだった。


冷蔵庫が時々低く鳴った。


冬一は鮭のおにぎりを食べながら、部屋を見た。壁の時計は十一分進んでいる。卓上カレンダーは先月のまま。窓際には輪ゴムで束ねた郵便物がある。


食べ終えてから、郵便物だけ確認した。


電気料金の知らせ。通販の広告。健康診断の案内。スーパーの特売チラシ。


必要そうなものを机へ置き、残りを古紙へ回した。


父が最後に何をしていたのか、分かるようなものはなかった。


缶コーヒーを飲み切り、空き缶を自分の袋へ入れた。


午後になると、部屋の中が寒くなった。


窓を閉める。


父の衣類は多くなかった。


背広が二着。


冬物のコート。


シャツ。


下着。


靴下。


冬一は背広のポケットだけ確認した。レシートと、折れた爪楊枝が出てきた。


それ以上は何もなかった。


背広の内ポケットからは、期限の切れたポイントカードも出てきた。


冬一は鋏で二つに切り、可燃ごみへ入れた。


父の人生を片づけている、とは思わなかった。


服を袋へ入れ、空いたハンガーをまとめた。


ただそれを繰り返した。


机は寝室の隅にあった。


机の横には小さな本棚があり、その上に古い写真立てが伏せて置かれていた。


起こす。


母と父が並んで写っていた。


どこかの観光地らしい。母は帽子を被り、父は眩しそうに目を細めている。冬一は写っていない。


写真立ての裏には日付も場所も書かれていなかった。


冬一は一度机の上へ置き、少ししてから元のように伏せた。


持ち帰るかどうかは、あとで決めることにした。


机は、昔、実家で使っていた物だった。


引き出しの上段には印鑑、ボールペン、封筒。二段目には説明書や保証書が詰め込まれていた。


一番下が引っかかった。


何度か引くと、紙の端が擦れる音がした。


冬一は少し持ち上げて、ゆっくり開けた。


古い書類が入っていた。


保険の案内。


町内会の紙。


母の筆跡で名前の書かれた封筒。


その下に、小学校の原稿用紙があった。


黄色くなっている。


一枚目の上に、大きな字で題が書かれていた。


『ぼくのおとうさん』


右端に、榊冬一、とある。


冬一は椅子へ座った。


覚えていなかった。


紙を開く。


字はところどころ濃さが違い、消しゴムで擦った跡も残っている。


――ぼくのおとうさんは、からだがおおきいです。


父は大きな男ではなかった。


冬一は次を読んだ。


――にちようびにこうえんにつれていってくれます。


そんなことがあったらしい。


――かたぐるまをしてくれます。たかくてたのしいです。


冬一はそこで一度紙から目を離した。


父の肩車を思い出そうとした。


何も出てこない。


公園も分からない。


鉄棒。


滑り台。


砂場。


どれを想像しても、実際にあった記憶なのか、頭の中で作っているだけなのか判断できなかった。


続きを読んだ。


――おかあさんがおそいひは、カレーをつくります。


これは覚えている。


大きな玉ねぎ。


鍋の底。


辛くないカレー。


――おとうさんのカレーがすきです。


冬一は少し笑った。


「嘘だろ」


声に出た。


その先に、まだ何行かあった。


紙を折った。


元の折り目とは違うところで折れそうになり、やめる。


机の上へ置いた。


外から子供の声が聞こえた。


団地の下で遊んでいるらしい。


冬一は立ち上がり、作業を続けた。


父とは、高校の頃からよく揉めた。


その全部を思い出す必要はなかった。


進学先について口を出された。


就職した時には、


「長く続けばいいな」


と言われた。


冬一は嫌味だと思った。


家を出る日は、父は仕事へ行っていた。


見送りはなかった。


その後、正月に帰った年もあれば、帰らなかった年もある。


母が死んでからは、さらに減った。


最後に父から電話が来たのはいつだったか。


それは作文より思い出せなかった。


冬一は本棚を空にした。


父は歴史小説をよく読んだ。


同じ作家の文庫が並んでいる。何冊か背表紙が色褪せていた。


冬一は一冊だけ抜いた。


ぱらぱらと捲る。


栞代わりのレシートが挟まっていた。


三年前の日付だった。


本を閉じて、他と一緒に箱へ戻した。


持ち帰らなかった。


夕方、ゴミ袋が六つになった。


机の上には作文が残っていた。


冬一は最後にそれを手に取った。


もう一度、題を見る。


『ぼくのおとうさん』


下に自分の名前。


紙の端は丸くなっていた。


父が何度読んだのかは分からない。


一度も読まなかったかもしれない。


学校から返されたものを母がしまい、そのまま父の机へ移っただけかもしれなかった。


冬一は作文をゴミ袋の上へ置いた。


玄関まで一袋ずつ運ぶ。


最後に戻ると、白い紙が袋の上にあった。


取る。


鞄へ入れた。


それだけだった。


部屋の整理は一日では終わらなかった。


翌日、伯母から電話があった。


『何か必要な物、あった?』


「まだ分かりません」


『写真とかは取っておいた方がいいんじゃない』


冬一は机の横を見た。


伏せた写真立てはそのままだった。


「一応、見ます」


『そう。無理に全部今日決めなくていいからね』


「はい」


電話を切ったあと、冬一は写真立てを起こさなかった。


業者にも来てもらい、家具や家電を運び出した。


冬一は立ち会った。


冷蔵庫が最後になった。


「中、空ですか」


作業員に聞かれた。


「見ます」


扉を開ける。


調味料はすでに処分したつもりだった。


下の段に牛乳が一本残っていた。


半分ほど入っている。


賞味期限は五日前だった。


「すみません。これだけ」


冬一は取り出した。


流しへ持っていき、蓋を開ける。


少し匂いを嗅いでから、中身を流した。


白い筋が銀色の流しを通り、排水口へ消える。


水を出す。


パックの中も洗った。


口を開いて畳み、他の資源ごみへ重ねる。


「大丈夫です」


作業員に声を掛けた。


冷蔵庫が運び出された。


床には四角く埃が残った。


冬一は借りた箒でそこを掃いた。


何も置かれていない部屋は、思っていたより広かった。


鍵を閉め、伯母へ返した。


数日後、冬一は仕事帰りにスーパーへ寄った。


卵。


長葱。


豆腐。


鯖は高かったのでやめた。


牛乳売り場へ行く。


一本取った。


そのままレジへ向かいかけて、途中で止まった。


買い忘れではない。


冬一は売り場へ戻った。


もう一本、同じ牛乳を取った。


二本を並べて籠へ入れる。


帰宅して、冷蔵庫を開けた。


一本を奥へ置く。


もう一本を、その隣へ置く。


牛乳は二本あった。


今度は、間違えて買ったのではなかった。


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良ければ私の他の作品も読んでみてください。

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― 新着の感想 ―
しんみりとした気持ちが残るお話ですね。 なんだか切ない気持ちにもなりました。 また、時間を作って、続きを読ませて頂きますm(_ _)m しんみりと心に残る素敵なお話を読ませて頂き、ありがとうござ…
牛乳一つ、 されど使いかけ。 余韻が残る純文学が好きなのでどんどん先を読ませていただきます。
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