【20歳 長月 久しぶりに見る夢】
瞼を開けたのに暗い。
まだ夜明け前のようだ。うつ伏せに寝入っていたらしく、唇の端に涎が垂れていた。
口元を拭おうと身じろぐと、体の下の温もりも身じろいだ。少し硬くて、ホッとする温もりに亜希は懐かしさを覚えて額を擦り付ける。
「――起きるには早い。寝ていろ」
低く気怠げに響いた声にハッとした。隆哉の声ではない。
その途端に背筋が凍り付いたが、亜希の背に回された大きな手が優しく上下に動き、まるで寝かし付けるかのように撫でてきたので、亜希は次第に警戒心を解いていく。
その手の優しさにも覚えがあった。
胸板に片耳を押し当てると、彼の鼓動が聞こえてくる。その規則正しさに安堵し、懐かしさが込み上げてきた。
かつて蒼潤は彼の鼓動を聞きながら幾夜も眠りに落ちたのだ。
「……伯旋?」
彼の字を薄闇の中で声にしてみた。
すると、懐かしい声で彼が、なんだ、と答えたので、亜希は夢を見ているのだと知った。
(久しぶりの夢だ。この頃は見ることがなかったのに)
前世の夢は、蒼潤が峨鍈にかけた呪いだ。
どういう仕組みなのか、魂は使い回される。故に、峨鍈は生まれ変わって日岡隆哉としての人生を始めたが、それは真っ白の状態で新しく始まった人生ではなく、峨鍈の続きの人生だった。
多くの者は前世を覚えていない。己が如何にして死んだのかを覚えている必要がないからだ。
ところが、隆哉は峨鍈がどのように生きて、どうやって死んだのかを鮮明に覚えており、前世の業をそのまま現世に引き継いで生きている。――それこそが青龍の末裔であり、地上で生きる最後の龍であった蒼潤の呪いだ。
この呪いのやっかいなところは、彼だけを呪うに留まらず、周囲の者たちを巻き込み、結局は蒼潤の生まれ変わりである亜希にも降りかかってきたところである。
前世の夢は、隆哉の気持ちが不安定になると、亜希のことも呑み込んでくるのだ。
(やっぱり原因は、昨日のうちに帰れなかったことかなぁ)
季節は夏である。
夏競馬は函館や福島、札幌、新潟などで開催される。
亜希はいつも日曜日のレースを終えるとすぐに帰路に着くようにしているが、昨日は帰ろうとしていたところで大畑と遭遇し、そのまま拉致られるように食事に連れて行かれてしまった。
もちろん、2人きりではない。調教師の池野も一緒だ。
大畑はレッドラビットが土曜日に行われた札幌2歳ステークスで優勝したため、上機嫌だった。
食事を終えてもなかなか帰してくれず、結局、亜希は札幌でホテルを探すことになった。いい迷惑である。
とは言え、浮かれる気持ちも分からなくない。札幌2歳ステークスはGⅢレースだ。亜希だって、レッドラビットを勝たせてあげることができて嬉しいし、その勝利をものすごく喜んでいた。
祝いたい気持ちがあったので、大畑の誘いをきっぱりと断ることができなかったのだ。
(そのせいで、こんなことに……)
今夜は帰れませんと伝えた時の隆哉の声音を思い出して、ずんと落ち込む。
分かったとは言ってくれたけど、あの声から感じた雰囲気は絶対に納得している様子ではなかった。
もう電車も飛行機もない。帰りたくても帰れないんだと亜希が言ったから、渋々、分かったと言ってくれただけなのだ。
(帰ったら、ごめんねって言って、ぎゅーってしよう。でも、その前にこの夢をどうにかしないと)
大抵の場合、夢の中で亜希が蒼潤の体に入っている時には、隆哉も峨鍈の体の中に入っているので、彼を見付けて話をすれば夢から覚めることができる。
だけど、今回の夢では、探すまでもなく彼の体は亜希の体の下にあった。
(なら、あとは隆哉さんの気持ちが落ち着くまで話をすればいいんだ)
前世の夢は下手をすると、数ヶ月に及ぶ長さになることがある。
もちろん、一瞬で覚めるものもあるが、それは隆哉の気持ち次第だった。
たまに見る短い夢なら楽しいものだが、夢の中で寝て起きて食事をしてもなかなか覚めない夢となると、だんだんとしんどくなってくる。
長い夢の中で自分が何者であるのか分からなくなってくるからだ。
(なんかさ、蒼潤が峨鍈にかけた呪いというより、蒼潤が私にかけた呪いなような気がする)
彼の字を呼んだきり亜希が黙ってしまったので、怪訝に思ったのだろう。
峨鍈が薄く瞼を開いて首を傾げ、顔を覗き込んできた。
「どうした?」
「もう起きたい」
亜希は彼の胸に両手を着いて上体を起こし、彼の顔を上から見下ろした。
暗さに慣れた瞳は彼の顔の造形を映し出す。
(若い)
亜希の記憶にある峨鍈はもっと老いていて、口髭や顎髭を生やしているが、目の前の彼には髭がない。
彼が髭を伸ばし始めたのは、併州を掌握した後のことなので、この夢はそれ以前なのだと分かった。
(ここ、どこだろう?)
亜希は辺りに視線を巡らせる。あまり覚えのない部屋だった。
斉城の蒼潤の部屋や峨鍈の部屋ではない。だとしたら、考えられるのは赴城か杜山城だ。どちらも滞在期間が短かった場所である。
ここがどこかで、今いつ頃なのかを知るために峨鍈から情報を聞き出すことにする。
「――ねぇ、話がしたい」
「話?」
「うん、何か話して」
眠たげな顔をしているが、煩わしく思っている様子はない。これがもし自分であったのなら、もっと寝かせてと声を荒げて、相手のことを邪険にしたに違いないのだ。
当時はまったく気が付かなかったが、峨鍈は出会った当初から蒼潤に甘かった。それが年を重ねるにつれて更に甘くなり、終いには蒼潤が何をしでかしても腹を立てることがなくなり、わがままを言えば言うほど『可愛い』と言って喜ぶようになった。
とても正気とは思えないくらいに蒼潤のことを溺愛していた。
そんな晩年の峨鍈を引きずって隆哉もかなり亜希に甘かったが、亜希がやると言いながらやらずに怠けたり、親しさに甘えて礼儀や感謝を忘れてしまったり、誤った考え方をしている時には叱ってくれるので、隆哉の方がまだ正気を保っている。
亜希は、この先だんだんと正気を失っていくであろう男の顔を見つめて、彼の中に隆哉を探した。
夢の中に長くいると自分を見失ってしまうのは、隆哉も同じであるようで、彼も同じ夢の中にいるはずなのに、峨鍈の意識の奥に潜んでしまい、隆哉であることの自覚がない場合がある。
そういう時は、隆哉の意識が表に出てくるまで待つしかないので、夢が長くなってしまう傾向にあった。
果たして、目の前の峨鍈はどうだろうかと思って彼の瞳を覗き込むと、その瞳が細められる。
彼の指先が亜希の耳に触れて、耳の縁をなぞった。亜希は思わず、ごくりと喉を鳴らす。
彼が蒼潤の耳に触れてくる時――それは彼が蒼潤とキスがしたいと思っているサインなので、そうと知っている亜希は胸がドキドキと高鳴ってしまう。
(ヤバい、ヤバい。キスしたいって言われると、私だってめちゃくちゃキスしたくなるよ!)
しかも、髭がなくて若い峨鍈はすごくカッコイイ!
彫りの深い顔に、切れ長な目が知的で涼しげだ。絶対に女にモテる男だと思う。
亜希だって、峨鍈の顔は嫌いじゃない。むしろ好きだ。その顔で見つめられると、呼吸が苦しくなるくらいにドキドキしてしまう。
ところが、残念なことに、この頃の蒼潤は亜希のように峨鍈のことをそんな風に思ったことがなかった。
蒼潤の『カッコイイ』は、夏銚が独り占めにしていたし、そもそも蒼潤の『カッコイイ』は恋愛対象に向けたものではなかった。戦隊ヒーローに憧れる少年が口にするようなレベルだ。
なので、峨鍈は指先の動きを止めて、明らかにいつもとは異なった反応を示す蒼潤に怪訝そうな眼差しを向けてくる。
しまったと思いつつも、亜希は今の峨鍈は隆也の意識が表に出ていないのだということを察した。
(隆哉さん、早く現れてくれないかなぁ)
天連、と彼が蒼潤の字を呼びながら、再び耳に触れて来る。怪訝に思いながらも欲に従うことに決めたようだ。
顔を寄せられて、亜希は瞼を閉ざす。唇に唇が触れるか触れないかの距離まで近付いて、互いの吐息が混ざる。
だけど、そこで彼がぴたりと動きを止めた。
(はぁ!? なんで!?)
わざと焦らしているのだろうか。だったら、もう我慢できないくらいだ。
もう、じれったい! そう思って亜希は舌先を出して、べろりと彼の唇を舐めた。
びくっと彼の肩が揺れて逃げるように顔が離れていったので、亜希は追って唇を突き出す。すると、あろうことか、べしりと片手で口を塞がれて、亜希は大きく目を見張った。
(拒まれた!?)
峨鍈が蒼潤からのキスを拒むだなんてあり得ない!
いつだって蒼潤からキスをすれば大歓迎で受け入れて、倍返ししてくるのが峨鍈だ。――だとすると、目の前の峨鍈は峨鍈ではないのだ。いったいいつ入れ替わったのだろうか!
亜希はムッとして、口を塞がれたまま文句を言った。
「んんんんん! んーんんんんんんっ!?」
峨鍈の眉が歪み、困っているような表情になる。
せめてキスした後に入れ替わるか、キスくらい受け入れてくれたって良いではないか。
亜希は腹が立ったので、口から彼の手を引き剥がして声を荒げた。
「どうして拒むの! いつも拒むなって言ってくるくせに!」
「だって、亜希ちゃん。その姿の蒼潤、いくつだと思ってる?」
「はぁ!? いくつかって、ええっと……、いくつなの?」
「数えで15歳」
数え年で15歳ならば、満年齢だと13歳か14歳だ。そして、蒼潤は秋生まれなので、13歳である可能性の方が大きかった。
だけど、そうは言っても、前世では蒼潤が13歳だろうと、14歳だろうと、何なら12歳だろうと、峨鍈はキスしてきたじゃないか。
そう言うと、隆哉はますます困ったような表情を浮かべた。
「前世では我慢できたけど、もう我慢できる気がしないから駄目」
「じゃあ、我慢しなくていいよ! どうせ夢の中だし、キスくらいしたっていいじゃん!」
「キスで終われる自信がないってこと」
「じゃあ、キスより先もしてー!」
「駄目だって。血塗れになるよ。臓器を痛めるかもしれないし。たとえ夢の中でもそんなことできない」
前世で峨鍈と蒼潤が初めて最後まで致したのは、蒼潤が数えで19歳の頃のことだ。
それに至るまでの5年間、峨鍈は蒼潤の体を慣らしながら、その体が大きくなるのを待っていた。今さらながら思うのだけど、その忍耐力は恐ろしいくらいに凄いと思う。
「でもね、若い時の峨鍈って、めちゃくちゃカッコイイの。自覚なかったけど、私、この顔すごく好きだったみたい」
「……」
「ねぇ、ちょっとだけ。1回だけキスしよ?」
まだ少年の蒼潤が峨鍈の体の上に乗って、彼にキスを迫っている。前世では絶対にあり得なかった状況だ。
亜希は胸が破裂してしまうくらいにドキドキして彼の唇に唇を寄せた。
ところが、ふいっと顔を背けられてしまう。もうっと憤慨すると、隆哉の方も拗ねたような顔をする。
「亜希ちゃん、ごめんね。亜希ちゃんの好みとは違う顔になってしまって」
「はぁ? 何言ってんの?」
「顔も声も体も、峨鍈のものとは違うものになってしまった俺では亜希ちゃんに好かれなくて当然だよな」
「もうっ、何言ってんの! 好きだよ。私は隆哉さんが好きだよ。顔も声も体も。手の大きさも、抱き締めてくれる腕の強さも。全部好き!」
昨夜帰宅することができなかったから拗ねているのだ。
面倒臭い男だと思いつつも、好きだという想いは本当なので、それを全力で伝えてやる。
「好き好き好き! すごく好き! 昨日は帰れなくてごめんね! 起きたらすぐに帰るし、帰ったらいっぱいぎゅーってして、ちゅうするから許して。ごめん!」
「亜希ちゃん……」
「うん」
「大畑さんって、唔貘だよね?」
「うん」
「危険な目には遭わなかった?」
「大丈夫だよ。大畑さんはただの馬好き。顔は怖めで、口は悪いけど、根は良い人だよ」
「他の男を『良い人』って褒めるのやめてくれる?」
「ごめん。でも、べつに褒めたわけじゃなくて、『良い人』って言ったのは、隆哉さんに安心して貰いたくて」
「安心なんてできるわけがないよね? 夜遅くまで一緒にいたんでしょ?」
「いたけど、池野さんも一緒だったし……」
「池野さんも『良い人』だよね?」
「う……うん…」
「亜希ちゃんにとっては『良い人』でも、今日中に帰りたいって言っている20歳そこそこの女の子を電車が無くなるまで連れ回す大人を俺は『良い人』とは言わないよ」
「……」
「池野さんと大畑さんに抗議の電話をかけるから」
「やめて。本当にやめて。これからは私がしっかりするから。本当にごめんなさい!」
ぐっと頭を下げて謝る亜希に、隆哉はため息をつく。
亜希の髪を掻き交ぜるように頭をくしゃりと撫でて、一変して優しげな声音で言った。
「絶対にその日のうちに帰って来いと言っているわけじゃないんだ。レースで疲れてしまったり、どうしても断ることのできない人付き合いで遅い時間になってしまうこともあると思う。そういう時は無理せずホテルに泊まってもいいんだよ。だけど、21時にはホテルに入ること。電車が無くなってから連絡してくるのではなく、もっと早い段階で連絡して。さすがに札幌や函館までは迎えに行けないけど、新潟や福島くらいなら5時間くらいで行けるから」
「5時間!? いやっ、無理。仕事した後に5時間も運転させられないよ」
隆哉は、土日は東京で仕事しているわけで、いつもなら日曜日に仕事を終えると車で2時間ほどかけて帰宅する。
その途中で、同じく帰宅途中の亜希を拾って貰うこともあるが、自宅を通り越して新潟や福島まで迎えに来て貰うなんて彼の負担が大き過ぎてあり得ない話だ。
「とにかく、私これからはしっかりする! だから、もう怒るのやめて」
「怒ってない」
嘘だと思って見やると、彼はもう一度、怒っていないと言った。
「ただ、心配してるだけ」
「ごめんね。心配かけて、本当にごめんなさい」
「分かってくれたのなら、もういいよ。――そろそろ起きようか。せっかく夢の中で会えたのだから、少し楽しもう」
「楽しむって?」
「前世でのこの頃に蒼潤とできなかったことがしたい」
「どういうこと? あと、ここどこ?」
「杜山城だよ。さほど寒くないところをみると、叛乱を鎮定した後のようだ」
「叛乱を鎮定した後、たしか視察に出掛けたよね? 視察に行く前? 行った後?」
行く前であれば、季節は春だ。鎮定直後で城内は慌ただしいはずであり、峨鍈には蒼潤を構っている時間があまりない。
対して、視察から戻って来た後であれば、季節は秋である。城内は収穫に浮かれているが、杜山郡の情勢は落ち着きを取り戻しており、峨鍈にもゆとりがある。そろそろ斉郡に戻ろうかという話が出てくる時期だ。
どちらにせよ、葵暦192年の夢を見ているようだった。
「天連様、お目覚めですか?」
不意に隣の室から呂姥の声が響く。
返事をすると、呂姥が秋に好まれるような色合いの衣を持って臥室に入って来たので、亜希は隆哉と目配せを交わした。
呂姥に身支度を手伝って貰って着替えると、隣の室に移動する。すると、玖姥が朝餉の支度を整えていた。
芳華と徐姥の姿が見えないので、どうしたのだろうかと思うがすぐに思い出す。
(そっか。この時期は芳華と徐姥は側にいないんだ)
芳華と徐姥はわけあって赴城に置いてきている。
そのわけというのは、芳華に深江郡主の身代わりをさせることである。蒼潤はこの頃、夏昂という偽名を使って峨鍈の側にいるので、赴城で夫の帰りを待っている深江郡主という態を装うためにも身代わりが必要だったのだ。
朝餉を終えると、隆哉は散歩に行こうと亜希を誘った。
亜希に否はなかったが、いざ門を出ようとすると、書簡を抱えて仕事にやってきた孔芍や潘立と出くわし、隆哉が彼らを追い返したのを見て申し訳なく思う。
(でも、まあ夢だし。いいかぁ)
所詮、夢の中なので、峨鍈が一日仕事をサボったところで前世のあれこれが変わるわけがないのだ。
そう思い直して彼の手をぎゅっと握ると、彼が驚いたように振り向いて瞳を細める。そして、小さい蒼潤の体を抱き上げてくれた。
峨鍈は蒼潤の体を抱き上げて運ぶのが好きだ。そうしている間は蒼潤が彼の腕の中から逃げることがないからである。
対して、隆哉は亜希を抱き上げて運ぶなんてことはしない。ソファで寝落ちしてしまったとか、そういう時は別の話だが、隆哉が無闇に亜希を抱き上げないのは、彼が亜希の意志や自由を尊重してくれている証なのだと思う。
自分の足で歩ける時は歩いて良く、行きたい場所に行って良いのだという想いの表れだ。
だけど、亜希は今、彼の腕の中に閉じ込められて嬉しかった。ちょっとくらい不自由でも幸せだと感じる。
「どこに行くの?」
「遠乗りに行くのはどうかな?」
「いいね! ああ、でも、隆哉さん。峨鍈の姿なのに、口調が隆哉さんなのは面白すぎるからやめて」
「亜希ちゃんこそ、姿は生意気な蒼潤なのに、口調が俺のことが好き過ぎる亜希ちゃんで可愛すぎるよ」
「それって、やめた方がいいの?」
「やめなくていい。だけど、キスしたくなる」
「あははははは! していいのに!」
亜希は両腕を彼の首に回して、ぎゅーっと抱き着いた。
峨鍈が外城に向かうと見て、張隆が配下の兵士と共に追って来る。甄燕も深江軍の兵士を数人連れて追って来る。
張隆は峨鍈の親衛隊長で、蔀城での夜襲で死んでしまうが、この夢の中ではまだ死んでいなくて、その姿を見ると胸が熱くなってしまう。
そして、甄燕は記憶よりもずっと若い。蒼潤が数えで15歳ならば、甄燕はそれよりも2つ年上なので数えで17歳だ。現代風に言えば、中学3年生か高校1年生くらいの少年である。
厩に向かって歩いている途中で、やはり峨鍈に用事があってやって来た柢恵と出会った。彼が生きて動いている姿を見ただけで亜希は胸がじんとなった。
「柢恵だ。柢恵がいる!」
亜希が大きな声を出すと、柢恵は怪訝顔になって視線を亜希に向けてくる。
その顔ときたら、なんだよ、いたら悪いのかよ、と言いたげな顔だ。おかしくなって亜希が体を震わせて笑っていると、柢恵は峨鍈に向き直って言った。
「麦の収穫量についてお話があります」
「後で聞く。今からこいつと遠乗りに出掛けるところだ。急ぐ話ではないのだろう?」
「はい、急ぎではありません」
そう言いつつも柢恵が不満げな顔をしたので、隆哉は峨鍈の顔で苦笑を漏らして柢恵の頭をくしゃりと撫でた。
「必ず後で時間を取り、お前の話をゆっくりと聞く」
あっ、と柢恵は短く声を上げて顔を赤らめる。
自分の幼稚さを見抜かれてしまったことを恥じている様子だった。拱手して頭を下げると、逃げるように去って行った。
「柢恵が可愛い! 当時はまったくそんなこと思ったことなかったのに不思議。大人になってから同じ本を読み返すと、違った感想になるって、以前、律子さんが言っていたけど、こういうことかなぁ。大人になってから過去の出来事を見返すと、違った見方が出てくるみたいな?」
「普通は前世の出来事を見返すことなどできんがな」
「それはそうだね」
やめてと言ったので、隆哉は口調を峨鍈のものに変えてくれたが、これはこれで面白いものがあって、笑いたくなってしまった。
厩に着くと、亜希は地面に足を下ろして貰って、馬丁に馬を出して来て貰う。
蒼潤はこの頃、牙爪という名の馬に乗っていた。なかなか気難しい性格の馬で、気持ちを作ってやらないと走ろうとしない馬だったことを覚えている。
一方、峨鍈の馬は影彩だ。影彩も蔀城の夜襲で命を落としてしまうので、生きてくれているだけで愛おしい。
馬の手綱を曳きながら内城の大門を抜けて、大通りを歩く。
騎乗しても良かったのだが、大通りの露店の様子を眺めながら行くのも楽しいので、そうしたいと亜希が言ったのだ。
雲吞や饅頭を売っている店を覗いたり、前世ではまったく興味がなかった簪や耳飾りなどの装飾品を並べている店を覗いたりしながら歩いていると、まるでデートをしているみたいだ。
そう言うと、隆哉は肩を揺すって笑った。
「みたいではなく、デートだ」
「えっ」
「最初から俺はそのつもりで誘った」
「そうなの⁉ なんだぁ、デートだったのか。嬉しいなぁ。だって、前世ではそういうのなかったよね」
「遠乗りデートしていただろ?」
デートという単語が峨鍈の口から出てくると面白い。絶対に前世ではあり得ないことだからだ。
しかし、亜希には遠乗りデートなんてものをした覚えがなかった。
「もしかして、互斡国で遠乗りに出掛けた時のこと?」
「いや、葵陽に移り住む前のことだ。他にも何回かあっただろう」
「あったかもしれないけど……。でも、どれもデートって感じじゃなかったよ」
「心外だ。俺はそのつもりだった」
「ええー。なんか、ごめん……」
しゅんとして謝れば、彼は亜希に視線を向けてニヤリとする。
その顔を見て、揶揄われたのだと分かった。ぷうっと頬を膨らませると、彼は声を立てて笑った。
その時だ。不意に見知った人影を見付けて、あっと亜希は声を上げた。大通りの人混みに紛れて胡氏の姿がある。
「阿娘だ!」
蒼潤の声を聞きつけて、大きな体をした女がパッと亜希たちに振り向いた。
胡氏。――彼女は夏銚の妻である。
現世においては、杏奈として生きており、隆哉の従兄である城戸の妻である。
胡氏も蒼潤たちの姿に気が付くと、大きな胸を左右に揺らしながら歩み寄ってきて、峨鍈に向かって拱手した。
彼女の後ろには彼女の侍女たちが控えている。
「峨様、ご挨拶申し上げます」
杏奈もぽっちゃりとした体型であるが、胡氏は更にお肉がついている感じで、胸と尻がとにかくでかい。そのため、その姿は遠目にもよく目立っていた。
はっきりと言えば、太っているわけだが、ひと言でデブと言っても、デブには2種類いる。
動けるデブと動けないデブである。そして、胡氏は前者だった。
彼女の運動能力は非常に優れており、弓を引かせれば、並みの兵士よりも数段上手に射ることができた。
槍や戟も振り回せるので、戦闘能力値はかなりのものだと思う。絶対に敵に回してはいけない女であるが、幸いなことに蒼潤は胡氏のことが大好きで、胡氏も蒼潤のことを『昂』と呼び、実の息子たち以上に可愛がってくれていた。
「昂、またうちに食事にいらっしゃい。あなたの好物をたくさん用意して待っていますからね」
「うん。近いうちに食べに行くね」
胡氏は侍女たちを引き連れて食材を買いにきたのだろう。
夏家の女主人であるので、そのような雑用をする必要はないのだけど、胡氏は自ら料理したり、夫や子供たちの衣を繕ったり、彼らのためになることは何でも自らやらなければ気が済まない質だった。
そういうところは現世の杏奈と同じだ。杏奈も城戸と結婚した後は専業主婦となり、家族のために尽くすことに一切の妥協をしない妻であり、母だった。
(蒼潤だった頃は何とも思わなかったけど、同じ女になってみると、家族のために全力で尽くしている女性って、ちょっと怖いところがあるよね)
きっと自分にはそこまでできないからそう思うのだろう。
それに、家族のために尽くすことが女の絶対的に幸せではないと言われるようになった現代において、旧時代のような生き方をしている杏奈に疑問を抱いてしまうからだ。
だけど、そのような生き方が胡氏や杏奈の幸せに繋がるというのであれば、亜希がとやかく言う筋合いはない。
結局のところ、幸せなんてもののカタチは人それぞれだからだ。
胡氏と別れて再び城門に向かって歩き出した。
「ねぇ、隆哉さん」
「ん?」
「杏奈さんみたいに私がずっと家にいたら嬉しい? ほら、峨鍈はさ、ずっと蒼潤のことを邸の奥に閉じ込めたがっていたでしょ? 隆哉さんも本当は私のこと閉じ込めたいと思っていないの?」
「それは……」
だんだんと大きく見えてきた城門を真っ直ぐに見つめながら彼は言う。
「閉じ込めたいな。俺だけのものにして、他の誰の目にも触れさせたくない」
「じゃあ、やっぱり杏奈さんみたいに尽くされたい?」
「女に尽くされて喜ばん男はいないだろう。だがな、俺は亜希ちゃんに杏奈のように尽くして貰いたいわけではない。杏奈を否定するつもりはないが、亜希ちゃんには亜希ちゃんのやりたいことがあるだろ? 杏奈のようになる必要はない」
城門の左右に兵士が数人ずつ立っており、出入りする人々に視線を向けている。
彼らは峨鍈の姿に気付くと、表情を引き締めて背筋を伸ばした。
隆哉は彼らの前を通り過ぎると、亜希に振り向いて言葉を続ける。
「俺はやりたいことをやっている亜希ちゃんが好きだ。亜希ちゃんの重荷になるつもりも、邪魔をするつもりもない。ただ、亜希ちゃんが危険な目に遭ったり、嫌な想いをしないように守りたい」
「うん」
返す返すも、昨夜の自分の行動は軽率だったなぁと思って反省する。
亜希が危険な目に遭ったり、怖い目を見れば、隆哉が悲しむのだと心に留めておこうと思う。
城門を抜けて城外に出る。
叛乱によって荒廃した土地が田畑として続々と復興していく兆しを見せていた。
その様子を見渡しながら亜希は騎乗する。同様に愛馬の背に跨った隆哉がその脇腹を蹴って駆け出した。
亜希も牙爪の脇腹を蹴って駆けさせる。2頭の馬は並んだり、追い抜いたり、追い抜かれたりしながら、思う存分に駆けていった。




