【20歳 文月 前世から続く嫉妬心】
『はあ? ないない。あり得ない。無理だから、無理って言っておいてくれよ』
スマホ画面の中の市川が大きく片手を振って言った。
だよねぇ、と亜希も市川に同意する。そして亜希は、亜希が枕代わりにしている膝の持ち主をちらりと見上げた。
彼はソファに深く座り、タブレットを操作して仕事をしている。亜希は彼と同じソファに寝転んで、市川とテレビ電話をしているのだが、市川は隆哉が亜希のすぐ傍にいて、自分たちの会話に耳を澄ませていることを知らなかった。
なので、亜希はスマホの画面を傾けて、市川に隆哉の姿が見えるようにしてやった。すると、すぐに悲鳴が上がる。
『おっ、お前っ、先に言えよ! 殿、近くにいるじゃんか!』
「逆になんでいないと思ったの? いつも真っ先に隆哉さんのことを聞くのに今日は聞かなかったし」
『久坂が俺に電話してくる時って、大抵、殿不在な時だっただろ?』
「ほお……」
市川の言葉に隆哉がタブレットの画面から視線を逸らさないままに低い声を漏らした。
まるで夫の不在中に他の男と悪いことをしている妻みたいな言い方を市川がしたからだ。その場合、市川が浮気相手ということになるので、まったく笑ってしまうような話だ。
「――で? 新会社の社長にしてやると言っているのに、何が不満なんだ?」
ようやく顔を上げた隆哉が放ってきた言葉は、亜希ではなく市川に向けられたものだったので、亜希はスマホのカメラを隆哉の顔に向けた。
隆哉の口調は、ほとんど峨鍈のものになっていて、ビビりまくっている市川の声がスマホから響いて聞こえてくる。
『えー、だって。俺、今、殿と一緒に働きたくて勉強しているんですよ。それなのに、別会社に行けだなんて、ひどくないですか? その新会社って、殿はノータッチなんですよね? 俺、嫌ですよ。別の人に頼んでください』
「市川、俺がせっかく……」
「待って、隆哉さん。仕方なくない?」
昔なら有無を言わさず命令すれば良いが、現代では嫌だと言う者に強要はできない。
それに、亜希には市川の気持ちが分かるのだ。市川は前世の頃から隆哉のことが好きで、彼の力になりたいと願っている。そのために留学までしたのだ。
それなのに、隆哉の側で働けないだなんて市川には納得できる話ではない。
そう亜希が市川のためにひと肌脱いで説得を試みると、隆哉は、分かったと言ってため息をついた。
「新会社は別の者に任せるとする」
『そうしてください。――ああ、よかった。俺、何のためにこんなところまで来て勉強しているのかと思った』
「彼女ほっぽらかしてね」
亜希は隆哉に向けていたスマホを自分の方に向け、画面の中の市川の顔を見て言った。
「早苗、可愛いから大学でモテモテになっているかもよ?」
『藤堂さんはさ、確かに可愛いんだけど、中身がかなり強めの腐女子だから、彼女の話についていける男は滅多にいないと思うんだ。だから、たぶん大丈夫』
「たしかにー」
目から鱗だという表情で市川を見やると、市川は、ぶはっと噴き出した。
『久坂の方が付き合いが長いのに』
「だって、私には競馬学校時代のブランクがあるし。しかもさ、まさにその期間に腐女子になってたじゃん」
『前世込みなら、断然に長いだろ』
「そうだけどさ、前世では腐女子じゃなかっ……たし? あれ? 前世でも腐女子だったのかも? 腐女子っていう概念は無かったけど、芳華って、かなりクセのある子だったし」
「芳華は時々、隣の部屋で峨鍈と蒼潤の情事を盗み聞きしていたな」
「ええっ!? そうなの⁉」
「もっとも侍女として控えていただけだと言えば、そうなのだろうが」
「だから早苗の描いた漫画って、覚えのあるセリフがあったりするのか!」
なんてこった! と亜希は恥ずかしくて頭を抱えたくなった。
あの時代の主従間には、プライバシーなんてものは、ほぼない。身分が高ければ高いほどその傾向があって、皇帝レベルになると、排泄の回数まで記録に記されるし、夜の営みに至っては、いつ誰とどこで何回やったかを記録される。
皇帝の健康状態を把握し、維持することは大切なことだし、妃たちが身籠った時には腹の子が皇帝の血を受け継いでいることを確かめるために性交の記録は重要だからだ。
――だとしたら、孕むことのない蒼潤の夜の営みを記録する必要はないはずだ。にも関わらず、隣室で控えていたのはなぜだろう?
(ああ、なるほど。あれだ。ほら、万が一、蒼潤のお尻の穴が裂けちゃったりして、大惨事が起きた時のために控えていたというわけだな。……いやいやいや! そんなわけあるかっ。絶対に芳華は自分の好奇心を満たすために隣の部屋に控えていたんだ!)
後で早苗に連絡して問い詰めてやろうと思いながら、亜希は市川に別れの挨拶をして通話を切った。
亜希が腕を伸ばしてスマホをローテーブルに置くと、それを見て隆哉もタブレットを手放す。彼は自分の膝に頭を乗せている亜希に瞳を細めて、亜希の頭を撫でてくる。
「亜希ちゃん、市川とよく電話しているの?」
「ん-ん。よくってほどじゃないよ。市川、忙しそうだし」
「俺がいない間に電話しているんだよね?」
「隆哉さんがいるのに、市川と話す必要がある?」
隆哉は表情こそにこにことしているが、言い方に棘があるように感じて亜希は彼の問いにわざと問いで返した。
「――まあ、今のは隆哉さんがいても市川と話したくなっちゃって電話しちゃったけど」
亜希は隆哉の顔を見上げて、そう言えば、と昔を思い出して言う。
「峨鍈って、蒼潤が柢恵と2人きりでいると、妙に不機嫌になっていたけど、あれって、なんでなの?」
「分からないの?」
「分かんないから聞いているの」
「柢恵は蒼潤のことが好きだったんだよ」
「えっ?」
「最期まで自覚してなかったけどね。蒼潤が好きだったから、蒼潤が勧めてきた縁談を受け入れたし、北方から戻ることができないと分かった時も、妻の芳華の名前ではなく、蒼潤の名前を書き殴った紙を部屋の床一面に散らして息絶えた」
「初耳なんだけど……?」
「峨鍈は蒼潤に伝えていないし、俺も小説には書かなかったからね」
「なんで?」
「柢恵さえ自覚していない想いを蒼潤に伝えるつもりはなかったし、まして、小説で晒すつもりもなかったから」
「へぇー」
亜希はなんて言ったら良いのか分からなかった。
昔のことを思い出してみるのだが、柢恵にそんな素振りはなかったように思うし、市川に至っては完全に友達だ。
中学生の頃から早苗と付き合っていて、2人の仲の良さを見せ付けられてきたので、隆哉の話を聞いてもまるでピンと来なかった。
「えっ、なくない? 峨鍈の勘違いじゃない?」
「いや、違う。蒼潤は柢恵の死に目に会っていないけど、峨鍈は柢恵の最期の言葉を聞いているから。あいつは、天連に会いたいと言って死んだんだ」
「……紙、どうしたの?」
「紙?」
「だから、柢恵が書き殴ったっていう蒼潤の名前が書いてある紙。意識が朦朧としている状態の最期の言葉はさ、ほら、聞き間違いとかあるじゃん? 天連じゃなくて、春蘭って言ったのかもしれないじゃん。でも、紙は確かな証拠なわけだから、紙を見せてくれたら信じられるかも……?」
「あんなもの見せられるわけがない。柢恵の強い想いが込められていたんだ。その場ですぐに燃やした」
「じゃあ……っ」
信じることはできないと言おうとして亜希は、むむっと眉根を寄せた。
峨鍈がその場で燃やしていなかったとしても、そんな紙が現代まで残っているわけがないので、彼が亜希に見せられるわけがないのだ。
亜希は体を起こしてソファに座り直すと、頬を膨らませて隆哉を睨んだ。
「どうして今その話をしたの? そんな話を聞いちゃったら、これから先どんな顔をして市川と話せばいいのか分からなくなる」
「ごめん。――峨鍈は長らく後悔していたんだ。蒼潤に伝えるべきだったんじゃないかって」
「そんなこと伝えられたら、蒼潤は号泣するよ。柢恵が死んだってだけでも号泣したのに!」
「そうだよね。だから、伝えられなかったんだ。――もちろん、嫉妬心もあったけど」
「嫉妬心……? 嫉妬ね……。蒼潤には峨鍈しか見えてなかったじゃん!」
蒼潤の気持ちを信じていなかったのかと亜希はぷんぷんと怒って、隆哉の胸に拳を当てる。
すると、彼は亜希の手を握って、ごめん、ともう一度謝ってきた。
「信じてなかったわけじゃなくて、峨鍈の心が狭すぎたんだ。それに俺もそう。俺の心も狭すぎて、亜希ちゃんが他の男と話していると思うと、イライラしてしまう」
「市川が相手でも? 市川、友達なのに? 隆哉さんだって市川のこと好きじゃん。好きだし、可愛がっているから、学費を援助しているんでしょ?」
「それはそれ」
「……」
亜希はあんぐりと口を開ける。
この会話の終着点が見えなくて、どうしたら良いものかと悩んでしまう。
「ええっと、私、どうしたらいいの? 市川と友達を続けてもいいんだよね? 隆哉さんがいないところでは市川と話したり、会ったりしない方がいいの?」
「市川に限らず、他の男と話すのはやめて欲しい」
「それは無理かな。人類の半数は男だからね」
「うん、分かってる。だから、譲歩して、他の男と2人きりになるのは避けて欲しいかな」
「3人いればいいんだね。でも、森内と2人で帰るのは?」
「それは良しにしよう。夜遅くなりそうな時は一緒に帰っておいで」
隆哉の中の森内への信頼度が妙に高くて面白い。
森内の前世は郭元だ。郭元は深江軍の一員で、蒼潤の死後は甄燕と共に峨驕に仕えて、甄燕が率いた軍の副将を務めた人物だ。
「じゃあさ、隆哉さんは? 私だけに制限を設けるのはフェアじゃないと思うの。隆哉さんも同じ条件で行動を慎むべきだよね?」
「なるほど。一理あるね」
「隆哉さんも他の女の人と2人きりで話したり、会ったりするのは無しだけど守れるの?」
「仕事の関係で、2人きりになってしまうことがあるかもしれない」
「じゃあ、私も仕事の関係で2人きりになってしまうことがあるかもだね」
「……」
「……」
「……亜希ちゃん」
「うん」
「好きだよ」
「うん、私も好き! 大好き! だから、今の話は全部無しだね!」
そう言って亜希が隆哉の首に両腕を回して抱き着けば、隆哉が渋々といった様子で、うん、と頷いて亜希を抱き返してきた。
はああああ、と隆哉がため息をつく。
「亜希ちゃんって、蒼潤と違って一筋縄にはいかないよね」
「蒼潤の方が可愛げがあって良かったなぁ、って思っているんでしょ?」
「まさか。亜希ちゃんがちゃんと拒絶してくれるから、俺は安心して君を求められるんだよ」
「ふーん? そういうことにしておいてあげるね」
「本当なのに」
「うんうん」
「亜希ちゃん」
「んー?」
「キスしていい?」
「いいよ。隆哉さん」
「ん?」
「キスよりももっとすごいことしてもいい?」
ぶっ、と隆哉が亜希の言葉に噴き出す。はははっ、と笑って、可愛い、可愛いと言いながら亜希の頬に口づけてくる。
亜希は隆哉の膝の上に乗ると、お返しとばかりに隆哉の頬に口づけて言った。
「早く押し倒して。私だって、隆哉さんのこと求めてるから」
額を擦り合わせて瞳を合わせると、隆哉が亜希の背を支えながらゆっくりと亜希の背をソファに沈めていった。




