第8枠 老医師
背中にかかる重さは、思ったより軽かった。
神威の効果がまだ残っているのか、それとも彼女自身がそれほど軽いのか。たぶん、両方だろう。
それにしたって軽すぎるが、この人はちゃんとご飯を食べているんだろうか。走りながらそんな心配が湧いてくるくらい、背中に伝わる重みは頼りなかった。
気休めにはなるかもと思い、軽く回復効果がありそうな鼻歌を歌いながら、足早に森の出口へ向かう。
木々の間を抜けると、開けた場所に出た。
「コトギ!!無事だったか!」
視界に飛び込んできたのは、地面に倒れ伏した巨大なクマに似た魔物だった。体長は軽く3メートルを超えている。
あれがBランクの魔物か。グールドッグやレグスパイダーとは、感じる気配が違う気がした。
その傍らで、ガイさんが大きな剣を鞘に収めており、彼は返り血ひとつ浴びていなかった。
新人たちは少し離れた場所で固まっていたが、怪我をしている様子はなく、ただ全員の顔に、緊張の抜けきらない色が残っていた。
…あれを一人で、しかも、この短時間で倒したのか。
元Aランクという肩書きの意味を、俺は初めて目の当たりにした気がした。
ガイさんが駆け寄ってくる。
「よく無事だった。さっきの女性も…命に関わるような外傷は無さそうだな。気を失ってるだけか?」
「はい。見た感じ傷は浅いんですが、かなり消耗してるみたいで」
「魔物はどうした」
「えっと、3体とも…倒しました」
「…あとで詳しく聞くからな」
ガイさんは一瞬何か言いたげな顔をしたが、すぐに頭を切り替えたようだった。俺が背負っている彼女の顔色を見て、即座に判断を下す。
「ギルドへ運んで、常駐の医者に診てもらった方がいいな。そのまま背負っていけるか?」
「大丈夫です」
「よし、念のため急ぐぞ、遅れるな!」
一行は街に向かって走り出した。
◇
ギルドの医務室は、ギルド建物内の奥まった場所にあった。
医師は白髪の小柄な老女だった。俺が彼女を寝台に横たえると、すぐに診察が始まる。手慣れた動作で傷の具合を確かめ、脈を取り、まぶたを開いて瞳を覗き込む。
ガイさんと新人たちは廊下へ出され、俺も続こうとしたところで、老女にひらひらと手招きされた。
「あんたが連れてきたんだろう。見つけた時の話を聞かせておくれ」
森の崖際で魔物に囲まれていたこと、自力で石を投げて抵抗していたこと、礼を言った直後に意識を失ったこと。順に説明すると、老女は手を動かしたまま、ふんふんと頷いて聞いていた。
やがて、診察が終わったようだ。
「大きな怪我はないよ。傷は表面だけで、すぐ塞がるだろうさ。問題は栄養失調と、疲労からくる衰弱だね。ろくに食べてない体で、相当な無理をしたんだろう。…あんたの見立て通りさ。よく判断できたさね」
「それは、どうも」
ご飯を食べているのか心配になるほどの、あの背中の軽さは気のせいじゃなかったわけだ。胸の奥が、少しざらついた。
「ゆっくり休めば、明日には目を覚ますだろう。今日一日はここで寝かせておくのが一番いい。……ところで、この子の素性は?」
「初めて会ったので、分かりません。名前も、まだ」
「そうかい」
老女は特に驚いた様子もなく、書類に何かを書きつけた。身元不明の患者を引き受けるのは、冒険者ギルドでは珍しくないのかもしれない。
「なら、療養室の費用は誰が持つんだい?一日分だがね」
……あ、これ、請求されているな。
ちらりと寝台を見る。彼女の装いはあちこち破れて、荷物らしい荷物も見当たらない。所持金がある望みは、限りなく薄そうだった。
昨日の酒場の稼ぎが、腰の小袋に入っている。宿代と食費を引いたら、ほとんど残らない額になるけれど。
真っ赤な瞳の奥に浮かぶ、白い十字の紋様が、ふと脳裏をよぎった。
助けてくれて、ありがとう。
最後の力を絞り出すみたいに言った、あのかすれた声が、まだ耳の奥に残っている。
「…俺が、払います」
「かっかっかっ!優しいねぇ。なんだい、一目惚れでもしたかい?」
「ち、違いますよ!成り行きというか、責任というか、俺に払えっていう圧力だったじゃないですか!」
「かっかっか!いい冒険者だ」
老女は楽しそうに笑いながら、明日もまた来ておくれ、と言った。
…はぁ、冒険者になって二日目で、こんなイベントを引くとはなぁ。ゲームなら初心者限定の優しい難易度の特別シナリオで大量の報酬が定番なのに…。
俺は寝台の彼女にもう一度だけ目をやってから、医務室を後にした。
廊下に出ると、ガイさんが壁に背を預けて待っていた。新人たちの姿はもうないようだ。
「どうだった?彼女の様子は」
「栄養失調と疲労だそうです。明日には目が覚めるだろうと」
「ならよかった。…さて」
ガイさんの目が、すっと細くなった。
「次はお前の番だ、コトギ。聞きたいことが、山ほどある」
「…ですよね」
知ってた。そりゃ問い詰められるよな、新人冒険者が無理な状況を解決したら。
案内されたギルドマスターの執務室は、書類の山と武具の手入れ道具が混在する、雑然とした部屋だった。ソファを勧められ、向かい合って座る。
「単刀直入に聞く。レグスパイダー3体を相手に何があった?時間を稼げとは言ったが、お前、伸びてますと言ったな。倒したのか?」
「はい。その、3体とも」
「武器はもってなかったよな」
「はい、素手です」
「…はぁ~~~、」
ガイさんはこめかみを揉み、深く息を吐いてから、もう一度俺を見た。
「…順を追って話してくれ」
俺は話せる範囲で正直に話した。神威を全力で使ったこと。体が赤い光に包まれたこと。体の動きが軽くなり、魔物の攻撃も見えるようになって、避けて殴ったら、魔物が吹き飛んだこと。
「全力の神威、か。他の新人たちにかけたバフの三割であれだ、まあ、相応の出力になるのは分かる。だがな、コトギ。バフで身体能力が上がるのと、Dランク3体を無傷で捌く戦闘技術は、別の話だ。その戦闘技術は誰に習ったんだ?」
流石はギルドをまとめる長だと思うほど鋭い指摘だ。
まさか、前世で格闘ゲームをやり込んでいたので技のイメージが体に染みついてました、とは言えない。言えるわけがない。
こういう時は、あれだ。TRPGで鍛えた即興の設定構築能力の出番である。
「…実は故郷で、師匠に教えてもらってました。スキルに頼らず、体の使い方だけを叩き込まれました。型と、師匠と組みをずっと繰り返してました」
「ほう、流派は」
「一子相伝なので、名乗ることを禁じられていて」
「師匠の名は?」
「それも、明かすなと」
「住んでた国の名前は?」
「…東の、遠い遠い場所にある、島国です」
「随分と秘密が多いな、おい」
ガイさんの目が完全に疑いの色である。だらだらと変な汗が出る。設定を盛りすぎたか?TRPGなら今ごろGMに苦笑いされているかもしれない。
「す、すみません!怪しいのは分かってます!でも、冒険者が初めてなのは本当で、人を騙すつもりとかは全然なくてですね…!」
半ばやけくそで頭を下げると、ガイさんはしばらく俺を見つめ――それから、ふっと肩の力を抜いた。
「…まあ、いい」
「いい、んですか」
「ギルドは冒険者の過去を詮索しない。それが鉄則だ。脛に傷のあるやつも、事情を抱えたやつも、ここでは依頼の達成歴とギルド証が全てだからな。それに」
ガイさんは、にっと笑った。
「お前は昨日今日で、嘘のつけない奴だってことだけは、よーく分かった。隠し事は下手くそだが、いざという時に仲間と他人のために体を張る。ギルドマスターとして信頼すべきべきは、そっちだからな。
悪かった、ちょっと気になって深く聞いちまったが、さっきのやり取りは忘れてくれ」
「ガイさん…ありがとうございます!」
「ただし、忠告はしておくぞ。お前のその力は、世間でかなり目立つものだ。今日みたいな真似を人前で重ねれば、善意だけじゃないやつらも寄ってくる。力は、考えて使え。いいな?」
「はい。肝に銘じます」
「よし、説教は終わりだ!」
ガイさんはソファにどんと背を預けた。そして、さっきとはまた違った雰囲気の真剣さを話しはじめる。
「それよりも気にしなくちゃならん問題は、魔物の方だ。低級しか出ないはずの区域に、DランクどころかBランクまで湧いた。こんなことは、ここ数十年なかった。何かがおかしい」
「原因の心当たりとかは?」
「ない。だからこれから調べるしかないな。…で、唯一の手がかりが、お前が拾ってきたあの嬢ちゃんだ。あの状況からして、何かを見たか、何かに巻き込まれている可能性が高い。明日、目が覚めたら話を聞くつもりだ。お前も同席してくれ。命の恩人がいた方が、向こうも話しやすいだろう」
「分かりました」
「よし、今日はもう帰って休め。…初依頼で人命救助に魔物3体の討伐、ご苦労だったな、ひよっこ」
どうやら、生まれる前の卵から、ひよこくらいには認められたようだ。
◇
宿に戻った頃には、すっかり日が落ちていた。
部屋に入るなり、ベッドに倒れ込む。
天井を見上げて今日一日を整理しようとしたが、情報量が多すぎて、頭の中で渋滞を起こしそうになった。
初依頼に出て、イレギュラーな状況になって、D級の魔物3体と戦って、女性を助けて、医者に運んで、ギルドマスターの尋問を切り抜けた。…切り抜けたか?あれは。温情で見逃された、が正しい気もするけど。
これで、まだ二日目だ。
この世界のペース早すぎないか。前世の俺の一週間より、今日一日の方が濃い気がする。
体の奥から、ずしりとした疲労が押し寄せてきた。今まで感じたことのある倦怠感とは種類の違う、芯からにじんでくるような疲れだ。神威の全力は、どうやら使った後にツケが来るらしい。
まぶたが落ちる前に、習慣のように、ダッシュボードを呼び出した。
現在の視聴者 4
スキル欄は変わらず。ただ、画面の隅に、小さな通知が灯っていた。
お知らせ
秘匿項目の解放条件が、一部進行しています
「…進行?」
詳細を見ようとしても、それ以上は何も表示されない。進捗バーすらない。どこまで進んでいるのか、何をすれば満ちるのか、一切不明。
「運営、せめてパーセントくらい出してくれよ……」
文句を言う気力も、そこまでだった。
画面を閉じる。
そして、閉じたまぶたの裏に最後に浮かんだのは、ルビーのような赤い瞳だった。瞳孔の奥に白い十字を宿した、人形みたいに綺麗な、あの目。
…明日、目が覚めたら、何を話せばいいんだろうか。
初対面の女性との会話なんて、前世から数えても記憶にない難易度のクエストだ。D級の魔物3体より、よっぽど怖い。
まあ、なるようになるか。いざとなったら、そそくさと逃げよう。
我ながら雑な結論に落ち着いたところで、意識はあっさりと、深くへと沈んでいった。




