第2枠 異世界で最初のリスナーは…
土と、草のにおいがした。
じっとりとした腐葉土の湿り気と、青臭い草の香りが鼻の奥に滑り込んでくる。重たいまぶたを持ち上げると、視界いっぱいに緑が広がっていた。
体を起こすと、手のひらに葉っぱや小枝が張り付いていた。
ここは……森、か。
頭上では木の枝が複雑に絡み合い、その隙間から朝の光が幾筋も差し込んでいる。木々が枝先を揺らすさらさらという音に、鳥のさえずりが重なって聞こえた。配信部屋の機材のファンの音と、エアコンの稼働音に囲まれて生きてきた耳には、なんだか贅沢すぎる音だった。
俺は自分の手をじっと見つめた。
ちゃんと腕があり、手があり、指が五本ある。握って、開いて、もう一度握る。思い通りに動く。
当たり前のことをひとつひとつ確認しながら、ゆっくりと立ち上がった。地面で寝ていたのだから、膝や腰が痛むかと思ったが、まったくそんなことはなかった。
むしろ、逆だ。
体が妙に軽い。関節のどこにも引っかかりがなく、視界は隅々までクリアで、呼吸をするたびに胸の奥まで空気が染み渡っていく。30時間以上ぶっ続けで配信して、そのまま倒れて死んだことが嘘みたいな快調さだった。いや、死ぬ前の俺と比べるのもおかしいか。万全だった頃の俺と比べても、こんなに体が軽かった記憶がない。
これが、神様特製の体ってやつなのか。
あのちょっと怖い神様のことを思い出す。自称ではなく本物の神様で、俺の配信の最古参リスナーで、推しを過労死させたのが嫌だからという理由で転生させてきた、あのとんでもない存在。
ちょっと特別な体、と言っていた。オマケもつけた、とも。
今のところ、肩からバズーカが出てくる気配はない…よかった。
まあ、体が普通に動くなら文句は言えない。死んでいるよりはずっとマシだ。
とりあえず現在地を把握しようと、木が少なく明るい方へ向かって歩いてみる。しばらく進むと木々がまばらになり、森の端に出た。途端に視界が一気に開け、見渡す限りの草原が広がった。
風が吹くたびに草の穂が波を打ち、緑のうねりが地平の方まで続いていく。そのはるか先には、石造りの壁のようなものがうっすらと見えた。空は見慣れた青空で、小さい雲がまばらに浮かんでいる。
……なんか、久しぶりに外出した気がするな。
最近は案件とか収録とかで部屋に籠りきりで、日中の散歩なんて何ヶ月もしていなかった。日の光を全身に浴びるのはいつ以来だろう。軽い体といい、澄んだ空気といい、天気のいい日に自然の中を歩くというだけのことが、こんなに気持ちいいなんて知らなかった。
異世界と聞いて少し警戒していたけれど、案外、普通の世界なのかもしれない。……という、その考えは、すぐに崩れた。
はるか上空に、何かがいる。
巨大な影が、悠々と空を泳いでいた。あれだけ高いところを飛んでいるはずなのに、輪郭がはっきり見えるということは、大きさが尋常ではない。雲と雲の間を縫うように飛ぶその影は、長い首と尾を持っていて、どこからどう見ても鳥の類いではなかった。
……ドラゴン、ってやつでは?
俺が最後に戦って、倒せなかったやつの親戚では。
視線を慌てて地上に戻すと、今度は草原の向こうに奇妙な動物の群れが見えた。立派な巻き角に、白く美しい体毛、のそのそとした動きで草を食んでいて、危険はなさそうだが、足が六本あった。
……六本?
俺は目を細めて、もう一度数えた。
一、二、三、四、五、六。
うん、六本だった。見間違いであってほしかった。
じわじわと、実感が追いついてくる。
ここは日本じゃない。地球でもない。神様が言っていた別の世界というのは、比喩でも冗談でもなかったのだ。白い空間で話を聞いた時から分かっていたはずなのに、頭で理解するのと、体で感じるのとでは、まるで重さが違った。
胸の奥がざわつき始めて、息が少しずつ浅くなる。
どうすればいい、どこへ行けばいい。言葉は通じるのか。金はあるのか。寝る場所は。食べ物は。そもそも俺は、この世界で何者として生きていけばいいんだ。
考えれば考えるほど、不安が芋づる式に引っ張り出されてくる。
こういう時、配信中なら、視聴者のコメントが流れてくるんだ。
『どうしたコトギ、固まってるぞ』
『深呼吸しろ深呼吸』
『大丈夫、お前ならいける』
ざわついた俺の空気をコメントが拾ってくれて、それに軽口で返しているうちに、自然と気持ちが落ち着いていく。いつもそうだった。俺は一人で配信しているようで、本当は一度だって一人じゃなかったのだ。
でも今は、画面も、マイクも、コメントも、何もない。
この世界で俺の名前を知っている人間は、一人もいない。
―気づいたら、鼻歌を口ずさんでいた。
配信でよく歌っていた、お気に入りの曲のメロディー。歌詞は乗せず、ただ音だけが唇から零れていく。意識してやったわけじゃない。昔から、緊張した時や不安な時に自然と出てくる癖だった。教室で息が詰まりそうだった頃も、初めての配信で手が震えた時も、俺はいつも、心の中で歌っていた。
大きくなる鼓動を宥めるように、歌いながら草原の縁に沿って歩く。
不思議なものだ。
難しいことを考えず、体に染み込んだ癖のままに歌っていると、少しずつ胸のざわつきが収まっていく。波打っていた呼吸が深くなり、足取りが軽くなる。
やっぱり、歌うと心が落ち着くな。
我ながら単純な作りだと思いながらも、完全に落ち着くまで、鼻歌をやめる気にはなれなかった。
……それにしても、声の通りがいいな。
鼻歌程度なのに、音がよく伸びる。喉のどこにも引っかかりがなく、出したい音の高さに、出したい強さで、すっと届く。死ぬ直前は声を出すことすらできなかったのに。これも神様特製の体のおかげだろうか。だとしたら、あの神様、推しの何を一番大事にすべきか実によく分かっていらっしゃる。
そうして歌いながら歩いていると、ふと、足元に気配を感じた。
立ち止まって見下ろすと、小さな生き物が、俺の靴のすぐ横にちょこんと座っていた。丸い体に短い足、ふさふさの尻尾。リスとモグラを足して割ったような見た目の、おそらくこの世界の小動物だ。つぶらな黒い瞳で、じっとこちらを見上げている。
……いつの間に足元にいたんだ?
まったく気配に気づかなかった。慌てて顔を上げると、周囲にも小さな生き物たちがちらほらと集まっていた。木の陰から顔だけ出しているもの、草むらの中で耳だけぴんと立てているもの、遠巻きに様子を伺いながらも、じり、じり、と確実にこちらへ近づいてきているもの。
その数、ざっと二十匹は超えている。
……なんで?
試しに鼻歌をやめてみると、生き物たちが一斉に、こてん、と首を傾けた。
まるで、続きはまだですか、と言わんばかりに。
もしかして、俺の歌を聴きに来たのか?
半信半疑で、また歌い始める。
すると動物たちは、ぴょこぴょこと体を揺らし始めた。耳でリズムを取るもの、尻尾を振るもの、その場でくるくる回り出すもの。そうこうしている間にも、草むらの奥からさらに数が増えていく。
……懐かれた、のか?それにしては数が多すぎる気がしないでもないが。
でも、敵意はまったく感じない。それどころか、つぶらな瞳がきらきらと俺を見上げてくる様は、ライブ会場の最前列のファンのそれである。
ふ、と笑いがこぼれた。
異世界で最初のリスナーになってくれたのは、言葉も通じない、かわいい小動物たちだった。
だったら、応えないわけにはいかないよな。
俺は配信者、天城琴祇。リスナーが集まったなら、それはもう立派な配信なのだ。
俺は気持ち、声を張って鼻歌を続けた。動物たちがそれに合わせて揺れる。妙な一体感に包まれながら、もふもふの群れを引き連れて、俺は草原の縁をのんびりと歩いた。
―その空気が変わったのは、唐突だった。
ぴたり、と。
あれだけ楽しそうに揺れていた動物たちが、一斉に動きを止めた。
「……ん?どうしたんだ?」
返事の代わりに、足元のリスモグラが俺のズボンの裾を、くい、と引っ張った。視線は俺ではなく、草原の一点に固定されている。他の動物たちも同じ方向を睨んで、低く身を伏せていた。さっきまでの観客の顔じゃない。これは、警戒の姿勢だ。
つられてそちらを見ると、背の高い草をかき分けて、何かが姿を現した。
体長は中型犬くらいだが、明らかに犬ではなかった。緑がかった灰色の肌はじっとりと湿っていて、毛が一本もない。前傾姿勢の二足歩行で、長い爪のついた腕をだらりと垂らしている。つり上がった黄色い目が、ぎょろりとこちらを向いた。
口が裂けるように開いて、ぎちぎちと不快な音を立てる。
……あれは、あれだ。間違いない。
ゲームで何百匹と狩ってきたから分かる。雑魚モンスター、それも序盤の草原に出てくるタイプのやつだ。
一瞬、配信者としての血が騒いだ。おお、初エンカウントだ、と。
だがすぐに、現実が追いついてくる。
いやいや待て待て。俺、武器持ってないんだが。
ゲームなら初期装備の剣くらいある。ステータス画面くらい開ける。でも今の俺は、神様がくれた服一式の丸腰だ。攻撃手段なんて何もない。逃げるか?でも背中を見せた瞬間に飛びかかられたら?
じり、と魔物が距離を詰めてくる。その視線は俺と、それから足元の小動物たちの間を行き来していた。明らかに獲物として狙われている。
心臓が嫌な速さで脈を打つ。
まずい、まずい、まずい。せっかく転生したのに、初日に雑魚モンスターに食われて終わりとか、配信だったら伝説のクソ回として語り継がれるやつだ。
魔物が、地面を蹴った。
「――っ!」
咄嗟に体が動かない。だめだ、間に合わない―
そう思った瞬間だった。
茶色い影が、横から魔物に体当たりした。
リスモグラだ。
丸い体を弾丸みたいに飛ばして、魔物の横っ面に突っ込んだのだ。不意を突かれた魔物がよろめき、軌道が逸れて俺の横の地面に転がる。
「えっ、お前――」
驚く俺の前で、信じられないことが起こった。
それが合図だったかのように、草むらに伏せていた動物たちが、一斉に飛び出したのだ。
長い耳の兎みたいなやつが、跳ねて魔物の顔面を後ろ足で蹴り抜く。鳥に似た小さい群れが頭上から急降下して、くちばしで連続して突く。ハリネズミっぽい丸いのが体を丸めて転がり、魔物の足元に突っ込んで体勢を崩す。
一匹一匹は、本当に小さい。攻撃力なんてたかが知れている。
でも、二十匹を超える波状攻撃は止まらなかった。一匹が弾かれても、すぐ次が飛び込む。右をかばえば左から、頭を振り回せば足元から。まるで統率の取れた軍隊
…いや、これはレイドだ。
大勢で寄ってたかって一体のボスを叩く、レイドバトルだ。
魔物はたまらず爪を振り回すが、小さな体はひらりひらりとかわしていく。むしろ動物たちの動きは、どんどん良くなっているように見えた。連携が噛み合い、無駄がなくなり、誰も傷つかない。
なんだこれ。なんなんだこれは。
呆然と立ち尽くしていた俺は、ふと、あることに気づいた。
……俺、こんな状況でも、まだ歌ってた。
無意識だった。緊張のあまり、癖で鼻歌を続けていたのだ。
そして動物たちの動きは、心なしか、その歌のリズムに乗っているように見えた。歌が走れば動きが鋭くなり、歌が伸びればふわりと躱す。
まさか、な。
そんなまさか、と思いながらも、俺は試しに、しっかりと声を出して歌ってみた。鼻歌じゃない。配信の歌枠で何百回と歌ってきた、勝負曲のサビだ。
瞬間、動物たちの毛並みが、ぶわ、と逆立った気がした。
リスモグラの突進が、目に見えて速くなる。兎の蹴りが深く突き刺さる。鳥たちの急降下が鋭さを増す。
魔物は完全に防戦一方になり、よろめき、後ずさり、そして最後は兎の渾身のかかと落としが脳天に直撃して、白目を剥いてひっくり返った。ぴくぴくと痙攣したあと、そのまま動かなくなった。
……勝った。
勝ってしまった。
草原に、静寂が戻る。
動物たちはしばらく油断なく辺りを警戒していたが、やがて危険が去ったと判断したのか、ぴょこぴょこと俺のもとに戻ってきた。そして全員で俺を見上げ、つぶらな瞳をきらきらさせて、どうだ!と言わんばかりに胸を張る。
「…………ふ、はは」
こらえきれずに、笑いが漏れた。
「あっはははは!なんなんだお前ら、めちゃくちゃ強いな!最高かよ!」
しゃがみ込んで、先陣を切ってくれたリスモグラの頭を撫でる。ふわふわだった。リスモグラは気持ちよさそうに目を細めた。他の動物たちも我も我もと集まってきて、俺は両手をフル稼働させる羽目になった。
守って、もらったんだな。俺は。
言葉も通じない、出会って小一時間の、こんなにも小さな生き物たちに。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
配信でリスナーに助けられたことは何度もあった。心が折れそうな時、コメントの言葉に救われたことも。でも、物理的に命を守られたのは初めてだ。
「…ありがとな。お前らのおかげで助かった」
通じているのかいないのか、動物たちは嬉しそうに体を揺らした。
それにしても、と俺は考える。
最後のあれは、なんだったんだろう。俺が本気で歌った瞬間、動物たちの動きが明らかに変わった。気のせいと言うには、あまりにもはっきりとした変化だった。
まるで俺の歌が、あいつらを強くしたみたいな。
…神様の言葉が、頭をよぎる。
ちょっと特別な体。
オマケもつけといたから。
「……まさか、これのことか?」
答えてくれる相手はいない。いや、あの神様のことだ、今もどこかから見ているのかもしれないけど。
確かめる方法も分からないし、ひとまず保留だ。ただ一つ確かなのは、俺の歌はこの世界で、ただの歌じゃないかもしれない、ということで。
そして正直に白状すると―それが分かった瞬間、不安よりも先に、わくわくが来てしまった。
だって、そうだろう。
歌うことしか取り柄のなかった俺が、歌で誰かの力になれるかもしれないのだ。こんなに胸が躍る話があるか。
そうやってもふもふの軍団と勝利の余韻に浸っていると、遠くの方から、車輪が石畳を転がる音と、人の話し声が風に乗って届いてきた。
顔を上げる。草原の先、石壁が見えた方角だ。
街道が近いらしい。
とりあえず、この世界の人たちに会ってみよう。言葉が通じるかどうかは、その時考えればいい。
いつの間にか、あれだけ膨らんでいた不安は、とっくに消え去っていた。むしろ今は、この異世界という舞台に、どうしようもなくわくわくしている。
足元の小動物たちに目線を落とす。
「悪いな、お前らとはここでお別れだ。……今日は来てくれてありがとう。また聴きに来てくれよな」
配信の締めの挨拶みたいになってしまった。まあいい、事実、あいつらは俺の記念すべき初リスナーなのだから。
名残惜しそうに見上げてくる、もふもふたちに小さく手を振ってから、俺は人の声のする方へと歩き出した。




