第18枠 アスフォデルの花
歌が好きだ。
俺が前世から誇れる特技は、ゲームの上手さでも、トークの軽快さでもなかった。ただ、歌を歌うことだけが、俺の唯一といっていい特技だと、そう信じている。
ナイトメアが再生できずに崩壊していくこの場で、マロスを救うために歌を選んだのに明確な理由はなかった。ただ、力で解決できないならば、別な何かをする必要があると思った。
そして、この世界に来て、得られた経験から、俺の歌には特別な何かがあることは分かっていた。
神威の旋律でも、軍神の戦歌でもない。
ただ、聴く者の心に寄り添う、子守歌を歌う。馬車の中で、泣いていた少女を眠らせた、あの歌。誰かを傷つけるためじゃない。誰かの心を癒すための歌を。
穏やかで優しいメロディーが、瘴気の隙間を縫って、崩れかけた悪夢の広間に広がっていく。
ぴくり、と。
うずくまるマロスの肩が、震えた。
「…う、た…?」
濁っていた緑の瞳に、ほんのわずか、光が差した気がした。
俺は彼の様子に構わず歌い続けた。一音、一音を丁寧に。配信で何百回と歌ってきた、心を解きほぐすための旋律を。
すると――マロスの体から、黒い瘴気が、ぶわりと噴き出した。
苦痛に呻く彼の全身から、煤のような黒い霧が、暴走するみたいに、勢いよく立ち上っていく。まるで、長年こびりついた何かが、歌の振動で、無理やり剥離させられているみたいだった。
満身創痍のエウリが、月地を支えに、かすれた声で言った。
「あの黒いの、たぶん、マロスを縛ってたもの。どういう理屈か分からないけど、コトギの歌が効いている?」
効いている。
俺の歌が、彼を操る何かを、引き剥がしている。
まるで、悪しき力を浄化するように、マロスから発せられる瘴気が薄まっていく。しかし、瘴気はあまりに濃く、根深かった。剥がれても剥がれても、後から後から滲み出てくる。これは、一朝一夕にこびりついたものじゃない。長い、長い時間をかけて、彼に染み込まされたものだろう。
…もっと、近づかないと。
俺は歌いながら、一歩、また一歩と、苦しむマロスへ歩み寄った。
手を伸ばせば届く距離。渦巻く黒い霧に、そっと、手のひらを差し入れる。これでもっと浄化できるようになるかは分からないが、それでも、触れて、歌を届けたかった。
瘴気に、指先が触れた。その、瞬間だった。
――頭の中に、奔流のような何かが流れ込んできた。
俺のものじゃない記憶。俺のものじゃない感情。
黒い霧を通じて、マロスの過去が、堰を切ったように、押し寄せてくる。
◇
Side マロス
覚えている最初の記憶は、冷たい石の天井を見ていることだった。
窓のない石の部屋。一日中、青白い魔導灯が灯っているだけの、暗くて狭い世界。この地下施設が僕が生まれ育った場所だ。ここがどこなのか、詳しいことは何も知らない。けれど、大人たちはここを研究所と呼んでいた。
白衣を着て、常に顔を何かの布や装備で隠し、手元には実験用の器具やデータをメモする書類を抱えていた。彼らは研究員と呼ばれており、僕のような実験体の世話をしていた。
どうやら僕は、ここで作られたようだ。
そのことを、僕はずいぶん早くに理解した。
魔物の因子を、希少な羊獣人の女に埋め込んで得た、混血の実験体。識別番号で呼ばれる、何番目かの試作品だという。
「前の試作は失敗して、もう動かなくなった」と、研究員は抑揚のない声で報告していた。
僕は、たまたま生き残った成功例のようだ。
そんな僕には、同じ牢獄の中で一緒に暮らす母さんがいた。
魔物の因子を埋め込まれた、哀れな羊獣人の女性だ。僕の親ということが一目でわかるような、僕と同じ巻き角と金色の髪を持つ、優しい人だった。
研究員たちは母さんを素体と呼んだけれど、僕にとって、たった一人の家族だった。
母さんは、よく外の世界の歌を歌ってくれた。
母さんが攫われて、ここに連れてこられる前に暮らしていた、緑の豊かな村の歌。
「マロス、いつか母さんと一緒に行こうね、あの穏やかな村へ」
石の冷たい床の上で、母さんは僕を抱きしめて、そう言った。
「外はね、すごく美しいんだよ。青い空はどこまでも遠くへ続き、風が吹くと、草木や花が踊って、花の匂いが心を癒してくれるのよ。
母さんが住んでいた村にはね、アスフォデルっていう花が、野原いっぱいに咲いてるのよ。その花には、ちょっと苦くて、甘い実がなるんだ。母さん、あれが大好きだったの」
研究所で生まれた僕は、空も、風も、花も見たことがなかった。
母さんの歌と、母さんの話の中だけで、僕は外の世界を旅していた。僕の世界は、冷たい石の部屋と、母さんのお話でできていた。
起きたら実験と称して、身体を弄られ、牢獄に戻って母さんの話を聞いて、眠りにつく。こんな日々が永遠に続くのだろうか、と思っていた。
「生き延びてね、私の愛おしい子羊…」
しかし、ある日突然、母さんは、いなくなった。
研究員たちに聞いても、彼らは何も言わなかった。
盗み見た記録では、"素体としての役目を終えた"とだけ、記録に書かれていた。それがどういう意味なのか、子供だった僕にも、薄々、分かってしまった。
こうして僕は、1人になってしまった。
薄暗い石の牢獄で、実験と称した拷問が続く日々。ただ、母さんが歌ってくれた、外の世界の歌だけが最後の救いとして、僕の心に残った。
◇
母さんがいなくなってから、僕の毎日は、実験から代わり、訓練で埋め尽くされた。
実験で埋め込まれた"実体のない悪夢"という力を、使いこなすための訓練。僕の中に埋め込まれた魔物の因子は、僕自身を炉にして、黒い悪夢を生み出すことができた。研究員たちは、それを兵器として完成させたがった。
痛かった、けれど、痛みだけなら何とでもなった。
痛みは、時間とともに慣れていく。
毎日、毎日、限界まで力を引き出され、ぼろぼろになって、治療されて、また限界まで引き出される。それを繰り返していると、ある日、心のどこかが、すっと静かになる。痛みを感じる部分に、薄い膜が張ったみたいに。
そうやって繰り返される地獄の中で、僕は、笑うことを覚えた。
訓練でへとへとになった時。実験で体のあちこちが言うことを聞かなくなった時。僕は、へらっと笑って、自分で自分に言うようになった。
――いやぁ、今日も頑張ったねえ、僕。
誰も褒めてくれないから、自分で自分を茶化す。誰も心配してくれないから、自分で自分を笑い飛ばす。そうしないと、心が保たなかった。
……我ながら、便利で、難儀な性格になったものだ。
◇
流れ込んでくる記憶の中で、僕は――いや、俺は、コトギは、思わず歌を止めかけた。
あまりにも、灰色で悲しい記憶だけがずっと流れているからだ。
悲鳴も、怒りもない。ただ、当たり前みたいに痛みを受け入れて、笑って受け流す、子供の日常。それが、何よりつらくて、苦しくて、気が付かないうちに俺は涙を流していた。
俺は、泣きながら歌い続けた。遠い昔のマロスの記憶の奥へ、心の中で泣いている小さい子供へ声を届けるように。
――そうして、歌に、過去のマロスが、ふと顔を上げた気がした。
◇
初めて、外に出たのは、つい先日のことだった。
研究所から言い渡された、初任務。
人間界に、魔物を呼び寄せる印を設置してこい。お前という試作品の実地検証も兼ねている、と研究員は言った。どこまで行っても僕は実験体でしかないことに辟易した。
でも、そんなことはどうでもよかった。
だって、ようやく外に出られる。
生まれて初めて、あの石の部屋の外へ。母さんが歌ってくれた、物語でしかなかったあの世界へ。
地下施設の扉が開いた瞬間、僕は、息を呑んだ。
空が、青かった。
母さんの言った通りだった。どこまでも、どこまでも、広くて、青くて。風が吹くと、草木が鳴って、嗅いだことのない、たくさんの匂いが、鼻をくすぐった。
歩いて、歩いて、僕は野原で、それを見つけた。
白い花。少し苦くて、甘い実―アスフォデル
母さんが、大好きだと言っていた花。
僕は、その実を、夢中で口に入れた。
苦くて、甘くて――そして、涙が出た。
ああ、母さん。
これが、あなたが教えてくれた、外の世界の味なんだね。
僕は、その実を、たくさん摘んで、いつでも食べられるように乾かして、小袋に詰めた。命令も、任務も、頭から抜けていた。ただ、この世界が、眩しくて、優しくて、たまらなく、愛おしかった。
……ずっと、ここで生きていきたい。
生まれて初めて、僕は、そう願った。
道具じゃなくて、僕として、この青い空の下で、生きていたい、と。
ただ、外での時間が過ぎていくにつれて、僕の体は僕の意思じゃないなにかの力で動いていくようになった。
記憶が飛んでいる時間があった。
ふと気がつくと、知らない場所に立って、ぼーっと空を見ていた。
ふと、手が生暖かいなにかを抱えてることに気がつく。
視線を下ろすと、両手には真っ赤に染まった人だったものがあった。
僕の周囲には、服装から盗賊だと思われる人族の死体がバラバラに散らばっていた。
僕は悟った。あぁ、外の世界に出られたのは、最初から僕に自由なんて無かったからか。
体の中にいる異物、瘴気を纏った悪意は、僕の身体を勝手に使い、魔物も人間も殺そうとしている。
このままでは、罪のない人も殺めてしまうかもしれない。
危機感を覚えた僕は、意識があるうちに人里から遠ざかり、とあるダンジョンを見つけた。
ここなら誰も来ない。来たとしても、僕を屠れるほどの強い冒険者しか来ないだろう。
そうして時間が経ち、シックスシープに擬態しているところに、2人組の冒険者が現れた。
僕はなんとなく確信があった。
この二人が、僕を楽にしてくれるはずだ。
母さんが愛したこの世界を、僕が壊してしまう前に、母さんの元へ連れていってくれる。
そう信じて、彼らをダンジョンの奥へと誘った。
◇
記憶の奔流が、途切れた。
俺の手のひらはまだ、マロスを包む瘴気の中にある。
マロスの過去が全部、見えた気がした。
冷たい地下で生まれ、母を失い、痛みに慣れて、笑うことで自分を守ってきた男。生まれて初めて外の世界に触れ、青い空に焦がれ、母の愛した花の味に、涙した男。
マロス・ナイトメア。
君たちを喰らう悪夢だよ、と名乗ったあいつは。
本当は、誰よりも、優しい世界を、母が愛していた世界を守りたいと願っている。
「……コトギ」
すぐ後ろで、エウリが、静かに言った。彼女も、何かを感じ取ったのだろう。緋色の瞳が、潤んでいた。
「彼、自由になりたかっただけなんだね…」
俺は、歌をつなぎながら頷いた。
研究所は、マロスを道具として作った。母親を素体として消費し、痛みを刻み込み、悪夢を演じる兵器に仕立てた。任務でこの地に放ち、人間界に紋章を撒かせた。
でも、彼は母親から受けた限りある愛情で、この世界の愛しさを知ってしまったのだ。
外の世界の、空の青さを、心地よい風を、花の味を、そして自由を。
マロスは心の底では、こんなこと、望んじゃいなかった。冒険者のふりをして俺たちに分けてくれた、あのアスフォデルの実は――こいつが、初めて手に入れた、自由の味だったんだ。
……だったら。
俺は、息を吸い込んだ。
歌は、こういう時のためにあるのだろう。
言葉が届かない心の、一番奥にある、凍りついた小さな部分、そこに、そっと火を灯すために。
傷ついた誰かの心を優しく守るために。
俺の歌が、マロスの記憶の中の、あの冷たい地下室へ。母の歌だけが救いだった、孤独な子供のもとへ届くように、と願って歌った。
ぶわっ、と。
マロスの体から、これまでで一番濃い瘴気が、噴き上がった。
黒い霧が、断末魔のように渦を巻き、悪夢が、最後の抵抗を見せる。
「……っ、もう、いいんだ……僕、は……ここで…死ぬべきなんだ……」
「マロス」
俺は、歌の合間に、彼の名を呼んだ。
「あんたは、あんたの母が愛した世界に生きたくはないのか?このまま、生まれたときと同じ、石で囲まれたこの部屋で死んでもいいと思っているのか」
マロスの体が、びくりと跳ねた。
「母があんたに願ったのは、この世から居なくなることじゃないはずだ。諦めるな、マロス」
「……あ……」
瘴気が、震える。
マロスの濁った瞳の奥で、何かが、ぐらりと、揺らいだ。
「母、さん……」
マロスの口から、掠れた声が、こぼれた。
「外、は……青、くて……母さんの好きだったアスフォデルの花が……咲いてて……」
"生き延びてね、私の愛おしい子羊"
「あ…あぁ…そうだ、僕はこの世界で…美しい世界で…これからも生きて…」
その瞬間。
マロスの体を縛りつけていた、最も太い黒い枷が――歌の振動に共鳴して、ぴしり、と、亀裂を走らせた。
あと、一押し。
俺は、ありったけの想いを込めて、歌の、最後のフレーズを――。
「コトギ、上!!」
エウリの、悲鳴のような叫び。
はっと顔を上げた俺の視界。崩れかけていたナイトメアの瘴気が、突如、意志を持ったように天井へ集束し、巨大な漆黒の槍となって、俺の頭上へ、振り下ろされようとしていた。
歌に夢中で、気づかなかった。
マロスを縛る悪意の枷は、最後の最後で、宿主から引きはがされないように暴走したのだ。
避けられない。
歌を止めれば、ここまでの全部が、水の泡になる。
――どうする、どうすればいい!
「コトギは、歌ってて」
俺の前に、満身創痍のはずのエウリが、ふらりと、立ちはだかり、ボロボロの体で月地を構えた。
「あなたの歌は、止めさせない。私が、守る」
”軍神の戦歌”の反動で、立っているのもやっとのはずだった。それでも彼女は、漆黒の槍の真下に、一人、立った。
俺の歌を、守るために。
「エウリ……!」
俺は、歌を止めなかった。
彼女が俺を信じてくれるなら、俺もエウリのことを信じて、ただ自分にやれることをやるだけだ。
漆黒の槍が、振り下ろされると同時に、エウリが月地を振り上げる。
――歌声と、衝撃が、悪夢の広間で、交差した。




