第12枠 悪魔の領域
目が覚めた時、最初に視界に入ったのは天井だった。
見慣れない白い天井。……いや、待て。これ、さっきも見たな。
頭を動かすと、首の付け根がじわりと痛んだ。体の各所に鈍い痛みが残っていて、特に脇腹は息を吸うたびにズキリとケガの存在を主張してくる。
おまけに全身に強烈な筋肉痛を感じる。指の一本を動かすだけでも体が悲鳴を上げているが、それでも意識ははっきりしているし、致命的な怪我をしている感覚はなかった。
これは、しばらくまともに動けないやつだな。たぶん、あの新しいスキルの反動だろう。
土壇場で発動した、【神威・軍神の戦歌】
あの時は自分の潜在能力を引き出されたというか、体の奥から熱と力が湧いてきて、千の兵に支えられている謎の高揚感もあった。
あれだけの力を引き出した以上、相応のツケが回ってくるのは道理かもしれない。
ダッシュボードを開き、新たに増えた記載を眺める。
【軍神の戦歌】
軍神アレスが戦で好んだ歌。兵の行進を、馬の嘶きを、魂の叫びを、太鼓の打音にあわせて奏でた。スキル対象者には軍神の力を分け与え、圧倒的な攻撃力を付与する。
おぉ、なんか単に能力説明じゃない雰囲気があってかっこいい。
しかし、軍神の力を分け与えるとか、普通の人間に耐えられるバフなのだろうか。まぁ、その反動で全身がビキビキになっているのだが。
ダッシュボードを閉じ、視線を足元に向けると、前に見たときは寝ていた、エウリの姿がなかった。
目を覚ます前―いや、時間の感覚がないからいつかは分からないが、確かに膝の上で寝ていたはずなのに今はいない。少しだけ寂しさを覚えながら、無理やり体を起こそうとした、ちょうどその時、部屋の扉がノックされた。
「ど……ど、どうぞ……」
声を出すだけで全身がきしみ、痛みで顔をしかめる。
「入るぞー、っと。お、起きてたのか。声が全然聞こえなかったから、まだ寝てるかと思ったぞ」
入ってきたのはガイさんだった。
「声……出すだけで……体中が…痛くて……」
「ほう。悪魔の領域にでも入ったか?まあ、そうでもなけりゃ、聞いてた状況で生きちゃいねえな」
「……あくまの、りょういき?」
物騒な単語だ。聞き返すと、ガイさんは椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「冒険者をやってるとな、稀に自分本来の力を遥かに超えた、馬鹿げた力を出せる瞬間がある。土壇場の火事場の馬鹿力、ってやつだ。
だが、これが厄介でな。その状態が終わった後、反動で全身が動かなくなるほどの激痛に苛まれる。まるで悪魔に力を借りて、その代償を払わされてるみたいに見えるから、悪魔の領域って呼ばれてる」
なるほど、と思った。
俺の場合は、神威の重ね掛けと、あのスキルのせいでこうなっていると思うが、この世界にも似たような概念と、それを指す言葉があるわけだ。
便利な言い訳になってくれそうだ。物騒な名前なのは、まあ、目をつぶろう。
「お前はその悪魔の領域とやらを発動させて、あのA級下位の魔物、アラクネを倒した。そういうことだろう」
「アラクネ……あいつ、そういう名前だったんですね」
「ああ。あれで幼体だけどな」
「……幼体?」
俺は耳を疑った。あの、3メートル超えの、土魔法まで使う化け物が幼体なのか。
「成体はS級だ。あの蜘蛛の体に、女のような上半身が生えてな、多彩な魔法と強力な粘着力を持った糸を飛ばすようになって、もっと厄介になる。俺も現役時代、複数パーティを組んで成体の討伐に当たったことがあるが…何度も死を覚悟したぜ。あんなもんと、二度とやり合いたかねえ」
あれで、幼体。
A級下位の魔物を倒したと己惚れかけていた鼻が、見事にへし折られた気分だった。
世界は広い。上には上がいる。むしろ、現実を早めに知れてよかったと思うべきだろう。
とりあえず、今はそんなことよりも心配なことがある。
「…あの、エウリは」
「ああ、そうだったな。エウリのことも含めて、お前が眠ってる間の話をしてやる」
ガイさんの説明はこうだった。
アラクネの幼体を倒し、エウリの無事を確かめた俺は、彼女が意識を取り戻すのと入れ替わりに、気を失った。その後、エウリは自分もボロボロの状態だったにもかかわらず、俺を背負って街まで歩き通し、門番に事情を話して保護してもらったそうだ。
「先に目を覚ましたのはエウリだ。で、今は……食堂で飯を食ってる」
「…飯…ですか」
「あぁ、目を覚まして、飯を食って、お前の様子を見たり看病を手伝ったりして、また飯を食って…まぁ、起きてからずっと飯食ってるな。あ、飯代はお前らの報酬から引いとくからな」
「…エウリが、無事でよかったです」
請求書を見るのが今から恐ろしいが、元気になったのなら良かった。
それにしても、背負って歩いてくれたのか。あの小さな体で、自分も傷だらけのまま。あの森で、俺が彼女を背負って運んだ時の意趣返しみたいで、なんだか少し面白かった。じんわりと、胸が温かくなる。
「さて。次は、今回の事件の話だ」
「……事件、ですか」
筋肉痛にも少し慣れてきたので、布団の上で上体を起こし、話を聞く姿勢を取る。ガイさんの顔つきが、神妙なものに変わった。
俺が眠っていた間(5日も寝ていたらしい)ギルドは街の周辺に大規模な調査隊を派遣した。始めにBランク魔物が出た区域と、次のアラクネが出た区域。その両方の深部を徹底的に調べた結果、それぞれから、見慣れない紋様の刻まれた石板が発見されたという。
「王都の研究室に早馬で届けたが、おそらく魔物を意図的に呼び寄せる、誘引の紋章だと判定された。これは自然にできたものではなく、明らかに人為的なものだそうだ」
「悪意を持った、誰かの仕業……ってことですか」
「ああ。石板はすでに撤去した。森と街の周辺にしばらく見張りを置いたが、今のところ動きはない。設置されたのも少し前のようだし、同じことが続く可能性は低いと判断した。街周辺の森も立ち入り禁止は近いうちに解除する予定だ。」
わざわざ魔物を呼び寄せる紋章を、この辺境の街の森に仕掛けた、誰かがいる。
この街自体が目的なのか。それとも、たまたまここが選ばれただけなのか。
北から魔物が引き寄せられている、というエウリの言葉が、頭の片隅で何かを訴えている。北で何かが動いていて、その何かと、この石板の関連は…。
聞こうとして、ガイさんの顔を見て、やめた。
ガイさんは、事件の被害者に対して必要な情報を共有しているだけで、それ以上、俺たちを深く関わらせるつもりはない、という顔だった。たぶん、ギルドはギルドで、もっと上の方で動いているのだろう。
「……わかりました」
とりあえず、目の前の脅威は去った。この世界の事情に疎い俺が、今、首を突っ込むべきじゃないだろう。何か落ち着かないものは残るが、ひとまずは、療養が先だ。
――それでも。心のどこかに、小さな棘が刺さったままの気分だった。
◇
ガイさんが退室した後、ベットでうとうとしていると、扉の方から声がした。
「コトギ……?」
目を開けると、入口から、白い十字架を宿したルビー色の瞳がじっとこちらを覗き込んでいた。
「エウリ!おはよ――ヴッ!!」
「よかった!!」
入口から一直線に飛び込んできたエウリを、胸で受け止める。衝撃で全身に恐ろしい激痛が走る。
一言、文句でも言おうかと思ったが、すぐに思い直した。
エウリの小さな体は、カタカタと細かく震えていた。
本当に、本気で、心配してくれていたのだと、その震えが伝えてくる。
「……エウリも、無事でよかった。俺を街まで背負って帰ってくれたんだろ。ありがとう」
「うん。…おはよう、コトギ。いっぱい、寝たね」
顔を上げたエウリは、窓から差し込む光を金の髪に集めて、きらきらと繊細に輝かせながら、花が咲くような美しさで、にっこりと笑った。
その笑顔を見ただけで、全身に走る痛みが、報われた気がした。
◇
それから数日。念のためとギルドの医務室でおとなしく過ごすうち、体の調子はかなり戻ってきた。
そして、老医師から普通に生活していいと太鼓判をもらった日、俺はエウリと一緒に、ギルドのカウンターへ呼び出された。
カウンターには、ガイさんと、受付の職員さんが並んで立っていた。
「コトギ、エウリ。今回の件について、ギルドとしての判断を伝える」
ガイさんが書類を取り出した。
「お前たちはFランクとして登録されているが、今回、A級下位の魔物を討伐したことが確認された。この実績をもって、異例だが、二人をBランクに昇格させる」
俺とエウリは、思わず顔を見合わせた。
Fから、一気にB。途中の3段階をすっ飛ばしての昇格である。
「ほ、本当にいいんですか、そんな飛び級みたいなこと」
「本来は認められん。だが、A級下位を倒したという討伐実績は事実だ。それに」
ガイさんは、ふっと笑った。
「いつまでもお前らをFのままにしとくと、ランクに見合わん依頼ばかり回すことになって、かえって管理が面倒なんだよ。実力にあわせたランクをつけるのも、ギルドのメリットになんのさ」
冒険者はCランク以下が7割を占めるらしい。Bランク以上となると、かなりの才能と努力が必要になるようで、いつでも強い冒険者は歓迎されるようだ。
まぁ、高ランク冒険者になるのは嬉しいことだが、急すぎてなかなか実感がわかない。
「あわせて、討伐報奨金を支給する。額はこれだ」
差し出された書類の数字を見て、思わず声が出た。
「えっ!?これ、本当ですか!?」
「本当だ。B級以上の討伐報奨金は高い。一般人にとっては、しばらく働かなくてもいい額だぞ」
エウリが横から書類を覗き込み、ふむ、と短く頷いた。
「…いっぱい、おいしいものが食べられる」
「エウリは通常運転だな…」
思わず突っ込むと、エウリは大真面目な顔で、こくこくと頷いた。真剣そのものなのも面白い。
報奨金の一部を受け取り、残りはギルドの預金に回した。治療費も、破壊した武器の弁償も、すでに報酬から差し引かれた後らしい。あとは宿のツケを払えば、長らく俺の胃を痛めていた借金生活も、ようやく終わりだ。
宿へ戻る道すがら、俺とエウリは、あれを食べようこれを買おうと、年甲斐もなく――いや、エウリは見た目通りの年頃かもしれないが――盛り上がった。
その後、傷が完全に癒えるまでの間、俺とエウリは街での療養と、ごく簡単な依頼をこなして過ごした。
薬草採取、街周辺の見回り、酒場での歌唱。どれも刺激のない日常的な仕事だったが、その平凡さが、むしろ心地よかった。
この世界で、これからも生きていくのだという実感が、一日ごとに胸に積もっていく。
エウリは相変わらず、毎日とんでもない量を食べていた。街の屋台を片っ端から制覇し、気に入った店には翌日また通い、さらに新規開拓も怠らない。胃袋という名の異世界に、限界はないらしい。
俺はその隣で、異世界の日常に少しずつ馴染んでいった。
市場を歩けば様々な種族の声が飛び交い、夕暮れには酒場から歌声が漏れてくる。転生したばかりの頃は情報量の暴力に圧倒されていた光景が、今では当たり前のものとして、目に映るようになっていた。
それでも夜、寝る前に天井を見上げると、ふと前世のことを思い出す。薄暗いワンルーム、モニターの灯り、コントローラーの感触、画面を流れていくコメント。
懐かしいし、寂しくもある。
でも、不思議と吹っ切れてきた感覚もあった。
ここでも、酒場で歌ったり、うまいものも食べられる。健康的に体を動かして依頼をこなし、誰かの役に立てる。命を預け合える相棒もいる。
――それで、十分だった。
いや、前世よりずっと、満ち足りているのかもしれない。
◇
脇腹の痛みが完全に消えた、その日の夜。
夕食の後、エウリが珍しく、ぼんやりと窓の外の月を眺めていた。
「エウリ、どうかした? まだ食い足りなかったか?」
「……んん」
ふるふると首を振る。だが、どこか歯切れが悪い。最近になって、ようやく分かってきた。これは、エウリが何かを抱えて、悩んでいる時の顔だ。
「コトギ」
「うん」
「あの約束、そろそろ…」
約束という言葉は、すぐに思い当たった。
生きて帰ったら、腹を割って話そう。
あの森で、互いに秘密を抱えたまま、死を覚悟しながら交わした、あの約束だ。
「……そうだね。お互い、体も万全になったし」
エウリが、窓から視線を戻し、まっすぐにこちらを見た。緋色の瞳の奥の十字が、月明かりを受けて、静かに光る。
「じゃあ、明日ね」
「ああ、明日」
エウリは小さく頷いて、また窓の外へ目を向けた。その横顔には、いつもの天然マイペースとは違う、張り詰めた緊張感が漂っていた。
エウリもきっと不安に感じているのだろう。
エウリが自室に帰ったあとも、静かに月を見つめていた。
……この世界に、異世界人なんて存在するんだろうか。
俺の正体を打ち明けたら、変なやつだと思われて、エウリに気味悪がられたりしないだろうか。せっかくできた、この世界で唯一の相棒に。
考えれば考えるほど、腹の底に重たい石を飲み込んだような気分になる。
窓の外では、まんまるの月が、二人の小さな部屋を静かに照らしていた。エウリも、きっと同じように、明日を思って眠れずにいるのかもしれない。
そんなことを思いながら、俺はなかなか寝付けない夜を過ごした。




