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「夫人の手遊びだろう」と離縁された王宮御用達調香師は、翌朝隣国に招かれました  作者: ヲワ・おわり


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第9話 始まり

本作は全70話で完結予定です。

本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。

続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークと下部の☆☆☆☆☆から評価で応援していただけると励みになります。

蝋燭を二本、棚の両脇に置いた。

火は揺らさないように、芯を短く切る。私の手元と、蒸留台の上だけを、まるく照らせばいい。

室内のほかは、わずかに暗く沈めておいた方が、調香には向いている。香りに、視覚を持っていかれないために。


——今夜は、最後の一作。


そう、自分の中で確かめてから、私は材料を並べ始めた。


橙皮、白檀、月見草、橙花、蜜蝋、それから少量のアクラ草。

精油は澄んだ硝子瓶のなかで、それぞれの色を、揺らがずに沈めていた。橙皮は淡い金、白檀は乳白、月見草はわずかに青みがかった透明。

ひとつずつ、栓を抜いて、香りを確かめる。指の腹に微量を取って、温め、嗅ぐ。すべて、母が私に教えてくれた、いちばん最初の手順だった。


棚の引き出しから、母のレシピノートを取り出す。


革表紙のノートは、十二年使ってもまだ柔らかかった。

私は決まったページを開く。「**リーゼロッテ十二歳の春に作った香**」と、母の文字で書かれたページだった。

母は、私が初めて自分の手で香水を作った日のレシピを、自分のノートに書き留めてくれていた。私が泣きながら混ぜた、子どもじみた配合を、母は丁寧に、何の修正も加えずに、写してくれた。


——「橙皮三滴、橙花一滴、蜜蝋少量、月見草はごく微量。仕上がりはやや軽い。十二歳のロッテ、初めての香」


母の字を、私はしばらく指でなぞった。

紙の繊維の冷たさが、指先から染みた。


——ロッテ、香りは記録です。


母の声が、聞こえた気がした。

病床に伏せた最後の年に、母は何度も、その言葉を私に言った。香りは、自分の感情の記録になる、自分の歩みの記録になる、そして自分の手の記録になる。だから、香りを侮ってはいけない、と。


私はノートを、開いたまま、蒸留台の脇に置いた。


今夜の香りは、このレシピを、骨にする。

十二歳の春の、橙皮を主軸にした若い香り。母が私のために残してくれた、最初の自分のかたち。

そこに、私は、白檀をひと滴だけ足すことを決めていた。


白檀は、五年間の摩耗のなかで、私が独自に研究してきた成分だった。

配合の温度に敏感で、合わせるのが難しい。けれど、合わせ方さえ間違えなければ、軽い香りに、深い余韻を残す力がある。十二年前の私の手では、ぜったいに扱えなかった成分だった。


——母のレシピに、私の白檀を、一滴。


それで、いい。


私は蒸留器に水を張り、火を入れた。

銅の蛇管が、ゆっくりと温まり始める。

火加減を、私は何度も指の甲で確かめる。強すぎても、弱すぎてもいけない。橙皮の油は、温度が高すぎると、簡単に焦げて苦みを出す。


蒸留器の口から、蒸気の音が、すこしずつ立ちのぼった。

香炉の上に、私は橙皮の油を一滴、垂らした。蝋燭の灯りに照らされた金色の一滴が、ちりりと音を立てて、橙の香りを室内に放った。


次に、橙花。空気が柔らかく、丸くなる。

蜜蝋を少量。香りの輪郭が、紙のように整った。

月見草を、ごく微量。緑の気配が、静かに加わる。

ここまでが、十二歳の春のレシピだった。


私は、その完成形を、しばらく嗅いだ。

五年ぶりだった、と思う。母が亡くなってから、私はこのレシピを、自分のためには、一度も再現しなかった。


——ロッテ。


母の声が、また聞こえた気がした。

今度のは、咎める声ではなかった。

むしろ、「いいよ」と背中を押してくれるような、軽い声。


私は、白檀の硝子瓶を取り上げた。

栓を抜く瞬間に、私は、深く、深く、息を吐いた。

栓を抜くのが、特別な作業だったわけではない。ただ、ここから先は、母のレシピを、私の手のレシピに変える瞬間だった。


——一滴。


私はピペットで、ほんの一滴、白檀の精油を、香りの上に落とした。


落とした瞬間、空気の輪郭が、ふしぎな深さで沈んだ。

橙皮の若い金が、白檀の褐色に、すうっと支えられた。

軽さは、軽いままだった。けれど、その軽さの底に、長く生きていく筋ができた。


——これだ。


私の手と、私の十二年と、私の五年が、ようやくひとつの香りに、収まった気がした。


香炉の上に、私は完成した香りを、瓶に移していく。小さな、卵ほどの瓶。蓋を閉じ、口を蝋で封じる。

ラベル紙を取り出し、ペンを構える。

名前を、何にするか。少しだけ迷った。


「忘却」ではない。これは、忘れるためのものではない。

「終わり」ではない。これは、終わりではない。


私は、ラベルに、こう書いた。


「**始まり**」。


書いてから、自分の字を、しばらく眺めた。

十二年前、母のレシピノートに私が初めて書いた、震える「橙皮」の三文字と、今夜の「始まり」の三文字。並べたら、たぶん同じ手の文字には見えない。それでいい、と思った。


——これが、私の、最後の作品ではない。


蝋燭の炎に向かって、私は小さく、はっきりと、声に出して言った。

誓いではなかった。ただ、自分の中の、これからを生きる側の自分に、報告するだけの言葉だった。


「始まり」と書かれた小瓶を、私はハンカチで丁寧に包み、出立の鞄の、母の蒸留器の隣に納めた。

蒸留器と、最初の自作の香水。

それだけが、ヴァインフェルト邸から、私が連れて出る、私のものだった。


蝋燭を吹き消す。

調香室は、暗く沈んだ。

窓の外は、深い夜の青で、まだ朝までは、ずいぶん遠かった。


——あとは、馬車を、待つだけ。

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