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「夫人の手遊びだろう」と離縁された王宮御用達調香師は、翌朝隣国に招かれました  作者: ヲワ・おわり


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8/41

第8話 夫人は地味だから

本作は全70話で完結予定です。

本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。

続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークと下部の☆☆☆☆☆から評価で応援していただけると励みになります。

止めるつもりはなかった。

ただ、客間の扉が半開きになっていて、そこから漏れる声が、私の名前を含んでいたから、体が勝手に止まってしまった。


「兄上、夫人の噂は、どう対処いたしましょうか」


イザベラの声。


「……どう、とは」


「すでに少し、社交界に流れ始めておりますの。離縁の話が」


——もう、回っているのか。


私は内心で、わずかに眉を上げた。

今朝、夫が署名したばかりの離縁が、もう義妹の耳に、社交の噂として届いている。たぶん、家令の口からではない。クラウスはそういう人ではない。

おそらくは、夫自身が、昨日のうちに、誰かに匂わせた。あるいは、今朝早くに、急ぎの手紙を出した。

体面を守るために、噂のかたちを、自分の側で先に作っておきたかったのだろう。


「兄上、ご心配なさることはございませんわ」


イザベラの声には、ほんのわずか、軽やかな含みがあった。


「**夫人は地味だから、誰も気にしませんもの**」


私は、廊下の壁に、片手をついた。

ついたあとで、自分がついたことに気づいた。立っていられないほどの動揺ではなかった。ただ、この五年で、いちばん、自分の内側がうつろに鳴った瞬間ではあったかもしれない。


——地味だから、気にしない。


そういう類の言葉を、私はこれまでも、何度か耳にした。

社交界で「ヴァインフェルト夫人は、口数が少なくていらして」と評されたこともある。「茶会では端の方にお座りでしたわね」と笑われたこともある。

そのときの私は、内心で、自分は「邪魔をしない位置」を選んでいるのだ、と思っていた。誇りでも、卑屈でもなく、ただそれが、自分のおさまる位置なのだと。


けれど、今朝、義妹の声で改めて聞くと、それは——

「邪魔をしない」ではなく、「気にされない」なのだった。

家門の人間にとっても、社交界の人間にとっても、私は、わざわざ気にする価値もない、地味な飾りだった。


「そうだな」


エルンストの声。


「社交界では、『**夫人が病で実家に戻った**』と説明する。それで体面は保てる」


「それなら、私が『お義姉様、最後にお茶を一緒にいたしましたの。それはそれは寂しそうな顔で』と話せば、皆様ご納得なさいますわ」


——お茶を、一緒に。


私はその嘘の絵を、思わず、想像してしまった。

イザベラが、白い扇を口元に当て、潤んだ目で、社交界の貴婦人たちに、しおらしく語る図。「お義姉様、お顔の色がすぐれませんでしたの。私、最後に手を握って差し上げましたわ」。

扇のうしろで、彼女自身は、ほんのり優越感を浮かべているだろう。それも、悪意というよりは、たぶん、心地よさで。


「お前は社交がうまい。任せた」


「お任せくださいませ。私はお義姉様のことも、よく存じておりますもの」


私は、その台詞を聞きながら、奇妙な事実に気がついた。


——あの人は、私のことを、ひとつも知らない。


私の調香室の使い方も。私の好きな香料の名前も。私が何時に起きて、何時に寝るか。私が朝食で、紅茶のベルガモットの強さをいつも気にしていること。私の指先が薄く緑に染まっていること。

五年、同じ屋根の下で暮らした義妹は、そのどれひとつも、知らなかった。

そして知らないままで、彼女はこれから「お義姉様をよく存じている者」として、社交界に出る。


不思議と、腹は立たなかった。

腹を立てるための場所が、もう私の中に、ほとんど残っていなかった。


——私の存在が、彼らの社交の道具になっている。


そう、自分の内側で、静かに言葉にした。

言葉にしたとたん、五年間の、説明のつかなかった疲労のかたちが、ようやく、はっきりとした輪郭で見えた気がした。

私はずっと、彼らの家門の体面のための、上等な銀器のひとつだったのだ。

銀器なら、磨きさえすればいい。話を聞かせる必要も、感情を尋ねる必要もない。気が向いたら、客人にお披露目すればいい。


——お疲れさまでした。


そう、自分自身に、心のなかで言った。

自分にだけ言える言葉だった。誰にも聞こえないところで、私はようやく、五年間の労を、自分でねぎらった。


廊下の壁から、私は手を離す。

足音を立てず、扉の前を通り過ぎる。

振り返らない。立ち止まらない。扉を開けて、反論しようとしない。


——それは、彼らに、私を理解させる仕事ではなかった。


廊下の窓から、冬の庭が見えた。

枯れた薔薇の枝。霜の降りた石畳。庭師が一人、剪定鋏を持って屈み込んでいる。彼の白い息が、空気のなかで、ゆっくりと立ちのぼっていた。


私は、その白い息を見ながら、ぼんやりと思った。


——彼らは、私が出ていく意味を、たぶん最後まで、理解できない。


それでよかった。

私はもう、理解されるために、彼らの言葉を選ぶつもりがない。


自室に戻り、机の引き出しを開けた。

布に包まれた母の蒸留器を、もう一度、取り出す。


蒸留器の銅は、朝よりも、わずかに温かくなっていた。

窓越しの陽を、長い時間吸って、私が知っているよりずっと長く、私を待っていてくれた、というふうな温度だった。


私は布を一度ほどき、銅と硝子をたしかめ、もう一度、丁寧に包み直す。


明日、私は出る。

今夜は、最後にもう一度だけ、調香室に行こう。

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