第8話 夫人は地味だから
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。
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止めるつもりはなかった。
ただ、客間の扉が半開きになっていて、そこから漏れる声が、私の名前を含んでいたから、体が勝手に止まってしまった。
「兄上、夫人の噂は、どう対処いたしましょうか」
イザベラの声。
「……どう、とは」
「すでに少し、社交界に流れ始めておりますの。離縁の話が」
——もう、回っているのか。
私は内心で、わずかに眉を上げた。
今朝、夫が署名したばかりの離縁が、もう義妹の耳に、社交の噂として届いている。たぶん、家令の口からではない。クラウスはそういう人ではない。
おそらくは、夫自身が、昨日のうちに、誰かに匂わせた。あるいは、今朝早くに、急ぎの手紙を出した。
体面を守るために、噂のかたちを、自分の側で先に作っておきたかったのだろう。
「兄上、ご心配なさることはございませんわ」
イザベラの声には、ほんのわずか、軽やかな含みがあった。
「**夫人は地味だから、誰も気にしませんもの**」
私は、廊下の壁に、片手をついた。
ついたあとで、自分がついたことに気づいた。立っていられないほどの動揺ではなかった。ただ、この五年で、いちばん、自分の内側がうつろに鳴った瞬間ではあったかもしれない。
——地味だから、気にしない。
そういう類の言葉を、私はこれまでも、何度か耳にした。
社交界で「ヴァインフェルト夫人は、口数が少なくていらして」と評されたこともある。「茶会では端の方にお座りでしたわね」と笑われたこともある。
そのときの私は、内心で、自分は「邪魔をしない位置」を選んでいるのだ、と思っていた。誇りでも、卑屈でもなく、ただそれが、自分のおさまる位置なのだと。
けれど、今朝、義妹の声で改めて聞くと、それは——
「邪魔をしない」ではなく、「気にされない」なのだった。
家門の人間にとっても、社交界の人間にとっても、私は、わざわざ気にする価値もない、地味な飾りだった。
「そうだな」
エルンストの声。
「社交界では、『**夫人が病で実家に戻った**』と説明する。それで体面は保てる」
「それなら、私が『お義姉様、最後にお茶を一緒にいたしましたの。それはそれは寂しそうな顔で』と話せば、皆様ご納得なさいますわ」
——お茶を、一緒に。
私はその嘘の絵を、思わず、想像してしまった。
イザベラが、白い扇を口元に当て、潤んだ目で、社交界の貴婦人たちに、しおらしく語る図。「お義姉様、お顔の色がすぐれませんでしたの。私、最後に手を握って差し上げましたわ」。
扇のうしろで、彼女自身は、ほんのり優越感を浮かべているだろう。それも、悪意というよりは、たぶん、心地よさで。
「お前は社交がうまい。任せた」
「お任せくださいませ。私はお義姉様のことも、よく存じておりますもの」
私は、その台詞を聞きながら、奇妙な事実に気がついた。
——あの人は、私のことを、ひとつも知らない。
私の調香室の使い方も。私の好きな香料の名前も。私が何時に起きて、何時に寝るか。私が朝食で、紅茶のベルガモットの強さをいつも気にしていること。私の指先が薄く緑に染まっていること。
五年、同じ屋根の下で暮らした義妹は、そのどれひとつも、知らなかった。
そして知らないままで、彼女はこれから「お義姉様をよく存じている者」として、社交界に出る。
不思議と、腹は立たなかった。
腹を立てるための場所が、もう私の中に、ほとんど残っていなかった。
——私の存在が、彼らの社交の道具になっている。
そう、自分の内側で、静かに言葉にした。
言葉にしたとたん、五年間の、説明のつかなかった疲労のかたちが、ようやく、はっきりとした輪郭で見えた気がした。
私はずっと、彼らの家門の体面のための、上等な銀器のひとつだったのだ。
銀器なら、磨きさえすればいい。話を聞かせる必要も、感情を尋ねる必要もない。気が向いたら、客人にお披露目すればいい。
——お疲れさまでした。
そう、自分自身に、心のなかで言った。
自分にだけ言える言葉だった。誰にも聞こえないところで、私はようやく、五年間の労を、自分でねぎらった。
廊下の壁から、私は手を離す。
足音を立てず、扉の前を通り過ぎる。
振り返らない。立ち止まらない。扉を開けて、反論しようとしない。
——それは、彼らに、私を理解させる仕事ではなかった。
廊下の窓から、冬の庭が見えた。
枯れた薔薇の枝。霜の降りた石畳。庭師が一人、剪定鋏を持って屈み込んでいる。彼の白い息が、空気のなかで、ゆっくりと立ちのぼっていた。
私は、その白い息を見ながら、ぼんやりと思った。
——彼らは、私が出ていく意味を、たぶん最後まで、理解できない。
それでよかった。
私はもう、理解されるために、彼らの言葉を選ぶつもりがない。
自室に戻り、机の引き出しを開けた。
布に包まれた母の蒸留器を、もう一度、取り出す。
蒸留器の銅は、朝よりも、わずかに温かくなっていた。
窓越しの陽を、長い時間吸って、私が知っているよりずっと長く、私を待っていてくれた、というふうな温度だった。
私は布を一度ほどき、銅と硝子をたしかめ、もう一度、丁寧に包み直す。
明日、私は出る。
今夜は、最後にもう一度だけ、調香室に行こう。




