第7話 個人称号
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。
続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークと下部の☆☆☆☆☆から評価で応援していただけると励みになります。
部屋の中央、東向きの長椅子の脇に、薬務官は立っていた。
姿勢を崩さず、両手を体の前で軽く重ね、私が入室するのを待つ姿勢。中肉中背、灰色の上衣、首元の銀の襟章。表情は読みづらい。けれど、無表情ではなかった。読みづらい、というだけで、彼の中にも何かが在った。
「——薬務官様」
「ヴァインフェルト侯爵夫人」
ハインリヒは、私の正式な肩書きで、私を呼んだ。
昨夜のうちは、まだ侯爵夫人。正式な書類が王宮の戸籍係に届くまで、私はそう呼ばれることになる。
「ご多忙の折、お時間を頂戴し、申し訳ございません」
「いいえ。どうぞ、お掛けくださいませ」
私は長椅子のひとつを、手のひらで示した。
ハインリヒは静かに腰を下ろし、私もまた、向かいの椅子に座った。
侍女がふたつの茶器を置いて、すぐに退いた。
ハインリヒは茶に手をつけず、両手を膝の上に置いた。仕事の話のときの、彼の癖だった。それは、嫁いだ初年に、王宮から書類を届けてくれた彼を見たときから、変わっていない。
「お忙しい奥様にご無礼を申し上げます。本日は、離縁のお手続きに際しまして、王宮御用達調香師の称号について、念のためご説明に上がりました」
——称号。
私は背筋を、わずかに伸ばした。
意識して伸ばしたわけではない。十六歳の春、初めて王宮で正装してその称号を授かった日のことを、体が勝手に思い出した。
「——お聞きいたします」
「奥様におかれましては、現在のお立場の変動により、当該称号の帰属についてご懸念をお持ちかと存じます」
ハインリヒの言葉は、いつも余分のない直線だった。
私は短く頷いた。
「称号は、夫家門に帰属するのでしょうか」
私は、できるだけ平静な声で尋ねた。
内心では、息を、ほんの少しだけ止めていた。
夫はこの五年、自分の屋敷の応接間に客が来るたび、「**王宮御用達調香師の妻を娶った身として**」と前置きしてみせるのが好きだった。彼の中で、称号は侯爵家の所有物のひとつだった。それを失うことを、彼が黙って見送るとは思えなかった。
「——いいえ」
ハインリヒの答えは、即座だった。
「**個人称号でございます。ご離縁後も、奥様のものでございます**」
私の指先が、わずかに、膝の上で固まった。
「……そうですか」
私はそう、短く返した。
返したあと、自分の声が、思っていた以上に低く落ち着いていたことに、わずかに驚いた。
——個人称号。
その四文字が、応接間の空気のなかで、長く尾を引いた。
五年。
彼が「うちの夫人の称号」と言うたびに、私はそれを否定しなかった。否定すべきことだとも、半ば気づかなくなっていた。気づいていながら、面倒さに飲み込まれていた、と言うほうが、正確かもしれない。
それが、いま、王宮の薬務官の一言で、簡潔にひっくり返った。
「ご懸念には及びません」
ハインリヒは、私の沈黙を、丁寧に受け止めながら、続けた。
「称号は、十六の春、奥様ご自身のお名前で授かったものでございます。叙任の記録は、ヴェルディア王宮の宰相府にございます。婚姻によって移ったことはございません。離縁によっても、変動はございません」
「——左様でございますか」
「奥様のご意志を尊重いたします。**今後のご活動について、何かご相談があれば、王宮までお知らせください**」
ハインリヒはそう言って、ほんのわずか、目線を動かした。
それは、本当に短い動きだった。
私の顔から、私の胸の前で揃えていた手のひらへと、視線がほんの一瞬だけ降りた。そして、すぐに戻った。
私は、その視線の意味を、その場では掴めなかった。
掴めなかったけれど、心のどこかで、引っかかった。
——なぜ、この方は、いま、ここに、いらしたのだろう。
離縁が成立したのは、今朝、夫が署名した瞬間。
書類が王宮に届くのは、早くて夕刻。
それなのに、ハインリヒはこの午前のうちに、もうここに座っている。
彼は、何を、いつから知っていたのだろう。
私は、その問いを、口には出さなかった。
口に出すには、私の中で、まだ言葉になりきれていなかった。
「——ご親切に、感謝いたします」
私は静かに頭を下げた。
ハインリヒも、同じ深さで、頭を下げ返してきた。
「奥様のお手をお煩わせいたしますこと、誠に心苦しく存じますが、何卒ご自愛くださいませ」
ハインリヒはそう言って、立ち上がった。
退室の所作も、姿勢のとおり、過不足がなかった。
応接間の扉を開けた瞬間、彼はもう一度、振り返って一礼した。
その短い一礼の中に、私はもう一度、あの目線の動きを見た気がした。
今度は、私の胸の前ではなく、私の机に置かれた、書きかけのインク壺の方へ。
扉が閉じた。
私はしばらく、長椅子に座ったまま動かなかった。
膝の上で重ねた手が、まだ、わずかに固まっていた。
——個人称号。
——今後のご活動について。
ふたつの言葉が、応接間の空気のなかに残っていた。
私は息をひとつ吐いて、ようやく立ち上がった。
応接間の扉を開け、廊下に出る。
——廊下の角の方から、声が聞こえた。
「兄上、夫人の噂は、どう対処いたしましょうか」
義妹の声だった。
「……どう、とは」
「すでに少し、社交界に流れ始めておりますの。離縁の話が」
私は、廊下の途中で、足を止めた。




