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「夫人の手遊びだろう」と離縁された王宮御用達調香師は、翌朝隣国に招かれました  作者: ヲワ・おわり


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第6話 まだ動く手

本作は全70話で完結予定です。

本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。

続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークと下部の☆☆☆☆☆から評価で応援していただけると励みになります。

そう書いて、私は一度、ペンを止めた。


便箋の上に、青いインクの一文字が、丸く澄んでいた。

次の一文を、何度も心のなかで組み立てては、崩した。


——師にどう伝えるのが、よいのだろう。


師は、嘘を嫌う人だった。

「香りに対して嘘をつかないことが、調香師の第一の倫理だ」と、十二歳の私に最初に教えた人。香りに対して嘘をつかない者は、いずれ、人に対しても嘘をつけなくなる、とも、よく言っていた。


だから、迂回はやめておこう、と私は決めた。

余分な前置きも、心配を遠ざける微笑みも、いまの私からの手紙にふさわしくない。


私はペンを取り直し、もう一度、書き始めた。


——マイヤー師。

——私は、ヴァインフェルト侯爵との離縁を、選びました。


書いてしまえば、一行は短かった。

書きながら、私は自分の指先が、少しだけ冷えているのに気づいた。寒さではなかった。何かを、目に見えるかたちにする緊張だった。


——昨夜、夫から「離縁したいなら好きにしろ」と申されました。私は、迷うこともなく、用意していた離縁状を差し出しました。今朝、正式に署名がなされ、私はこの家を出ます。

——これから先のことは、まだ何も、決まっておりません。

——けれど、私の手は、まだ動きます。


最後の一行を書き終えた瞬間に、私は呼吸を、ほんの少しだけ深く吐いた。


私の手はまだ動きます。


これは、師がいつか、私に教えてくれた言葉だった。

正確には、師ご自身に向けて言った言葉。十年ほど前、師が一度、流行り病で寝込まれたとき、私が見舞いに行った日、痩せた手で蒸留器を撫でながら、ぽつりと呟いた言葉だった。


——ロッテ。年を取ってもな、わしの手はまだ動く。動く限りは、香りを作れるということだ。


その日の師の声を、私は今朝も、はっきりと覚えている。


私は、その言葉を、お返しするつもりで書いた。

私もまだ、動きます、と。

ですから、心配なさらないでください、と。


便箋の続きには、技術的な近況を、いくつか書いた。

調香室の棚の三段、母の蒸留器を一台持参する旨、最近作った「橙皮・若気」の試作について、わずかに改良した点。蜜蝋の質が冬で落ちたので、配合に少し樹脂を足したこと。それくらいの、些末な、けれど私たちのあいだでは大切な、報告。


技術の話を書いていると、不思議と、指先が温まってきた。

私の手は、私の言葉よりも、ずっと早く、私を確かなものに戻してくれる。


——お身体に、お気をつけて、お過ごしくださいませ。

——リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイムより。


最後の署名のところで、私は少しだけ、ペンを止めた。


「ヴァインフェルト夫人」とは、書かなかった。

書けなかったわけではない。書きたくなかったのでもない。ただ、師に向けて綴る手紙には、私はずっと、エヴァースハイムの名前で署名してきた。嫁いだあとも、変わらなかった。師だけが、私の旧姓を、最後まで自然に受け取ってくれていた。


封筒に、便箋を四つに折って、納める。

机の上の小さな蝋燭に火を灯し、その上で、赤い封蝋の棒を傾けた。とろりと、赤い蝋が滴り、封筒の合わせ目を、ゆっくりと閉じていく。


蝋の上に、私は印章を押す。


エヴァースハイム伯爵家の紋章。月の下に立つ一本の葦。

ヴァインフェルト家の獅子と剣の紋ではなかった。


——私の紋章。


紋章を押した瞬間、自分の手元から、ふっと、ほんのわずかに、目を伏せた。


——私は、まだ、エヴァースハイムの娘で、いられるだろうか。


そう、思った。


正式にはまだ、私はヴァインフェルト夫人だった。明朝の馬車に乗り、王宮の戸籍係に書類が届くまでは、戸籍の上の名前は変わらない。

けれど、紋章を押した瞬間、私の手は、自分が誰であるかを、自分で決めた。


——いられるはずだ。


そう、決めた。


私は封筒を、机の端に置いた。明朝、クラウスに託す。家令の彼なら、王都近郊の師のもとへ、迷わず手配してくれる。それは、すでに何度か頼んだことのある経路だった。


蝋燭の炎を、私はしばらく見つめていた。

小さな炎が、わずかに揺れて、机の上の青いインクの瓶に映り、青いガラスに小さな金の点を作っている。


——師は、なんとお答えくださるだろう。


たぶん、長い手紙ではないだろう、と思った。

師は、いつも短い。


「ロッテ、お前の手は、お前のものだ」。

そんなようなことを、たぶん、書いてくださるのではないか。

私は勝手にそう想像して、勝手に少しだけ、励まされた。


蝋燭を吹き消そうとした、そのときだった。


扉が、ノックされた。

控えめだけれど、誰のものとも違う、迷いのない強さのノック。


「——奥様」


クラウスの声だった。


「王宮の薬務官様が、お越しでございます」


私の指は、蝋燭の炎の上で、しばらく止まったままだった。

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