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「夫人の手遊びだろう」と離縁された王宮御用達調香師は、翌朝隣国に招かれました  作者: ヲワ・おわり


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第5話 奥様、何かお持ち帰りになるものは

本作は全70話で完結予定です。

本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。

続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークと下部の☆☆☆☆☆から評価で応援していただけると励みになります。

私は半歩のうしろを歩くクラウスに、しばらく答えないままでいた。

答えるべき言葉を選んでいた、というよりは、五年間で初めて、家令の声に「気遣い」が滲んでいることに、気づいてしまったからだった。


「——これだけです」


私はそう言って、胸の前で抱えていた布の包みを、少しだけ持ち上げて見せた。


布の中には、母の蒸留器。それ以外には、何もない。


クラウスの目元が、ほんのわずかに動く。

気のせいだと言われれば、そう信じてしまえる程度の、ささやかな動き。けれど私は、その動きを今朝、はっきりと見ていた。


「……奥様、調香室の他の品々は、いかがなさいますか」


クラウスは静かに尋ねた。

「夫人」とは言わなかった。「奥様」だった。

五年間ずっと、彼は私を「奥様」と呼んできた。義妹も、義母も、夫すらも私のことを「リーゼロッテ」と呼び捨て、あるいは「ヴァインフェルト夫人」と他人行儀に呼ぶようになった後も、彼だけは、最後まで「奥様」だった。


「——残します」


私は答えた。


「誰かが触れるなら、それで構いません」


短い間があった。

クラウスは答えのかたちを探していた様子で、けれど結局、何も付け加えなかった。


「左様でございますか」


それは、了承の音だった。

同時に、何かを引き受けるような音でもあった。


私はその含みに、気づかないふりをした。

気づいてしまえば、私はもう一度、五年間の自分を振り返ってしまう。今朝、振り返らずに出ていく、と決めたところだった。


廊下を、私たちはゆっくりと歩いた。


家令の白い手袋が、私の視界の端で、少しだけ揺れていた。

こんなに長い距離を、クラウスと並んで歩いたのは、嫁いだ初日以来かもしれない、と思った。あの日、彼は私を「奥様、こちらでございます」と言って、寝室まで案内してくれた。あの日の白い手袋と、今朝の白い手袋は、たぶん同じものではないけれど——同じ温度で、同じ歩幅で、私の半歩のうしろを歩いている。


「——奥様」


階段の上で、クラウスが足を止めた。


「ご出立の馬車は、明朝、表門に手配しております」


「ありがとう、クラウス」


そう言ってから、私は自分の声に、すこし驚いた。


ありがとう、と。

クラウス、と。


クラウスを名前で呼んだのは、たぶん、嫁いで五年で、これが初めてだった。

私はこの家で、人の名を呼ぶ習慣を、いつのまにか手放していた。「兄上」「お義姉様」「あなた」「お義母様」。ヴァインフェルト邸では、誰もが役職と関係でしか呼ばれなかった。それに従っていた私自身も、もうずいぶんと、誰かを名前で呼ぶことを忘れていた。


クラウス。

それは、嫁いだ初日に、彼自身が私に告げてくれた名前だった。

「家令のクラウスでございます。何ぞございましたら、お声がけくださいませ」。

あの日、私はちゃんと頷いた。けれど、その後、一度も、彼を名前で呼ぶ機会を、自分から作らなかった。


「——奥様」


クラウスは、深く頭を下げた。

頭を下げた瞬間、彼の声に、ほんのわずか、何かが詰まったような気がした。すぐに、いつもの抑えた声に戻ったけれど。


「お気をつけて、ご出立くださいませ」


「——ええ。お世話になりました」


私もまた、深く頭を下げた。

深く下げすぎて、淑女の作法からは少し外れたかもしれない。けれど、構わなかった。今朝、私はもう、ヴァインフェルト夫人の作法を、最後まで完璧に守るためだけに動くのは、やめてもいい時期に入っていた。


クラウスは、もう一度、深く礼をした。

そして、廊下の角で、すっと身を引いた。私が階段を上り終わるまで、彼は同じ場所に立っていた。私の足音が聞こえなくなるまで、彼はそうしていた、と思う。確かめなかったけれど、確かめなくても、知っていた。


——この家で、私の名前を、一度も間違えなかった人。


階段を上がりながら、私はそう、心のなかで呟いた。


呼び方は「奥様」だった。リーゼロッテと呼ばれることは、なかった。

けれど、彼は私の名前を間違えなかった。

私が、リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイムであることを、五年間ずっと、忘れずにいてくれた人だった。声に出さなくても、目線で、抑揚で、足音で——彼はずっとそれを、私に伝え続けていた。


私自身が、忘れかけていた、それを。


私室の扉を開けて、寝台のそばを通り過ぎ、書き物机の前に座る。

胸の包みを、机のいちばん上の引き出しに、そっと置く。母の蒸留器は、今日いちにち、ここで休んでもらう。


引き出しを閉めて、私は机の上の便箋を一枚、引き寄せた。

羽根ペンを取る。インクをつけてから、私は少しだけ目を閉じる。


——師にお手紙を書こう。


私の人生のなかで、いま、誰よりも先に知らせるべき人。

私の母代わりであり、私の調香の根そのものであり、十二年前から私を「ロッテ」と呼んでくれた、ただ一人の人。


便箋に、私は最初の一文字を書いた。


「——マイヤー師、」

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