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「夫人の手遊びだろう」と離縁された王宮御用達調香師は、翌朝隣国に招かれました  作者: ヲワ・おわり


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第4話 私の名前と、私の手

本作は全70話で完結予定です。

本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。

続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークと下部の☆☆☆☆☆から評価で応援していただけると励みになります。

呼吸を整えるために、ではなかった。

昨夜のうちに、すでに自分の中の何かは静まっていた。整えるべきものは、もう何も残っていなかった。

ただ、扉の向こうに踏み込む瞬間に、私は最後の儀礼として、息を吸った。淑女の作法を最後まで保つために。


「——失礼いたします」


扉を開けると、夫は机の向こうにいた。


朝の光が、彼の肩越しに差し込み、机の上に置かれた書類を白く照らしていた。

昨夜、私が差し出した離縁状。封は外され、内容も、おそらくはざっと目を通された痕がある。羽根ペンと、小さな硯。署名の準備は整っていた。


「来たか」


エルンストは顔を上げない。書類を引き寄せ、羽根ペンを取り上げて、つけてから、流れるように署名を書いた。

迷いの音はなかった。彼は、迷う種類の人間ではない。


「これで成立だな」


書類を私の方へ差し出す。


私は前に進み、両手で受け取った。羊皮紙の冷たさが指に伝わる。これが、五年だった、と思う。たった一枚の紙の重みに、五年が収まる。


「リーゼロッテ」


私は顔を上げる。


「気が変わったらいつでも戻ってこい。この家門の門は、お前のために開いている」


驚かなかった。

昨夜の「いつでも戻ってこい」と、寸分違わない響き。台詞は決まっている。五年間ずっと、彼の中の貴族の脚本に従って言葉を発してきた人なのだから、ここでも脚本どおりに振る舞うのは自然なことだった。


「——結構です」


三文字で、私は答える。

彼の眉が、ほんのわずかに動いた。

昨夜と、同じ動きだった。


「持参金は返さん。お前が出ていく身だからな」


「——持参金は不要です」


私はそう言って、書類を胸の前でそっと持ち直した。


「私の名前と、私の手だけで十分です」


それは、自分でも驚くほど、まっすぐに出た言葉だった。

五年前、いいえ、十二年前から、私のなかでずっと言葉になりかけて、結局一度も口にしなかった一文。それが今朝、まったく余分のない響きで、机の上の空気に置かれた。


エルンストの口元が、わずかに固まった。


「……お前の名前?」


低い声だった。


「お前は今、ヴァインフェルト夫人だ」


「——今だけは、です」


私は彼の目を見て、短く答える。


短いやり取りのなかで、いま、初めて、私は夫の目をきちんと見ている、と気がついた。

五年間、私は彼の口元か、書類か、自分の手元しか見ていなかった。


彼は鼻で、低く笑った。


「行き先もないくせに、よく言う」


その笑いに、悪意の鋭さはなかった。ただ、自分の中の世界しか見ていない人間の、確信に満ちた笑いだった。

自分の家門の外に、自分の理解の外に、何かが存在する可能性を、彼は本気で考えたことがない。


私は、それに腹を立てる気力もなかった。

五年で、腹を立てる種類の感情は、もう私の中で使い切られていた。


——どうぞ、ご存分に。


そう、心のなかで返した。声には出さなかった。出す必要もなかった。


「行き先は、これからの私が決めることでございます」


私はそう言って、書類を抱え、一歩、後ろに下がった。


「——失礼いたします」


頭を下げる。

深すぎず、浅すぎず。嫁いだ初日に、義母から教わったままの角度で。最後の貴族婦人として、私は隙のない一礼をした。


体を起こしたとき、視界の隅に、家令のクラウスが立っているのが見えた。

部屋の奥、書棚の前。

いつ入ってきたのか、私は気がついていなかった。


クラウスは無言だった。

ただ、私が「私の名前と、私の手だけで十分です」と言った瞬間に、ほんの一瞬だけ、伏せていた目線を上げた——それを、私は背中越しの空気で感じていた。


そして今、彼は、また目を伏せている。


私は扉に向かって歩く。

歩幅は、いつもと同じ。靴音は、廊下に響かないように、いつもより少しだけ柔らかく。


扉を開けると、廊下に出る前に、もう一度、室内に向かって浅く頭を下げる。これは執務室を退出するときの作法。エルンストは見てもいない。けれど、見ていなくても、私はする。

五年で身につけたものは、最後まで丁寧に、私のものとして、置いて出る。


扉が背中で閉まる。


廊下の冷たい空気が、私の頬を撫でた。

胸の前の書類は、思ったよりも軽かった。


背中から、ゆっくりと、足音が追ってくる。

振り返らずとも分かる。クラウスだった。


廊下の途中で、彼は私の半歩後ろに並んで止まった。


「——奥様」


声は、低く、抑えられていた。


「何かお持ち帰りになるものは、ございますか」


私はその声に、しばらく答えなかった。

答えるための言葉を選んでいた、というよりは、五年間で初めて、家令の声に「気遣い」が滲んでいることに、気づいてしまったからだった。

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