第3話 忘却
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。
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冬の終わりの光は、冷たくて、けれど鋭くて、棚の上の硝子瓶を一本ずつ照らし出した。
私はしばらく、扉のそばに立って、その光を眺めていた。
棚は三段。
最上段に蒸留器、中段に香炉、下段に香料瓶。十二年かけて、私自身がそう整えた配置だった。
——母の代から私の代へ。師の代から私の代へ。そして私自身の手で生まれた瓶へ。
上から下へと、時間の順に並んでいる。
私はまず布を持ち出して、棚の上の埃を一つも残さず拭いた。すぐに出ていく場所を、なぜ拭くのか。理由は自分でも分からない。けれど、拭かずに離れるのは、私のなかで筋が通らなかった。
最上段に手をかける。
母の蒸留器。
三脚の銅器で、底に小さな傷がある。十二歳の私が、はじめてその傷に気づいた朝のことを、よく覚えている。
——お母さま、ここに、傷が。
——ああ、それは私が、嫁ぐ前夜にうっかり台に当ててしまった傷ね。
母はそのとき、すでに病床にいた。痩せた指で蒸留器を撫でて、淡く笑った。
——でもね、ロッテ。傷があるくらいの道具のほうが、香りに馴染んでくれるのよ。
そう言って、咳をした。
それから半年で、母は逝った。
私は銅の蛇管に手のひらをそっと当てる。冷たい。けれど、十二年前のあの日の母の手のひらが、いまも、この銅のどこかに残っている気がしてしまうのは——たぶん、私の弱いところだ。
中段に下りる。
師から贈られた、白磁の香炉。
銀の縁取りに、わずかな緑青が浮いている。これは十六歳の春、王宮御用達調香師の称号を授与された日の朝、師が紙に包んで黙って持ってきたものだった。
——ロッテ。
師は、こちらを見ずに、ぽつりと言った。
——お前の母も、十六で、同じ称号を取った。
それは初めて聞く話だった。
母がそんな称号を持っていたことを、私は知らなかった。母は私に「調香師」とは名乗らなかった。「私はただの花好き」と言って、笑っていた。
——お前は、母とは違う道で、母の名を継いでいいのだ。
その日、師がくれた香炉の縁を、私はそっとなぞる。
銀の冷たさが、十二年前の銅の冷たさと、ふしぎに似ていた。
下段。
五十本以上の香料瓶が、整然と並んでいる。
すべて私が自分で蒸留し、自分で配合し、自分でラベルを書いた。
「薔薇・冬」「白檀・三日陳」「橙皮・若気」「茴香・夜半」「蜜蝋・八月」。
人にはおそらく通じない名前ばかり。だが、これは私だけの索引だった。香りに、感情のラベルを貼る。十二歳の頃に、母に教わった。
——香りを覚えるときは、その日の気持ちで呼びなさい。そうすれば、いつ嗅いでも、その日の自分が戻ってくる。
母の声で、聞こえた気がした。
私は瓶を一本ずつ、指で確かめながら、目で読んでいく。
——「微熱・四月」。母が亡くなる三ヶ月前、私が試しに作った薔薇水。
——「黒の手紙」。十四歳、父が再婚を告げた夜に蒸留した、夜の白檀。
——「初めての客」。十六歳、王宮で初めて自分の香を納めた帰り道に作った、橙花。
並んだ瓶は、私の十二年の年表だった。
そして、奥の方に、一本だけ、ラベルの字が少し震えているものがある。
「**忘却**」。
これは、結婚した翌春。
夫が初めて、私の調香室を覗き込んで、何の悪気もなく口にしたあの言葉——「そんな手遊びはやめろ。お前の本分は社交だ」——のあくる朝に、作ったものだった。
その日、私は泣かなかった。
泣くかわりに、棚の前に立って、忘れるためだけの香りを蒸留した。月見草と、樹脂と、わずかなアクラ草。鼻の奥にすうっと通って、すぐ消える、軽い香り。一晩で消えるように調合した。
そして、ラベルに「忘却」と書いた。
書いたあと、瓶を棚の奥にしまって、その日から一度も、この瓶の蓋を開けなかった。
——五年。
私は、その瓶を取り出す。
蓋を開けると、思ったよりもしっかりと、当時の自分の手の選択が、香りとして残っていた。
月見草の青。樹脂の重さ。アクラ草の、緑のとがり。
目を閉じる。
五年前の朝の、棚の前に立っていた自分が、いま、自分の隣に静かに立っている気がした。
あのときの私が、今朝の私を、責める声は出さなかった。逆だった。あのときの私が、今朝の私の袖の裾を、そっと引いていた。
——もう、いいですよ。
そんなふうに、聞こえた。
私は蓋を閉める。
そして、その瓶は、棚に戻した。
持っていかない、と決めた。
忘れるための香りを、これからの場所に持っていくのは、筋が通らない。
忘れるべきは、忘れたまま、この部屋に置いていく。
最後に、私は最上段の蒸留器に戻った。
布を広げ、銅の蛇管を内側に折りたたみ、ガラスの球を包む。
昨夜と同じ手つき。けれど、昨夜よりも、ほんの少し、迷いがない。
包み終えた蒸留器を、出立の鞄の、いちばん内側に納める。
立ち上がった瞬間、銅に映った自分の顔と、目が合った。
五年間、ずっと、ここで作業してきた女の顔だった。
それ以外の、何者でもない顔だった。
——それで、いい。
私は調香室の扉のところまで歩いていき、手をかける。
鍵を、ポケットから取り出す。
これが、最後の鍵だった。




