第2話 お遊び部屋
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。
続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークと下部の☆☆☆☆☆から評価で応援していただけると励みになります。
「あら、お義姉様。お遊び部屋にいらしたの? 朝から精が出ますこと」
イザベラの声は、いつも通り、明るく澄んでいた。茶器を持ち上げる仕草も、肩から落ちる栗色の巻き毛も、絵に描いたような侯爵令嬢のそれだった。
「——もう、お遊び部屋には参りません」
私は短く答えて、向かいの席に腰を下ろした。
「あら、おやめになったの? それはようございました」
イザベラは曖昧に微笑む。「お遊び部屋」が私の調香室を指す呼び名であること、そしてその呼び名を口にすることが、五年間ずっと続いてきた小さな侮蔑であったこと——彼女はその意味を、たぶん本気では考えたことがない。
侍女が私の前に紅茶を置いた。
今朝の茶は、ベルガモットが強い。葉が新しい。私の感覚は、こんなときでもいつも通り、香りの構成を勝手に分解してしまう。
「ねえ、お義姉様」
イザベラは、薄い焼き菓子をひとつ取って、何気なく言った。
「南公爵夫人の舞踏会、聞いていらして? 今期の主役は、結局あのカルヴァート伯爵令嬢ですって。あの方、髪型を変えただけで、すっかりお人形のようなのよ」
「——そうですか」
「あ、お義姉様、相槌も淑女らしくなさってよ。せっかくですもの」
イザベラはくすりと笑う。
五年。同じテンポの会話を、いったい何度繰り返してきただろう。
私は茶を一口含む。淑女の作法に隙はない。指の角度、口に運ぶ速度、戻すときの音。すべて、嫁いだ最初の半年で、義母から徹底的に仕込まれた。あの教育だけは、たしかに役に立っている、と思う。皮肉でもなんでもなく。
「兄上は昨夜、ご機嫌が悪うございました」
イザベラは、急に思いついたように言った。
「お義姉様、何かありまして?」
私は、ほんの一瞬、茶器を持つ指に力をこめた。
気づかれるほどではない。私自身ですら、こめたあとで気づいたくらいの、ささやかな力。
「——特に、何も」
「そう? それなら結構ですわ。兄上はお優しい方ですから、お義姉様の些細なことでもお気にかけてくださるのよ。ありがたいと思ってくださいね」
——彼女は、何も知らないままだ。
その思いが、紅茶の蒸気と一緒に、私の中で静かに立ちのぼった。
昨夜、私が離縁状を差し出したこと。夫がそれを読まずに署名すると言ったこと。今朝、署名された書面が王宮に届けば、私はもう、この家の人間ではないこと。
イザベラは、その一つも知らない。
たぶん、夫も話していない。
話せば、義妹の口から社交界に流れる。流れた瞬間、自分の体面に関わる。だから、彼は最後の最後まで、自分のタイミングを計ろうとするのだろう。「妻を諭してやった」「気が変わらないように温情をかけてやった」——そんな台詞のあとに置きたい紙片として、離縁状は、彼の机の上に置かれている。
それでいい。
私は別に、ここを出るのに、彼の口の上手さを必要としていなかった。
「お義姉様」
イザベラがふと、首を傾げる。
「今朝、ずいぶんお静かですわ。お顔の色も少し……」
「——よく眠れなかっただけです。朝のお茶を、いただけてよかった」
私は微笑む。微笑みは、ここに嫁いで覚えた数少ない技能のひとつだった。意味のない微笑み。何も差し出さない微笑み。
「それはいけませんわ。今度、私が調合したラベンダーの枕香を差し上げましょうか。お遊びと侮るなかれ、私のものは、なかなかでしてよ」
「——ご親切に。ですが、結構です」
私は焼き菓子に手をつけなかった。茶を半分残し、ナフキンを丁寧に折って、立ち上がる。
「もう、お部屋にお戻りに?」
「——ええ。少し、片付けがありますので」
「お遊び部屋の?」
「——いいえ」
私はそう答えてから、扉の方に向き直る。
振り返らなかった。
イザベラの「あら、なんだか今日のお義姉様は——」という小さな声が背中に聞こえた気もしたが、それも、扉を閉める音にかき消された。
廊下は、いつもより静かだった。
家令クラウスの姿はない。たぶん、わざと、見えない場所を歩いている。昨夜の扉の外の足音を、私はまだ覚えている。
調香室の扉を、私は両手で開けた。
母の蒸留器が置かれていた台。私の作りかけの香炉。並んだ香料瓶。乾燥した花びらを納めた小箱。マイヤー師から贈られた、銀のピペット立て。
そのすべてを、見回す。
——ここを出る前に、もう一度だけ、すべてを見ておきたい。
そう思った瞬間に、私はようやく、自分が本当にこの部屋を離れるのだ、と理解した気がした。




