第1話 夫人の手遊び
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。
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夕刻の調香室に響いたその声を、私は背中で受け止めた。
ああ、そうですか。
声に出さなかった。出す必要もなかった。五年。同じ言葉を、同じ口調で、何度繰り返し聞いただろう。
私は手元の作業を止めない。銀のピペットを傾け、香炉の中央に、一滴。橙とローズマリーと、ほのかな樹脂の香りが立ちのぼり、蝋燭の炎がガラス瓶の縁を金色に縁取った。
「聞いているのか、リーゼロッテ」
「——聞いております」
私は振り返らない。香炉のふちに置いたピペットの位置を、もう一度、まっすぐに直す。指先にはいつものように薄く色がついている。アクラ草の精油の、淡い緑。これは石鹸では落ちないと、十二歳のときに師に教わった。香りで生きる手は、香りで染まる。
夫——エルンスト・フォン・ヴァインフェルト侯爵は、扉を叩かずに入ってきた。それも五年、変わらない。
「来週の宮廷舞踏会では、お前は必ず南公爵の夫人の隣に座れ。あの女は今期の社交界の中心だ。お前が黙って茶を飲んでいれば、それで侯爵家の体面は保てる」
体面。
私の五年を一言で要約すれば、その二音だった。
蒸留台に並ぶ瓶を、私は順に確認していく。橙花、ベンゾイン、月見草。母が遺してくれたガラス瓶のラベルは、もう半分以上が私の字で書き直されている。十二歳から数えれば、十二年。
「リーゼロッテ。返事を」
「——かしこまりました」
「それともう一つ。離縁したいなら好きにしろ。お前の手遊びは離縁後にどこででもやればいい」
手が、止まった。
止まったのは、驚いたからではなかった。逆だった。
予感していた言葉が、ようやく自分のところまで届いた、というだけの感覚。空気がぴたりと止まり、私の中で、五年間ずっと張りつめていた糸が、音もなく緩んだ。
ふしぎだった。
言われた瞬間、悲しいと思うよりも先に、なにかが軽くなった。
重い扉を、向こう側から押さえてくれていた手が離れた、ような。
ずっと、自分から離縁を切り出してはいけないと思っていた。
妻のほうから家を捨てるのは、家門に泥を塗ることだから。母の名前にも、私を育ててくれた師の名前にも、迷惑がかかるから。
だから私は待っていたのだと、いま気がついた。
夫のほうから、そう言ってくれるのを。
ようやく、言ってくれた。それだけの話だった。
私はゆっくりと振り返る。
侯爵は窓を背に立っていた。古い肖像画のように、整った輪郭。整いすぎて、何も読めない目。
——本当に、なにも読めない。
私を見ているはずなのに、私の作っている香りも、私の指の色も、私の机の上のメモも、この方の目には映ったことがない。五年経って初めて、私はそれをはっきりと言葉にできた気がした。
「——では、お言葉に甘えて」
机の引き出しを開ける。
迷いはなかった。
中には、すでに一枚、紙が用意してある。三日前から書いていた。書いては仕舞い、書いては仕舞いを繰り返して、昨夜、ようやく封筒に納めた。
離縁状。
私はそれを取り出し、机の上に置き、夫のほうへ静かに滑らせた。
「ご署名をいただければ、明日には正式に成立いたします」
侯爵の眉が、ほんのわずかに動いた。
五年で初めて見た表情だった、と思う。
驚いたわけではなく、面白がっているわけでもなく、ただ——私が「話を聞いていた」ということに、初めて気づいた顔。
「……いいだろう。明日にでも署名する」
侯爵はそう言って、紙を取り上げる。一読する仕草はなかった。あれだけ言われ続けた離縁状の文面に、興味すらないらしかった。
「ただし、リーゼロッテ。気が変わったらいつでも戻ってこい。これは侯爵家としての温情だ。覚えておけ」
「——結構です」
私は短く答え、机の上の手を引いた。
侯爵はわずかに口の端を上げて、——あれを笑みと呼ぶのかどうか、私にはもう分からなかった——そのまま部屋を出ていった。扉が閉まる音は、思ったよりも軽かった。
部屋に残ったのは、橙とローズマリーと、樹脂の、まだ完成途中の香り。
私は香炉に蓋をする。これは、明日には、もう私のものではない香りだ。
それでも、最後の一滴まで丁寧に。手が震えていないことを、自分で確かめながら。
——震えていない。
本当に、私の手は震えていない。それが何より、自分の決断を信じていい証拠だった。
蒸留台の隅。
そこに、母の蒸留器が置いてある。
ガラスの球と、銅の蛇管。母が嫁入りのときに持ち込み、母が亡くなった日にも、まだ温かかったもの。十二歳の私が、泣きながら、お湯で丁寧に洗った道具。
私はそれを両手で持ち上げる。重さは、十二年前と変わらない。
ハンカチを広げ、銅の蛇管をそっと内側に折りたたみ、ガラスの球をくるむ。包む手だけが、ほんの少し、柔らかくなった気がした。私自身が一番、それに驚いていた。
ほかに持っていけるものなど、なにも要らなかった。
ドレスも、宝石も、嫁入り道具の銀の食器も、すべて侯爵家のもの。
私の名前で、私のところに残るものは——この、古い蒸留器ひとつ。
それで充分だった。
「——母さま」
声に出してから、自分が何を言いたかったのか、思い出した。
私はここを出ます。
それだけだった。
五年間、誰にも言えなかった一文。
ハンカチの結び目を確かめて、蒸留器を胸の前で抱える。香炉の蓋に手を伸ばし、最後の一滴の余韻が消えるまで、私は黙って立っていた。窓の外、夕闇が紫に変わっていく。
調香室の扉の向こうで、静かに人の気配がする。家令のクラウス。
おそらく今日のやりとりは、最初から最後まで、扉の外で聞こえていただろう。
彼は何も言わずに通り過ぎていった。咎める音も、慰める音もなく、ただ、一度だけ、扉のすぐ前で足音が止まったような気がした。
それで充分だった。
明日、私はこの家を出る。




