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「夫人の手遊びだろう」と離縁された王宮御用達調香師は、翌朝隣国に招かれました  作者: ヲワ・おわり


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第10話 銀の月桂樹

本作は全70話で完結予定です。

本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。

続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークと下部の☆☆☆☆☆から評価で応援していただけると励みになります。

夜のうちに、湯浴みを済ませ、髪を整え、最後に旅装を着付けた。

鏡の中の私は、五年前の婚礼の朝とよく似た顔をしていた。違うのは、目だった。あのときよりも、ずいぶんと、静かだった。


鞄はひとつだけ。

中には、布で包んだ母の蒸留器と、ハンカチに包んだ「始まり」の小瓶と、二枚の替えのドレス、わずかな書類、そして昨夜書いた師への手紙。

それだけだった。


玄関広間で、私は鞄を足元に置き、外套の前を合わせた。

外はまだ薄暗く、空気は鉛のように重かった。寒気は、ガラスを通って、私の頬を刺してくる。


「——奥様」


家令のクラウスが、いつもの位置に控えていた。

白い手袋、薄い灰色の上衣、姿勢は崩していない。


「馬車の手配は、表門に整えております。御者は、王都の駅馬を頼みました。お師匠のもとへ向かわれるご道中、滞りなくお運びいただけます」


「ありがとう、クラウス」


私は短く頷いた。

昨夜、私は決めていた。出立の朝、まずは王都近郊のマイヤー師のもとへ向かう。それより先は、まだ、何も決めていない。けれど、まず師に会う。それだけは、確かだった。


クラウスは深く一礼した。

そして、その一礼から体を起こした瞬間、彼の目線が、ふっと、私の肩越しに、玄関の窓の方へ動いた。


——一瞬、止まった。


「——奥様」


少しだけ、声の質が、いつもと違った。

動揺ではなかった。けれど、いつもの「奥様」よりも、半音、低かった。


「門前に、見知らぬ馬車が、止まっております」


私は眉を寄せる。


「私の手配した馬車では、ないのですね?」


「いえ。それとは別に。今、まさに、玄関に向かって人が降りつつ……」


クラウスはそこで言葉を切った。

そして、すっと一歩、横に動いて、玄関広間の窓の前から、私の視界を空けた。

彼はもう、見るべきものを、自分で見終わっていた。


私は鞄の脇から離れて、窓に近づいた。

カーテンに指をかけ、ほんのわずかだけ、横に引いた。


——息が、止まった。


正確には、止めるつもりはなかった。

止めるつもりはなかったのに、私の体は、勝手に呼吸を抑えていた。


表門の手前に、私が手配した辻馬車が停まっていた。それは見慣れた箱型の、簡素な茶色の馬車だった。問題はその馬車ではなかった。


——その隣に、もう一台、別の馬車が停まっていた。


漆塗りの、深い深い藍。

車体は私の屋敷の客馬車よりひとまわり大きく、車輪は太く、軸は銀で飾られていた。馬は四頭、すべて黒。御者台に立つ男は、見覚えのない長衣を纏い、襟元に銀の襟章を光らせている。


そして、馬車の扉に、紋章が描かれていた。


藍の地に、銀の月桂樹。

中央に、小さく、五つの星。


——銀の、月桂樹。


私はカーテンを握る指に、知らないうちに、力をこめていた。


その紋章を、私は知っていた。

学術の書物の表紙で、何度も見たことがあった。十六歳のころ、王宮の蔵書室で、夜遅くまで読みふけった、調香学と薬草学の文献。そのうち、もっとも高度なものの、扉絵にあった紋章。


——アルメリア帝国・王立学術院。


その四文字が、私の頭のなかで、はっきりと並んだ。


学術四公を統べる、皇帝直属の学術院。

ヴェルディア王国の宰相府ですら、その出版物を取り寄せるのに数ヶ月を要する、海の向こうにある学問の塔。


——なぜ。


私は、唇のなかで、声に出さずに、その一語を繰り返した。


なぜ、帝国の紋章が、私の屋敷の前に。

なぜ、出立の朝、ちょうど、私が玄関に立ったその瞬間に。


カーテンから手を離す。

指先が、わずかに、冷えていた。


そのとき、玄関の鈴が、低く鳴った。

ちりん、と短く一度。屋敷の客の来訪を告げる、鈴の音。


クラウスが扉に向かう前に、私は彼の足音を止めた。


「——クラウス」


「奥様」


「どなたか、ご存じですか」


クラウスは、わずかに視線を伏せた。

そして、伏せた目のまま、答えた。


「……ご訪問でございます」


そう前置きをしてから、彼は、もう一度、私の方を見上げた。


「王宮の薬務官、ハインリヒ様。それから、ご同行の方々が」


「——ご同行の方々」


「アルメリア帝国の御紋章を、お持ちでございます」


クラウスは、まっすぐに私を見た。

その目には、驚きはなかった。

驚きはなかったけれど、ほんのわずか、誇らしさのようなものが、奥に宿っていた。

あるいは、安堵のようなものが。


——彼は、知らなかったわけではなかった。

——少なくとも、こういう日が来る可能性を、心のどこかで、予感していたことがあった。


私はそのことを、彼の目を見て、初めて理解した。

理解したけれど、いま、ここでそれを問う時間ではなかった。


私は、足元に置いた鞄に、ひとつ手を伸ばした。

布で包まれた母の蒸留器に、手のひらを、軽く乗せる。


——母さま。

——私の屋敷の前に、銀の月桂樹が、立っております。


声には、出さなかった。

出さなかったけれど、その短い独白で、私の中の動揺は、ようやく、自分のかたちに収まった。


私はクラウスを見て、息をひとつ、ゆっくりと整えた。


「——お通しください」


声は、震えなかった。

震えるべき場面ではない、と、自分で決めた。


クラウスは深く一礼し、玄関の方へと進んだ。


私はその背中を見送りながら、もう一度、心のなかで、同じ問いを繰り返していた。


——なぜ、帝国の紋章が、私の屋敷の前に。

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