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「夫人の手遊びだろう」と離縁された王宮御用達調香師は、翌朝隣国に招かれました  作者: ヲワ・おわり


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第11話 手遊びを買いに参ったのではない

本作は全70話で完結予定です。

本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。

続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークと下部の☆☆☆☆☆から評価で応援していただけると励みになります。

朝の冷気が、玄関広間に流れ込んでくる。

最初に踏み込んできたのは、薬務官ハインリヒだった。昨日と同じ灰色の上衣に、銀の襟章。表情は読みづらいけれど、姿勢には、いつもとは違う緊張の余韻がにじんでいた。


その半歩うしろに、もう一人。


若い男だった。

歳は二十代の半ばだろうか。私より少し年下に見えた。背は中肉中背。けれど、黒い長衣の襟元には、銀ではなく**金の月桂樹**の小さな徽章が縫いつけられていた。学術院の高位の使者だけが許される章だ、と、私は十六歳の頃、書物で覚えていた。


彼は私の前に進み出て、両手を体の前で重ね、深く頭を下げた。


「**アルメリア帝国学術院、レフナール調香学府の使者を務める者にございます**」


声は低くなかった。けれど、よく通った。

かすかに、アルメリア帝国語の訛りが、語尾に残っていた。


私は彼を見下ろしたまま、ほんのわずかに、頭を下げ返した。


「——ヴァインフェルト侯爵夫人、リーゼロッテと申します」


ありふれた名乗りだった。

私は、五年間、同じ言葉でこの屋敷の客を迎えてきた。


使者は、頭を上げた。

そして、ほんのわずか、息を吸って、私の目を、まっすぐに見た。


「——ご無礼を承知の上で、申し上げます」


その出だしに、私は内側で、すこしだけ身構えた。


「私どもは、本日、『ヴァインフェルト夫人』ではなく、**『リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム調香師』**様に、お会いに参りました」


——リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム調香師。


その十二音が、玄関広間の冷気のなかに、ゆっくりと置かれた。


私の指先が、わずかに、固まった。

固まったのを、誰にも気づかれないように、私はそのまま、外套の合わせ目の上で、手のひらを重ね直した。


——私の、名前。

——私の、称号。


私はそのふたつを、十六歳のあの春から、心の奥で、何度もこっそりと組み合わせてみたことがあった。けれど、声に出してくれた人は、十二年間で、師と、亡き母と、薬務官と、それから王宮で叙任を授けた宰相ただ一人しかいなかった。

今朝、十二年で初めて、外からの来客の口から、その十二音が、私の足元に置かれた。


私は、何かを言おうとした。

言葉は、すぐには出てこなかった。

五年間、私の喉は、こういう種類の挨拶を、受け取る訓練を、していなかった。


その沈黙のなかに、ばたばたと、上の階から、軽くない足音が、降りてきた。


「——何の騒ぎだ」


エルンストだった。


寝間着の上に、急いで羽織ったらしい紺の長衣。髪は半ば整っていない。靴は履いていなかった。

昨夜、彼はおそらく深酒をしていた。離縁の翌朝、彼が「気が変わったら戻ってこい」と言った余韻のなかで、誰かと祝杯を上げていたのかもしれない。


階段の下まで降りた瞬間に、彼は玄関広間の光景を見た。


——使者。

——藍の馬車。

——金の月桂樹の徽章。


エルンストの顔から、一瞬で、酒の余韻が引いた。

ほんの一瞬だった。すぐに、彼は背筋を伸ばし、いつもの傲慢な顎の角度を取り戻した。


「アルメリアの使者か」


エルンストは、声を作りなおして、低く言った。


「我が侯爵家に、何用かな」


使者は——

返事を、しなかった。


正確には、エルンストに、目すらやらなかった。

彼の視線は、私の顔に、まっすぐ向けられたままだった。エルンストの方へは、頷きも、目礼も、なかった。

ただ、エルンストが「私はここの主人だ」と主張するための間を、礼儀正しく、けれど明確に、無視しただけだった。


——アルメリア帝国の使者は、ヴァインフェルト侯爵に、頭を下げない。


その、わずかな所作の意味を、私は五年間の屋敷暮らしのなかで、はっきりと読み取った。

それは、嘲笑ではなかった。冷たさでもなかった。ただ、自分たちの評価軸の上では、目の前のこの男は「敬礼の対象ではない」という事実を、淡々と表明している、その所作だった。


そして、エルンストにも、それが伝わったらしかった。


彼の頬が、わずかに、赤くなった。

そして、その赤さを隠すために、彼はいつもの皮肉に逃げた。


「——リーゼロッテ。お前を欲しがる国があるとは驚きだ」


そう言って、彼は喉の奥で、低く笑った。


「**手遊びを買う物好きがいたとはな**」


私は、振り向きすら、しなかった。

振り向くことは、彼に返事をすることだった。返事をするだけの余地を、私はもう、自分の中に、置いていなかった。


使者は、その間に、一歩、私の前に進み出た。

そして、エルンストの方へは目を向けないまま、しかし、声をはっきりとそちらにも届かせるように、短く、こう言った。


「**侯爵様。我々は、手遊びを買いに参ったのではございません**」


玄関広間の空気が、ぴたりと止まった。


使者の声には、怒りも、皮肉もなかった。

ただ、訂正だった。

誰が誰に何を売り買いするか——その理解そのものが、まったく違う、と、事実だけを、彼は短く置いた。


エルンストの口元が、開きかけて、また閉じた。


私は深く息を吸い、玄関広間の中央から、半歩、応接間の扉の方へと進んだ。

扉のそばに立つクラウスが、何も言わずに、すうっと手を伸ばし、扉を開いた。


「——使者様、応接間へ、お通しいたします」


私の声は、自分でも驚くほど、いつもどおりだった。

震えてもいなかったし、震えを抑えている力も、入っていなかった。

今朝、私の喉のなかには、たぶん、五年ぶりに、こういう自然な平静が、戻りつつあった。


使者はもう一度、私に向かって深く頭を下げ、応接間に向かって歩を進めた。

ハインリヒも、それに続いた。


エルンストは、階段の途中で、立ち尽くしていた。

私は彼の顔を見なかった。クラウスもまた、見なかった。

ヴァインフェルト邸の主人を見ない者が、その朝、玄関広間に、すでに三人いた。


応接間の扉の手前で、使者が、わずかに振り返り、私に小さく目で示した。

彼の手の中の細い革袋。

——巻物だった。


「招聘文を、朗読させていただきたく」


そう、彼は短く、私に告げた。

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