第69話 リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム、調香長
中央に、白い大理石の壇。
壇の上に、長い卓。卓の上に、——本日の、二国学術協定の、本文の、二通の正本が、絹紐で、結ばれて、置かれていた。
壇の正面の壁には、——アルメリア帝国の、銀の月桂樹の紋章。
その反対側、壇の背面には、——ヴェルディア王国の、深紅と金の、二頭の獅子の紋章。
ふたつの紋章は、本日、長く、隔てられていた両国の、ふたたびの、ひとつの机の上での合意を、見つめていた。
私は、壇の右側の、控えの位置に、立っていた。
新しい正装。襟元の銀の月桂樹の襟章の下に、——両国共同調査委員会、初代主任の、銀の徽章が、ふだんよりも、わずかに、深い銀で、輝いていた。
左隣に、テオドール。さらにその左、植物学府長、天文学府長。
壇の反対側、ヴェルディア側の控えに、——ハインリヒ。その隣に、王国の薬務局長、宰相府の上級職、計三名。
時刻、十時。
宮廷の銀の鐘が、三回、鳴らされた。
「——両国、皇帝陛下、ならびに、国王陛下のご名代として」
書記官の長が、低く、口上を、述べた。
「両国学術協定の、更新、本日付けの、署名式を、執り行う」
協定本文が、書記官により、ゆっくりと、読み上げられた。
——一、ヴェルディア王国と、アルメリア帝国は、両国の国境を、跨ぐ、蒼森一帯の、三領域に関する、共同管理委員会を、設置する。
——二、本委員会は、両国から各三名、計六名の、調査委員と、初代主任、一名により、構成する。
——三、**初代主任は、アルメリア帝国、レフナール調香学府所属、リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム、調香師、と、する**。
書記官の声に、わずかに、儀礼の重みが、加わった。
広間の各所で、列席の貴族と学者たちが、わずかに、姿勢を、整えた。
——四、任期、五年。
——五、両国輪番制。
——六、報告書は、両国の正式記録に、すべて、登録する。
——七、有効期間、十年。
——八、原本は、両国の宰相府、ならびに、学術院に、保管する。
「——以上、八条」
書記官は、文を、閉じた。
「——皇帝陛下、ご署名、お願い、申し上げます」
皇帝陛下が、壇上に、進み出た。
銀のペンを、取り上げ、卓の上の、一通目の正本に、ゆっくりと、署名された。
押された印章は、——アルメリア帝国の、皇帝印。
続いて、——ヴェルディア国王陛下の、ご名代の、特使が、壇に上がった。
彼は、深く、頭を下げ、二通目の正本に、署名した。
押された印章は、——ヴェルディア王国の、国璽。
——テオドール、植物学府長、天文学府長。
——ハインリヒ、王国薬務局長、宰相府上級職。
両国の、各代表が、ゆっくりと、署名を、進めていった。
そして、——最後の、署名者。
「——アルメリア帝国、レフナール調香学府所属、リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム、調香師、ご署名、お願い申し上げます」
書記官の声が、私を、呼んだ。
私は、控えの位置から、ゆっくりと、壇の上に、進み出た。
足取りは、ふだんの私の調香室への足取りと、変わらなかった。
緊張、は、あった。
けれど、その緊張は、外部のもの、ではなかった。
私自身の中の、——大切な瞬間を、丁寧に扱おうとする、内側の集中だった。
卓の前に、立った。
二通の協定本文の、白い余白の、署名の場所が、私の前に、開いていた。
銀のペンが、書記官の手から、私の手へと、ゆっくりと、渡された。
私はペンを、青いんくに、つけた。
そして、深く、息を、整え、——
一通目の協定本文の、私の名前を、書く場所に、
——**リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム、調香長**
と、書いた。
旧姓。
そして、新しい職名。
「ヴァインフェルト」の、文字は、ひとつも、書かなかった。
「夫人」も、書かなかった。
「王宮御用達調香師」も、書かなかった。
ただの、——リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム、調香長。
それで、——十分、だった。
私は、印章を、書類入れから、取り出した。
エヴァースハイム家の、月の下に立つ葦。
インクをつけ、署名のすぐ下に、押した。
印は、いつもよりも、深く、紙のうえに、輪郭を、残した。
二通目の協定本文。
同じ署名を、同じ位置に、書いた。
同じ印章を、同じ深さで、押した。
——両国の、宰相府と、学術院に、永遠に、保管される、ふたつの紙。
私は、ペンを、書記官に、お返しした。
そして、深く、頭を、下げた。
広間に、——拍手が、起こった。
ふだんの社交辞令の拍手では、なかった。
五十年ぶりに、両国が、新しい合意を、達成した、その本日の重みに、相応しい、長く、しかし、しずかな、拍手だった。
拍手のなかで、——私の壇の脇に、アンナが、わずかに、近寄ってきた。
彼女の手には、小さな、白い、紙片が、握られていた。
「——奥様」
低く、彼女は、つぶやいた。
「マイヤー師より、本日の朝、急ぎの祝電が、届いておりました」
「——ありがとう、存じます」
私は、紙片を、両手で、受け取った。
紙片の上の、文字は、短かった。
——ロッテ。
——**お前の母の、名前も、お前の名前と、共に、記録に残った**。
——マイヤー
私は、その三行を、二度、読んだ。
読み終わったあと、——目の端が、わずかに、湿った。
涙を、流すべき場では、なかった。
私は、丁寧に、その紙片を、たたみ、書類入れの中に、納めた。
紙片の上の、わずかな、温度の名残が、書類入れの中で、しばらく、残っていた。
——母さま。
私は、心のなかで、低く、呼びかけた。
——**ありがとう、ございました**。
それが、本日、私が、母に、伝えるべき、たったひとつの、言葉だった。
五十年前の母の論文の、献辞の中の、私の名前と、本日の協定本文の中の、——私の名前。
ふたつの紙が、いま、互いの方を、はっきりと、見つめ合っていた。
「——奥様」
低く、テオドールが、私の隣に、立っていた。
「**おめでとうございます**」
短く、彼は、それだけを、置いた。
私は、深く、頭を、下げた。
「——ありがとう、存じます」
頭を上げると、彼は、わずかに、目元を、ゆるめていた。
彼の灰青の瞳の中に、——ふだんとは、わずかに違う、——もう少し、柔らかい、温度が、宿っていた。
拍手は、まだ、続いていた。
私は、壇の上から、控えの位置に、戻った。
戻りながら、壇の正面と背面の、ふたつの紋章を、——銀の月桂樹と、二頭の獅子と、——もう一度、視界の中に、収めた。
ふたつの紋章の、あいだに、——私の名前が、本日、永遠に、置かれた。
それで、——十分、だった。




