第70話 私の名前で
私は、レフナール調香塔の、最上階の、研究室に、ひとり、立っていた。
第一章で、テオドールに、初めて案内された、あの部屋。
書架は、もう、空ではなかった。
私の自筆の研究記録、母の論文の写し、マイヤー師の手記の写し、両国共同調査委員会の最初の会議録、そして——若い学者たちの寄稿原稿が、整然と、納められていた。
中央の床の白布は、すでに、外されていた。
台のうえには、——母の、蒸留器が、置かれていた。
ヴァインフェルト邸の隣家、フィッツヘンドラー伯爵家の蔵から、クラウスが、ふだんの隣家のお家令、シュタイヤー氏のもとで、——ふた月かけて、丁寧に、護衛をつけて、帝都ヴェスペルまで、送ってくれた。
銅の蛇管。ガラスの球。
底の、小さな傷。
私は、その傷の上を、いつものとおりに、指の腹で、ひとつ、なぞった。
——母さま。
私は、低く、心のなかで、呼びかけた。
——あなたの、蒸留器が、本日、この塔の、研究室の、中央に、置かれました。
蒸留器は、答えなかった。
けれど、銅の輪郭は、夜の蝋燭の灯りの中で、いつもと変わらない、わずかな、温度を、保っていた。
机のうえに、一通、長い手紙が、置かれていた。
封蝋は、緑。
押された紋章は、葉と、蒸留器。
——マイヤー師の、紋章。
私は、椅子に座り、手紙を、ペンナイフで、丁寧に、開いた。
便箋は、——四枚。
——ロッテ。
——お前の、協定署名のことを、聞いた。アルメリア帝国学術院の、若い学究のひとりが、わざわざ、私の薬草園まで、訪ねてきて、署名式の細部までを、伝えてくれた。「リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム、調香長」と、お前は、書いたのだな。
——わしには、その十二音と、新しい三音の重みが、——五十数年前、お前の母の論文の表紙裏に、若い手で、書かれていた、「リーリエ・フォン・エヴァースハイム」、と同じ、空気の重みに、見えた。
——ロッテ。
——お前の母、リーリエが、生きていたら、——今頃、お前と並んで、蒼森の縁に、立っていただろう。
——あの森の、北向きの岩肌に、また、白蒼苔の群生が、戻る日を、ふたりで、見ていただろう。
——わしには、それが、見えるような気がする。
——**お前の母も、誇りに思っているだろう**。
——わしは、王都近郊の、薬草園に、いる。冬は、温室の管理。春は、苗作り。夏は、——ふだんと、変わらない。
——お前が、いつでも、訪ねてくれて、構わない。
——お前が、次に作る香水の、名前を、——わしは、楽しみにしている。
——マイヤー
私は、手紙を、四つに、たたんだ。
「お前が、次に作る、香水の名前」。
その九音を、私は、何度か、唇のかたちだけで、なぞった。
第一章九話、私が、ヴァインフェルト邸の調香室で、最後の夜に、作った、「**始まり**」の小瓶。
あの瓶を、私は、自分の鞄に、ハンカチに包んで、持ち出した。アルメリアに来てからの、長い研究の中で、——あの小瓶は、いまも、研究室の棚の奥に、置かれている。
私は、まだ、その続きの香水を、作っていなかった。
ふだんの研究の手の動きの中に、——次に作る香水の、輪郭は、ぼんやりと、立ち上がりつつ、まだ、形に、なっていなかった。
しかし、——いつか、私は、次の香水を、作る。
マイヤー師は、それを、楽しみに、——気長に、待ってくださるのだろう。
ノックの音が、扉に、入った。
「奥様、アンナで、ございます」
「お入りください」
アンナは、扉を、開け、わずかに、姿勢を、整えた。
彼女のうしろから、もうひとり、——若い少女が、控えめに、ついてきていた。
「奥様、新しい弟子候補を、ご紹介いたします」
少女は、十六歳ほどに、見えた。
ヴェルディア風の、栗色の髪。地味な、けれど、清潔な、長衣。両手を、体の前で、軽く、重ねた、丁寧な姿勢。
指先には、——わずかに、薄い、緑色。
私は、その指先を、見て、わずかに、目を、留めた。
「——ヴェルディア北部、フェルスベルク孤児院から、アルマ村の薬草農家の、見習いとして、預けられていた者でございます。手の動きが、確かで、薬草の名前を、たくさん、覚えております」
アンナの推薦の声には、控えめながら、確信が、にじんでいた。
彼女自身、——孤児院から、雪の街道で、薬草の名前を寝言で繰り返していた、十六歳の自分の、過去の延長線上で、今夜、この子を、私の前に、連れてきたのだろう、と、私は推測した。
少女は、深く、頭を下げた。
「——**リーゼロッテ、調香長**。お会いできて、光栄に、存じます」
私は、しばらく、その十二音を、心のなかで、聞いていた。
——リーゼロッテ、調香長。
それは、本作で初めて、——私の名前と、新しい職名を、誰かが、こうして、面と向かって、呼んだ、瞬間だった。
不思議と、——心地よかった。
五年前、ヴァインフェルト邸では、誰にも、呼ばれなかった、その並びの音が、いま、十六歳の少女の口から、自然に、立ち上がっていた。
「——あなたも、お元気で」
私は、短く、答えた。
少女は、もう一度、深く、頭を下げ、退室した。
アンナも、わずかに、頭を下げ、退室した。
扉が、閉まった。
私は、机の前で、しばらく、母の蒸留器の方を、見ていた。
銅の輪郭は、夜の灯りの中で、変わらない、わずかな、温度を、保ったままだった。
しばらくして、もう一度、扉が、ノックされた。
——テオドール、だった。
「お入りください」
テオドールは、扉を、後ろ手に、閉め、ゆっくりと、机の前まで、歩いてきた。
彼の灰青の瞳が、——机のうえの、マイヤー師の手紙と、台のうえの、母の蒸留器を、ひとつずつ、目で、追った。
「——お母上の」
低く、彼は、つぶやいた。
「——はい」
短く、私は、答えた。
しばらく、しずかな、間が、あった。
テオドールは、私の机の前の、革張りの椅子に、腰を下ろした。
窓の外を、彼の灰青の瞳が、——わずかに、追った。
塔の最上階の、大きな縦長の窓の外には、——本日の夜は、月のない、星空が、深く、広がっていた。
「——リーゼロッテ殿」
低く、彼は、口を、開いた。
「**貴女と、仕事を、していたい**」
私は、彼を、見た。
彼は、窓の外の星を、見たままで、続けた。
「**仕事だけ、では、ない、と、言っても——お許し、いただけますか**」
——本作で、初めての、彼の、淡い告白だった。
過剰な情緒は、なかった。
私の手を、握ろうとも、しなかった。
ただ、その一文だけが、夜の、塔の最上階の、空気のなかに、低く、置かれた。
私は、彼の灰青の瞳を、しばらく、見ていた。
七年前、王宮御用達調香師の称号を、海の向こうで、教科書として読み始めていた、二十二歳の彼。
六年半前、私の論文を、毎年、一冊ずつ、机の引き出しに、納め始めた、彼。
一年前、私の招聘を、皇帝陛下に上申し始めた、彼。
ふた月前、御前会議の壇のうえで、私の業績を、学府長として保証する、と、宣言した、彼。
そして、今夜、——夜の星空の前で、控えめな十二音と、十二音だけで、長年の自分の内側を、初めて、口にした、彼。
私は、わずかに、微笑んだ。
ふだん、私は、微笑むことが、少なかった。
今夜は、自然に、唇のかたちが、ふっと、ゆるんだ。
「——**ゆっくりと**」
短く、私は、それだけを、置いた。
ゆっくりと。
急がず、押し付けず、押し返さず。
私の手の温度と、彼の手の温度が、互いに、馴染んでいく、その速度に、任せて。
それだけが、いまの私たちに、ふさわしい、答えだった。
テオドールは、わずかに、目を、伏せた。
彼の口元にも、——薄い、けれど、確かな、微笑のかたちが、ひとつ、現れた。
「**それで、十分でございます**」
低く、彼は、それだけを、置いた。
しばらく、私たちは、しずかに、机を挟んで、坐っていた。
夜の塔の最上階の、空気のなかで、銅の蒸留器が、ふだんよりも、わずかに、温かく、光っていた。
しばらくして、テオドールは、立ち上がった。
扉のところで、彼は、もう一度、振り返った。
「——**明日も、また**」
短く、彼は、それだけを、置いて、退室した。
扉が、閉まった。
私は、研究室の中央に、ひとり、残った。
窓の外の、星空が、夜の深い藍のなかに、白く、点々と、輝いていた。
机のうえに、マイヤー師の手紙。
台のうえに、母の蒸留器。
書架には、私の研究記録、母の論文、両国の協定の写し。
私は、ランプの灯りを、半分まで、絞った。
机の前で、両手を、軽く、揃え、低く、心のなかで、呼びかけた。
——母さま。
——マイヤー師。
——**私は、私の、名前で、立っております**。
母の論文の、冒頭の一行が、——ふっと、私のなかで、立ち上がった。
——**香気は、記録である。地理は、記憶である**。
私はその一行を、唇のかたちだけで、なぞった。
母の声が、五十年の時間を、超えて、私の研究室の、机の上で、低く、響いた、ような気が、した。
窓辺に、星が、まだ、点々と、白く、輝いていた。
——お遊びと呼ばれた香りが、今、私の名前で、世界に届いている。
【完】




