第68話 永遠に
長卓の上には、——昨日の議論を、書記官たちが、整理し、清書した、協定本文の、草案が、広げられていた。
「——本日は、本文の、最終調整の場で、ございます」
ハインリヒが、低く、開会した。
書記官が、条文を、ひとつずつ、読み上げた。
——一、ヴェルディア王国と、アルメリア帝国は、両国の国境を跨ぐ、蒼森一帯の、植物学・薬学・調香学三領域に関する、共同管理委員会を、設置する。
——二、本委員会は、両国から、各三名、計六名の、調査委員と、初代主任、一名により、構成する。
——三、**初代主任は、アルメリア帝国、レフナール調香学府所属、リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム調香師、と、する**。
書記官が、その三条目の朗読のところで、わずかに、声を、抑えた。
彼自身、自分が、いま、読み上げているものの、重みを、確認していた。
「——四、任期は、五年。再任、可能」
「——五、委員会の運営は、両国輪番制」
「——六、本協定に基づく、調査結果、ならびに、流通管理の、報告書は、両国の正式記録に、すべて、登録される」
——両国の、正式記録に、すべて。
その一行を、私は、心のなかで、繰り返した。
書記官が、続けた。
「——七、本協定の、有効期間は、十年。期限到来時に、両国の、再交渉により、更新する」
「——八、本協定の、正式な、原本は、両国の、宰相府および学術院に、それぞれ、一通ずつ、保管する」
——両国の、宰相府および学術院に、保管。
ハインリヒが、わずかに、頷き、長卓の中央の、書記官の方に、目線を、送った。
「——以上、八条、本文の確認とする」
「ご異論、ございませんか」
長卓の両側で、誰も、口を、開かなかった。
本文は、昨日の議論を、過不足なく、整理していた。
「——では、明朝、第一署名式と、いたしましょう」
ハインリヒが、低く、結んだ。
私は、深く、頭を、下げた。
長卓の向こうのテオドールが、わずかに、こちらに、目線を、向けた。
「——奥様」
低く、彼は、口を、開いた。
「**貴女のお名前は、本日、本協定の、第三条に、置かれました。明日、貴女が、ご署名されることで、——貴女のお名前は、両国の、正式記録に、永遠に、記録される、ことに、なります**」
私は、しばらく、答えなかった。
——**永遠に**。
その三音を、私は、自分のなかで、ゆっくりと、置いた。
「永遠に」、という言葉を、私はこれまで、自分の名前と並べて、聞いたことが、なかった。
ヴァインフェルト夫人としての、私の名前は、すでに、消えていた。
リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイムとしての、私の名前は、ようやく、自分の手のなかに、戻ってきていた。
そして、その名前が、今朝の協定の、第三条に、置かれた。
明日、署名すれば、その名前は、両国の宰相府と学術院に、——永遠に、保管される。
それは、私の人生で、もう、一度、書き換えられたものを、消すことのできない場所に、置く、という、決定的な、行為だった。
「——お引き受け、いたします」
私は、低く、答えた。
「**両国の信頼に、応えられるよう、職務に、努めて、まいります**」
テオドールが、深く、頷いた。
「——お願いいたします」
——*
その夕方、私は、宿舎に、戻った。
アンナが、すでに、明日の署名式のための、正装を、整えていた。
ふだんの黒い学者服に、新しい、銀の刺繍が、加えられていた。襟元の銀の月桂樹の襟章の、その下に、——両国共同調査委員会、初代主任の、銀の小さな徽章が、新たに、添えられていた。
「奥様、明日は、これを、お召しに、なってください」
「——ありがとう存じます」
アンナは、正装を、机の脇の衣紋掛けに、丁寧に、掛けた。
そして、深く、頭を、下げ、退室した。
私は、机の前で、しばらく、座っていた。
机の上の、引き出しを、ひとつ、開けた。
取り出したのは、——布で包んだ、母の蒸留器。
私はそれを、机のうえに、ゆっくりと、置いた。
布を、ほどき、銅の蛇管と、ガラスの球を、ランプの灯りの下に、出した。
銅の表面の、底の小さな傷の上を、いつものとおりに、指の腹で、ひとつ、なぞった。
——母さま。
私は、低く、心のなかで、呼びかけた。
——明日、私は、アルメリア帝国の宮廷で、二国学術協定に、署名いたします。
——蒼森の、両国共同管理委員会の、初代主任、として。
——五十年前、あなたが、マイヤー師と、入った森の、管理を、私は、引き継ぎます。
——母さま。
——明日、私は、——**あなたの研究を、完成させる場に、立ちます**。
蒸留器は、答えなかった。
答えてもらえないことは、いまの私には、もう、寂しくなかった。
私は、布を、丁寧に、包み直した。
そして、机のうえに、そのまま、置いた。
今夜は、机のうえに、置いたままで、おく。
明日の朝、私は、家を出る前に、もう一度、この蒸留器の方を、目で、確かめる。
書類入れの、いちばん上には、エヴァースハイム家の、印章が、納められていた。
明日、私はその印章を、——両国の協定書の上に、押す。
ランプの灯を、半分まで、絞った。
寝台に、上がる前に、もう一度、私は、机の上の、蒸留器の方を、見た。
銅の輪郭は、薄い灯りのなかで、わずかに、温度を、保ったままで、私を、待っていた。




