第67話 ハインリヒ殿
中央に、長い、楕円形の交渉机。その両側に、両国の代表団の席。
正面の壁には、——藍と銀の、アルメリア帝国の旗と、深紅と金の、ヴェルディア王国の旗が、並んで、掛けられていた。
私は、アルメリア帝国側の席に、座っていた。
正面に、テオドール、調香学府長、ならびに、本交渉の、帝国側主席代表。
私の左隣に、植物学府長。テオドールの右隣に、天文学府長。
私自身は、——調香学府代表として、長卓の、こちら側に、列していた。
アンナは、書記の補佐として、テオドールの後ろの席に、控えていた。
向かい側、——ヴェルディア王国側の席の、中央に、ひとりの男性が、座って、いた。
灰色の上衣。襟元には、——銀の襟章。
襟章の中央に、新しい、王宮宰相府の、上級職を示す、刺繍。
——ハインリヒ。
私は、ふだんの呼吸を、整えて、長卓越しに、彼を、見た。
七年前、王宮の応接間で、私の前に、両手を膝に置いて、座っていた、灰色の上衣の薬務官。
今朝、彼は、——ヴェルディア王国の、本交渉の、主席代表として、長卓の向こうに、座っていた。
ハインリヒは、私と目が合った瞬間、ほんのわずかに、——頷いた。
それは、再会の挨拶として、彼に許された、最大限の、表現だった。
深い礼でもなく、笑顔でもなく、ただ、ひとつの頷き。
私は、その頷きを、同じ深さの、頷きで、返した。
——**ハインリヒ殿。あなたは、王宮で、代表になられたのですね**。
私は、心のなかで、低く、置いた。
七年前、彼は、薬務官だった。
今朝、彼は、王宮宰相府の、上級職に、昇進していた。
それは、たぶん、——彼が、私への協力で、密かに、海の向こうに、論文を送り続けた、その七年間の業務が、ヴェルディア王宮の側でも、正当に、評価された結果だった。
交渉は、定刻に、始まった。
「——皇帝陛下、ならびに、ヴェルディア国王陛下のご名代として」
書記官の長が、低く、口上を、述べた。
「両国の、学術協定の、本日付の、更新交渉を、開始いたします」
議題は、四つ。
一、蒼森地帯の、管理について。
二、薬草の、流通の、透明化について。
三、学術交流の、継続について。
四、蒼帯残党の、追跡協力について。
ハインリヒが、最初の発言を、述べた。
「ヴェルディア王国、宰相府を代表して、申し上げます。本日の交渉は、——両国の、学術的、ならびに、公的な、信頼関係の、再構築の場でございます。本件の、出発点は、——アルメリア帝国学術院のご厚意による、ヴィレナ熱病解決でございました。本王国は、その学術的貢献に対し、深く、感謝を、表明いたします」
私は、深く、頭を、下げた。
ヴェルディア王国の代表団が、私の名を、直接、口にしないことが、——いまの段階では、適切だった。
本件を、ひとりの調香師の個人的な手柄にせず、——両国の学術連携の、出発点として、扱う方が、これからの交渉の温度を、整えやすかった。
「——蒼森の管理に関する、議題から、始めましょう」
テオドールが、ペンを、構えた。
私は、低く、口を、開いた。
「——失礼ながら、申し上げます」
両国の代表団の目線が、私の方に、向いた。
「**蒼森の管理は、植物学、薬学、調香学の、三領域に、またがります**。植物学的には、自生地の、保全と、調査。薬学的には、毒性のある植物の、安全な取り扱い。調香学的には、香気成分の、識別と、有効活用」
「したがって、三領域の、調査委員会を、両国共同で、設置することを、ご提案、申し上げます」
「いずれか、ひとつの領域だけが、管理することは、——再び、ガストン卿の事案のような、領域間の摩擦と、密売の温床に、繋がる、可能性が、ございます」
長卓の両側で、しばらく、静かな確認の、空気が、流れた。
「——ご提案を、承ります」
ハインリヒが、低く、応じた。
「ヴェルディア王国、宰相府としては、——調香師リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム殿の、ご提案に、賛成いたします。本王国側からは、薬務官、植物学局、調香学関係者の、三領域の、合計六名の、共同調査委員を、派遣する用意が、ございます」
テオドールも、頷いた。
「アルメリア帝国側も、同様に、三領域から、六名の、共同調査委員を、派遣いたします。委員会の運営は、——両国の輪番制と、いたしましょう。初代の運営主任は、——」
「——初代主任は」
植物学府長が、低く、口を、はさんだ。
「——本件、研究の中核を、担われた、リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム調香師に、お願いするのが、適切ではないかと、存じます」
「左様、で、ございますね」
天文学府長も、頷いた。
私は、目を、上げた。
「——お引き受け、いたしてよろしいのでしょうか」
ハインリヒが、長卓の向こうから、はっきりと、答えた。
「**ヴェルディア王国、宰相府は、本提案を、——歓迎いたします**」
テオドールが、軽く、目を伏せ、また、私の方に、目を、向けた。
私は、深く、頭を、下げた。
「——お引き受け、いたします」
短く、私は、それだけを、置いた。
それから、続けた。
「初代主任として、——両国の信頼に、応えられるよう、職務に、努めます」
書記官が、私の発言を、書きとめていた。
両国の代表団の、何人かが、目線を、合わせていた。
不思議と、不和の色は、なかった。
七年前の、屋敷の調香室での、私の五年間の沈黙が、海の向こうで、ここまで、整えられて、戻ってきていた。
私はもう一度、長卓の向こうの、ハインリヒの方を、見た。
彼は、わずかに、目を、伏せ、——けれども、口元には、ふだんなら見せない、——薄い、しかし、確かな、微笑のかたちが、あった。
それは、十六歳の春に、私の名前で、王宮御用達調香師の称号を、海の向こうの誰かに、密かに、伝え始めた、あの男の、長い、長い、業務の、しめくくりの表情だった。




