第65話 お屋敷は、もうございません
帰路三日目の朝、——ヴェルディア王宮、薬務官ハインリヒからの、急ぎの便書が、私たちの宿に、届いた。
封蝋は、王宮宰相府の、正式な深紅。
中身の便箋は、ハインリヒの、見慣れた整った文字。
——リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム、調香師。
——ご一報、申し上げます。
——一、本日、ヴェルディア王宮、宰相府より、**ヴァインフェルト侯爵家門に対する、爵位返上、ならびに、領地国庫返納の処分**が、決定されました。理由は、蒼帯発起人家門との縁戚関係、および、ヴァインフェルト領、北東部における、密売拠点の運営事実、でございます。エルンスト殿、ご本人の関与は、自覚的でなかったと、認定されておりますが、家門としての責任は、——免れず、と、宰相府の判決でございます。
——二、義妹、イザベラ殿につきましては、お茶事件の責任を、問われましたが、ヴィレナを、薬草茶と、信じての配布であり、——無知が、認定されました。同家門の処分に、伴い、——**ヴェルディア北部、ハイデンマール修道院、終身預け**、と、宰相府の判決でございます。
——三、エルンスト殿、ご本人の所在は、——本日付で、**確認、不能**。判決の前日、お屋敷から、お姿を、消されました。逃亡なのか、自死なのか、行方不明なのか、現時点では、明らかでは、ございません。
——四、ヴァインフェルト邸の、お屋敷は、すでに、宰相府の管理下に、入っております。家令、クラウス殿は、ご自身の身上の整理を、終え、近隣の隣家のもとで、隠居されることが、決まっております。
——五、貴女のお取り扱いに関しまして、特段のご通達は、ございません。本件、ヴァインフェルト家門との、いかなるご関係も、貴女には、もはや、ございません。
——リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム調香師、ご健勝にて、調香学府でのお仕事を、お続けくださいませ。
——薬務官、ハインリヒ
私は、その便箋を、ゆっくりと、机のうえに、戻した。
馬車の向かいの、テオドールは、私の様子を、静かに、見ていた。
「——奥様」
低く、彼は、口を、開いた。
「**貴女は、エルンスト殿のことを、お気に、なさいますか**」
私は、しばらく、答えなかった。
答えるべきことを、整理する必要が、あった。
けれど、その整理は、すぐに、終わった。
「——いいえ」
私は、低く、短く、答えた。
「**彼の人生は、彼のものでございます**」
テオドールは、深く、頷いた。
「——左様、で、ございますね」
私はその二行を、自分のなかで、もう一度、確かめた。
エルンストの失踪を、私は、追わない。
彼が、自死したのか、逃亡したのか、それとも、どこかの片田舎で、息を、静かに、続けているのか、——どの可能性も、もう、私には、関係が、なかった。
彼は、彼の人生を、彼自身の手で、選び、——その結果に、辿り着いた。
それを、私が、追って、確認することは、私の生活の温度を、無意味に、汚すだけだった。
——**私は、振り返らない**。
私は、もう一度、そう、心のなかで、置いた。
四十話の朝、私が、テオドールの手紙を、胸の前に、当てた瞬間に、決めたこと。
そのときの決意が、今朝、もう一度、確かめられた。
それで、十分だった。
——*
帝都ヴェスペルに、戻った夜。
宿舎の机のうえに、もう一通、別の手紙が、置かれていた。
封蝋は、ふたたび、無紋。
筆跡は、——クラウスの、三通目だった。
私は、手を、清めた。
ペンナイフで、封蝋を、丁寧に、割った。
便箋は、二枚。
——奥様。
——お屋敷は、もう、ございません。
——本日、ヴァインフェルト邸の、表玄関の、家門の銀の表札が、王宮の宰相府の、係官により、外されました。表札は、宰相府に、引き取られました。
——お屋敷の建物は、当面、ヴェルディア王国の、国庫の管理下に、置かれます。私は、本日付で、家令の職を、辞しました。長きにわたる、お屋敷でのお勤めを、つつがなく、終えることが、できました。私の老後は、隣家の、フィッツヘンドラー伯爵家のお屋敷で、隣家のお家令、シュタイヤー氏のもとで、過ごすことに、相成りました。
——奥様の、調香室の品々につきまして。
——ヴィレナの判決の、前日、私は、お屋敷の管理が、宰相府に、移ることを、見越して、奥様の、調香室の品々を、——香料瓶、香炉、未整理の試作品、母君の蒸留器の、台のひとつ、——**すべて、隣家の、フィッツヘンドラー伯爵家の、蔵に、移して、大切に、保管いたしました**。
——いつなりとも、奥様のご指示が、ございましたら、お送りいたします。
——お元気で、いらしてくださいませ。
——クラウス
私は、しばらく、その便箋を、見ていた。
——お屋敷は、もう、ございません。
その一行に、私は、わずかな、しずかな感慨を、覚えた。
ヴァインフェルト邸が、消えた。
五年間、私が、暮らした建物の、銀の表札が、王宮の宰相府に、引き取られた。
それは、私自身の中で、いつか、消えるべきだった建物が、ちゃんと、消えた、というだけのことだった。
そして、もうひとつの、——調香室の品々の、ことを、書いた段落。
——隣家の、蔵に、大切に、保管いたしました。
私は、その一行の上で、長く、目を、留めていた。
クラウスは、最後の最後まで、——私の名前を、忘れなかった。
私の指の薄い緑色を、知っている人間として、——私の調香室の、棚に並んだ、五十本以上の香料瓶を、私の母の蒸留器の、もう一台の予備の台を、——すべて、お屋敷が壊される前夜に、隣家の蔵に、運び出してくれていた。
私はそれが、最後に残ったヴァインフェルト邸の、——本当の遺産だ、と思った。
「——クラウス」
私は、低く、心のなかで、呼びかけた。
——**ありがとう**。
便箋を、私は、四つに、たたんだ。
たたんだ手紙を、机の引き出しの、奥の、いちばん大切な引き出しの中に、納めた。
その引き出しには、すでに、クラウスからの一通目と、二通目が、置かれていた。
三通目を、その隣に、揃えて、納めた。
引き出しを、閉じる音は、いつもよりも、少しだけ、深く、響いた。
明日からは、——学府の、自分の机の上で、報告書を、整える。
ヴィレナ熱病解決の、正式な、学府記録の登録、と、密売網摘発の、報告書の、整理。
私はランプの灯を、半分まで、絞った。
深く、息を、吐いた。
ヴァインフェルト邸は、消えた。
ヴァインフェルト夫人としての、私の名前も、消えた。
私の手のなかには、いま、——リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム、という、自分の名前だけが、残っていた。
それで、十分、だった。




