第60話 まだ終わっていません
外套を脱ぐと、彼は、机の前の革張りの椅子に、私と向かい合わせに、腰を下ろした。
机の上には、御前会議で提出した物的証拠の、写しが、まだ、いくつか、整然と、並んでいた。
「——奥様」
低く、彼は、口を、開いた。
「**本日は、お休みください**」
私は、わずかに、目を上げ、彼の目を、見た。
そして、低く、首を、振った。
「——いいえ。まだ、でございます」
テオドールの口元が、ほんのわずか、ゆるんだ。
それは、苦笑というよりは、——納得の、薄い微笑だった。
「——左様で、ございますね」
短く、彼は、答えた。
「明日からは、**密売網の、摘発のための、準備に、入ります**」
「ええ」
「ガストン卿の調査委員会と、並行して、ヴェルディアの王宮側との、共同捜査の準備も、整える必要がございます。ハインリヒ殿が、向こうで、すでに、動いておられます。蒼帯の上層構造の、——具体的な、人物の特定」
「左様で、ございますか」
「貴女には、特定の現場には、立ち入らないでいただきたい、と、考えております。物理的な危険が、まだ、あります。捜査の方は、私と、王宮薬務局、それから、警備局で、進めます。貴女には、**学術的な、解析の、ご担当を、お願いいたしたく**」
私は、わずかに、頷いた。
「拮抗成分の、配合の最終仕上げと、解毒法の、量産処方の確立。それから、押収された薬草の、香気鑑定。よろしいでしょうか」
テオドールは、深く、頷いた。
「**それで、結構でございます**」
私は、低く、口元を、ゆるめた。
ふだんなら、しない種類の、わずかな、口元の動きだった。
私自身、それを、自分の中で、五年ぶりに、自然に、出した気がした。
「——テオドール卿」
私は、低く、続けた。
「**この戦いは、まだ、終わっておりません**」
テオドールは、しばらく、答えなかった。
それから、彼は、姿勢を、整え直し、深く、頷いた。
「——左様、で、ございます」
そう、彼は、短く、置いた。
その短い、肯定の三文字に、彼の中の、長い戦いの覚悟が、ふっと、低く、横たわっていた。
私はそれを、視界の隅で、確かめた。
そして、視界の隅から、戻した目線を、ふだんの机の上の、書類の方へ、ゆっくりと、引き戻した。
——彼は、私が、休まないことを、知っている。
私は、心のなかで、ひっそりと、置いた。
休まないことを、止めようとしない。
休むことを、強要しない。
ただ、本日はお休みください、と、一度、形だけ、勧めて、——その後は、私の判断を、尊重する。
それが、たぶん、彼の、私への、敬意の形だった。
そのとき、扉が、控えめに、ノックされた。
「——アンナで、ございます。失礼いたします」
アンナは、書類入れを、両手で、抱えて、入ってきた。
「奥様、テオドール卿。新しい情報が、ございます」
彼女は、机の上に、革張りの書類入れから、一枚の、丁寧に折り畳まれた、地図を、取り出して、広げた。
それは、蒼森の、——南西斜面を、含む、より広い範囲の、最新の地理情報だった。
学府の地理学府が、御前会議の判決を受けて、即座に、現地に、密偵を派遣して、収集してきた、最新版の地図だった。
地図の上には、——いくつかの、新しい、赤い印が、書き加えられていた。
「——奥様。ご注目、いただきたいのは、こちらでございます」
アンナは、地図の南西の、谷の底のさらに先、——国境を、ヴェルディア側に、わずかに、超えた地点を、指で、示した。
そこには、地形の窪みの中に、——「**旧、ローテンザント鉱山跡**」と、書かれていた。
「**国境近くの、旧鉱山跡**でございます」
アンナは、低く、続けた。
「鉱山は、五十年前に、廃坑となっております。表向きは、何の活動も、ありません。けれど、現地調査の報告によりますと、**過去三年のあいだに、坑道の入り口の、三箇所が、新しく、整備されている、痕跡が、ございます**」
私は、地図に、身を寄せた。
旧鉱山跡。
廃坑、と、報告されながら、再整備されている。
立地は、蒼森南西斜面の、群生地から、徒歩で、半日。
ヴェルディア側に、ある。
そして、——ヴェルディアの、北東部の、街道から、外れた、人目につかない位置。
——ここが、本拠地。
私の指は、地図の上の、旧鉱山跡の赤い印の上で、ふっと、止まった。
「テオドール卿」
私は、低く、彼の方を、向いた。
「**ここで、ございます**」
テオドールは、地図の上を、視線で、確かめた。
彼の灰青の瞳が、わずかに、引き締まった。
「——左様、で、ございましょう」
低く、彼は、頷いた。
「ヴィレナを、ここで、乾燥、もしくは、薬草化、している、と、推測されます。坑道のなかは、湿度を、低く保てる。乾燥処理に、ふさわしい。そして、坑道の口は、夜陰に紛れて、簡単に、出入りができる。蒼帯の本拠地として、これ以上、ふさわしい場所は、ございません」
アンナは、書類入れを、机の脇に、置き、私の方に、姿勢を、整え直した。
「——明日から、ヴェルディア王宮、薬務局、ハインリヒ氏との、共同捜査の準備に、入ります。摘発の正式な実行までには、おそらく、ふた月ほどでございます」
私は、深く、頷いた。
「——よろしく、お願いいたします」
その夜、テオドールとアンナが、退出した後、私は、ひとり、机の上の、地図を、しばらく、眺めていた。
旧鉱山跡。
五年前まで、私が、ヴァインフェルト邸の、調香室で、お遊び、と呼ばれていた、その時代に、——その鉱山の坑道のなかで、別の手が、別の目的で、薬草を、扱っていた。
私はランプの灯を、半分まで、絞った。
深く、息を、吐いた。
戦いは、まだ、終わっていない。
けれど、戦いの、輪郭が、ようやく、見えた。
本拠地が、地図の上で、ひとつの、赤い点として、整理された。
私の指は、明日からも、その点の方向に向かって、動いていく。




