第57話 事実は、これだけです
天井は、ふだんの議場の倍以上の、高さに、抜けていた。北側の壁の上に、皇帝の玉座が、わずかに、高くなった段の上に、据えられていた。玉座の左右には、宮廷宰相と、書記官の長が、付き従っていた。
広間の中央には、銀の縁取りの、大きな絨毯が、敷かれていた。
絨毯の中央には、白い大理石の床に、ふたつの位置を示す、銀の細い線が、ひかれていた。
ひとつは、玉座から見て、左寄り。もうひとつは、右寄り。
ふたつの線の上に、それぞれ、議題の当事者が、立つ場所、と、決められていた。
私は、絨毯の中央の、玉座から見て、左寄りの線の上に、立った。
隣には、テオドール。彼の襟章は、学術四公の銀。
反対の、玉座から見て右寄りの線には、——ガストン卿。深い灰色の薬学府の長衣に、銀の襟章。
「——これより」
玉座の前の宰相が、低い、よく通る声で、宣告した。
「**リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム、調香師の、賓客資格について、議する**」
私は、深く、頭を、下げた。
ガストン卿も、わずかに、頭を、下げた。
「発議者、ガストン卿、ご発言を」
ガストン卿は、姿勢を、整え、両手を、体の前で、軽く重ねた。
「皇帝陛下に、申し上げます」
低く、彼は、口を、開いた。
「私は、調香学府の、ヴィレナ研究の主導権について、深く、憂慮するものでございます。リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイムは、**ヴェルディアから追放された、一夫人でございます**」
——「追放された、一夫人」。
私の指は、長衣の合わせ目の上で、わずかに、固くなった。
それは、想定していた言葉のひとつ、だった。
私は、目を、伏せて、それを、受けた。
反応はしない、と、決めていた。
反応すれば、彼の発言の輪郭を、私が、深めることになる。
「外国人に、本帝国の、国家戦略科学を、委ねるのは、国益に、深く、反するもの、と、存じます」
ガストン卿は、続けた。
「調香学府の、独占の体制は、薬学府との、本来の協力関係を、破壊しております。一外国人の、しかも、ヴェルディアから追放された一夫人の、業績は、不確かな噂の領域を、出ません。その者に、皇帝陛下直々の、賓客の身分を、与え続けることは、本帝国の、品位と、独立性に、関わる事柄で、ございます」
ガストン卿は、十分以上、語り続けた。
何度か、「**外国人**」、「**追放された一夫人**」、「**不確かな噂**」、「**国益**」、——その四つの語を、繰り返した。
私はそのあいだ、玉座の前の絨毯の縁の、銀の細い線を、目線で、追っていた。
怒り、は、湧いてこなかった。
五年間、ヴァインフェルト邸で、たぶん、同じ種類の言葉を、私はもう、嫌というほど、聞いてきた。
今朝のこれは、その繰り返しに過ぎなかった。
長広舌が、ようやく、終わった。
ガストン卿は、深く、頭を下げ、自分の位置に、戻った。
宰相が、姿勢を、整え、私の方に、向き直った。
「——リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム調香師、ご応答を」
私は、姿勢を、整え、絨毯の中央へと、一歩、前に、進み出た。
玉座の上の、皇帝陛下が、ふだんよりも、わずかに、こちらに、目線を、傾けた。
私は、皇帝陛下に向かって、深く、頭を下げた。
そして、頭を、上げた。
——五年間、私は、怒りを、示しません。
私はそう、自分のなかで、もう一度、確かめた。
「——皇帝陛下、宰相閣下、学術四公の皆様」
私は、低く、口を、開いた。
声は、ふだんの私の調香室の中の声と、ほぼ、変わらなかった。
高くも、低くもなかった。
震えても、いなかった。
私は、ふだんの私の手の温度のままで、御前会議の場に、声を、置いていた。
「**ヴィレナの、特定例、——十二件でございます**」
私は、続けた。
「**解毒法の進捗、——七割。残り三割は、配合の精緻化と、投与法の確立**」
「**次の段階、——自然発生か、人為的拡散か、の判断のための、現地調査と、流通網の解析**」
私は、わずかに、目を、伏せた。
「——**以上、職務報告で、ございます**」
私は、深く、頭を下げ、絨毯の中央から、一歩、後ろに、戻った。
御前会議の間に、しばらく、——沈黙が、降りた。
学術四公の二人、植物学府長と、天文学府長が、互いに、目を、見合わせた。
書記官の長が、書きとめる紙の上で、ペンを、わずかに、止めた。
玉座の上の皇帝陛下が、わずかに、肘の角度を、変えた。
彼の目線は、たぶん、私の応答の、その短さを、計っていた。
そして、ガストン卿が、口を、開いた。
「——……何故、これだけ、しか、申さんのだ」
低く、けれど、いま、彼の声には、初めて、わずかな、慌てが、混ざっていた。
「これだけ、で、貴女の業績の、説明と、するつもりか」
私は、振り返らなかった。
振り返って、彼の方を、向くことは、しなかった。
私の目線は、玉座の、皇帝陛下の方を、向いたままで、答えた。
「——**事実は、これだけで、ございます**」
短く、私は、それだけを、返した。
私のなかで、それ以上の、説明の言葉は、必要なかった。
ヴィレナの特定の十二件は、薬務塔の記録に、すべて、残っている。
解毒法の七割は、白蒼苔の配合実験の、九十七回分の記録に、すべて、残っている。
次の段階の調査計画は、地図と、留め金と、宿主の証言と、マイヤー師の手記と、母の論文によって、すでに、書類入れに、整然と、まとまっている。
私が、ここで、口頭で、長々と、説明する必要は、なかった。
御前会議の間が、ふたたび、しずかになった。
皇帝陛下が、ほんの一度、わずかに、頷いた。
それは、即時の判断では、なかった。
ただ、私の応答の、形式の正しさを、彼が、受け取った、というだけの、頷きだった。
宰相が、姿勢を、整え、ガストン卿の方を、向いた。
「——ガストン卿、追加のご発言は、ございますか」
ガストン卿は、わずかに、口を、開きかけ、——そして、また、閉じた。
それから、彼は、姿勢を、整え直し、低く、声を、絞った。
「——私の主張に、対する、物的根拠について、調香学府より、ご反論を、いただきたい」
短く、彼は、自分の長広舌を、しめくくった。
たぶん、自分でも、いま、自分の長広舌が、御前会議の場で、奇妙な空洞を、作っていることを、感じ取っていた。
彼は、十五分の長広舌を、終え、そのうしろから、別の、何か、もっと具体的なものを、引き出そうと、していた。
それが、——私の、横に立つ、テオドールの、次の出番、ということだった。




